白銀鬼譚 -星見の巫女姫は愛をほどく-

「白銀を恐れて、心を殺すな」
 芹は息を呑む。
「愛が餌になるなら、愛すること自体を恐れるか?」
 天也の声は静かで、胸の奥を突くようだった。
「それでは、白銀の思う壺だ」
「でも、愛は歪むのでしょう」
「歪ませるのが白銀だ」
「では、どうすれば」
「見誤らなければいい」
 天也は芹の手を握ったまま言う。
「縛るためではなく、共に立つために想うなら、それは白銀のものではない」
 共に立つために想う。その言葉が、芹の胸へ深く染み込んだ。
 自分の天也への気持ちが、誰かを縛るものではなく、共に立ちたいという願いなら。それは、恐れなくていいのだろうか。
「神威様は」
 芹は消え入りそうな声で尋ねる。
「……私のことを、どう思っているのですか」
 口にした瞬間、自分でも息が止まった。
 踏み込みすぎた。あまりにも、まっすぐすぎる問いだった。
 けれど、一度零れてしまった言葉はもう戻らない。
 天也は驚いたように目を見開いている。
「ご、ごめんなさい……今のは――」
「大切だ」
 低い声が、静かに落ちた。
 芹の言葉が止まる。ゆっくりと顔を上げると、天也はまっすぐに芹を見ていた。
「お前が、大切だ」
 静かな声だった。けれど、その奥には隠しようのない熱があった。押し殺していたものが、ようやく零れ落ちたような声音だった。
「一度失って、戻って――それでもまた近づけば、お前を危険へ巻き込むと思った」
 翡翠の瞳が、かすかに揺れる。
「だから、距離を置こうとした」
 芹は天也を見つめる。
「でも、置けなかった」
 天也の指が、わずかに芹の手を握る。
「お前が怖がりながらも目を逸らさず、誰かを救おうとするたびに、俺はまたお前を見ていた」
 胸が震える。
「今度こそ守りたいと思った。だが、それだけでは足りないとも思った」
「足りない?」
「お前は守られるだけの女ではないだろう」
 その言葉に、涙が溢れた。
 天也はまっすぐに芹を見ている。
「共に立つ相手だ」
 芹の中で、何かがほどける音がした。
 恐怖と疑いと、言えなかった気持ちが、少しずつ解けていく。
「……私も。神威様が、大切です」
 天也の瞳が揺れた。
「怖かったです。今も怖い。でも、失いたくありません。白銀が次は神威様だと言った時、胸が潰れそうでした」
 芹は涙を拭わずに続ける。
「あなたを失いたくない」
 言ってしまった。
 もう戻れない。けれど、言えてよかったと思った。
 天也は何も言わなかった。
 ただ、ゆっくりと芹の手を両手で包んだ。
 手のひらに、天也の温もりが重なる。
 芹はその温かさに、胸がいっぱいになる。
「奴にくれてやるものなど、一つもありはしない」
 約束だった。けれど、白銀がいる以上、絶対などない。
 それでも芹は、その言葉を信じたかった。
「はい」
 小さく頷いた時、懐の櫛が淡く光った。
 芹と天也は同時に視線を落とす。
 杏樹の櫛だ。螺鈿細工の光が、星のように瞬いている。
 芹はそれを取り出した。
 櫛の表面に、細い金色の糸が見えた。
 杏樹の糸。白銀からほどけた糸。それが、芹と天也の手元へそっと伸びている。
「杏樹さま……?」
 糸は、二人の手を結ぶように淡く光った。
 まるで、見届けるように。託すように。
 芹の目にまた涙が浮かぶ。
「杏樹さまが、繋いでくれているみたいです」
 天也は櫛を見つめる。
「あいつらしい」
「はい」
 少しだけ笑えた。
 泣きながらでも。
 杏樹はきっと、からかうだろう。
 芹は櫛をそっと胸に抱いた。
「神威様」
「何だ」
「愁を助けましょう」
「ああ」
「杏樹さんに恥じない選択をしましょう」
 天也は静かに頷く。
「そうだな」
 
