白銀鬼譚 -星見の巫女姫は愛をほどく-

「……どういう意味だ?」
「一度死んだのです」
 言った瞬間、部屋の空気が止まった。
 天也の瞳が微かに揺れる。
「今より一年後の春。私は、あなたと婚姻を結びました」
 天也の表情が変わった。
 驚き。困惑。けれど、それ以上に何か深いものがその瞳に浮かんだ気がして、芹の胸が痛んだ。
「縹家は没落し、父様は職を失いかけていました。そこへ神威家から援助の申し出があり、その代わりに私を花嫁に望まれたのです」
「…………」
「婚儀の日、あなたは私の手を取り、片膝をついて、手の甲に口づけをしてくださいました」
 言葉にすると、その瞬間の記憶が蘇る。
 翡翠の桜。春風。美しい人。
 ――幾久しく、よろしく頼む。
 あの低い声に、胸を高鳴らせていた自分。
「私は、その時……嬉しかったのです」
 芹は小さく笑う。
「不安もありました。でも、あなたの妻になれることが、嬉しかった。これからどんな生活が待っているのだろう、十年後も二十年後も、私を選んでよかったと思っていただけるように頑張ろうと、そう思っていました」
 天也は黙っている。
「でも、その夜」
 喉が詰まる。肩が、あの時の痛みを思い出したように疼いた。
「私は殺されました」
 天也の手が、膝の上で強く握られる。
「……誰にだ」
 芹は目を伏せる。
「分かりません」
「分からない?」
「顔を見ていないのです」
 芹は震える声で言った。
「夜の支度を終え、部屋であなたを待っていました。そこへ誰かが入ってきて……私は肩を斬られました」
 左肩に手をやる。傷はないけれど、痛みはある。
「顔を上げようとした時には、もう……」
 声が途切れた。部屋