 その日の夕方、芹たちは今後の策を立てた。
 白銀は愁を器としている。だが、愁の本来の糸はまだ残っている。
 その結びの記憶は、裏山の祠。芹が星見の鏡を通じて見た、幼い日の記憶。
 愁を呼び戻すことができれば、白銀の糸をほどく手がかりになるかもしれない。
 問題は、白銀が天也を狙うと言ったことだった。
「次は神威様だ、と言っていました」
 芹は地図を見つめながら言う。
「神威様の後悔に巣食うつもりなのでしょうか」
「可能性は高い」
 天也は淡々と答える。だが、それがどれほど危険なことか、芹にも分かる。
 天也の後悔は、芹を守れなかったこと。ならば白銀は、芹を使って天也を揺さぶるだろう。
「私を餌にするつもりですね」
「だろうな」
「……腹が立ちます」
 思わず言うと、天也が少しだけ目を瞬かせた。
「そうか」
「はい。私も、愁も、杏樹さまも、神威様も、白銀に好き勝手に糸を弄ばれている」
 芹は拳を握る。
「絶対に、ほどいてみせます」
 天也の目がわずかに和らぐ。
「頼もしいな」
「からかわないでください」
「からかっていない」
 本当にそう思っている声だった。
 芹は少し頬を熱くする。
 楊憲が横で微笑ましそうに二人を見ていた。
「父様」
「いや、何でもないよ」
「何でもない顔ではないわ」
「芹もそういう顔をするようになったのだと思ってね」
「そういう顔?」
 楊憲はただ笑った。天也が気まずそうに視線を逸らしている。
 芹は意味が分からず首を傾げたが、すぐに気づいて顔を赤くした。
「父様」
「うん、何でもない」
 ほんの少しだけ、空気が和らいだ。
 杏樹を失った悲しみは消えないけれど、その悲しみの中でも人は息をする。
 言葉を交わし、笑い、次へ進む。それは杏樹を忘れることではない。抱えたまま歩くことだ。

 その晩、芹は杏樹の櫛を髪に差してみた。
 鏡の中の自分は、少しだけ違って見えた。繊細な意匠の櫛は黒髪に映え、星のように輝いている。
「……似合うでしょうか」
 誰にともなく呟く。
 杏樹なら、きっと笑ってこう言ってくれるはずだ。
 ――似合うよ芹ちゃん、と。
 そう想像したら、涙が出た。
 けれど今度の涙は、昨日よりも少しだけ温かかった。
「――芹」
 襖の向こうから声が聞こえたので、芹は慌てて背筋を伸ばした。声の主は天也だ。
「はい」
「少し、いいか」
「どうぞ」
 襖が開く。天也が入ってきて、芹の髪を見た瞬間、わずかに目を見開いた。
「……杏樹さまの櫛です」
「ああ」
「変ではありませんか」
「似合っている」
 即答だった。
 芹の頬が熱くなる。
「……ありがとうございます」
 天也は少しだけ目を伏せる。
「あいつもきっと、そう言うだろう」
「はい」
 芹は鏡の中の自分を見た。
 櫛を差した自分。杏樹の想いを預かった自分。天也と共に立つと決めた自分。
 もう、死に戻ったばかりの日のように震えているだけではない。
「明日、裏山の祠へ行こう」
「愁を呼ぶのですね」
「ああ。おそらく白銀も現れるだろう」
 天也は芹を見つめる。覚悟を確かめる目だった。
「今度は、私も一緒に戦います」
 天也は静かに頷いた。
「分かった」
 それだけだった。けれど、芹は確かに受け入れられたのだと思った。
 守られるだけではなく、共に立つ者として。
 夜が更けていく。
 白銀との決戦が近づいている。
 愁を救えるかどうかも分からない。天也を守れるかどうかも分からない。けれど芹の胸には、小さな光が灯っていた。
 杏樹が帰ってきた時の、あの金色の糸。天也と手を重ねた時の温かさ。愁の結びの記憶にあった、優しい薄桃色。そのすべてが、芹を支えている。
 愛は、人を縛る。けれどきっと、人を救うこともできる。その違いを見誤らないために、芹は星見の巫女姫として立たなければならない。
 芹は櫛にそっと触れた。
「見ていてください、杏樹さま。……今度は、選びます」
 窓の外で、桜が揺れた。
 まるで、誰かが笑ったように。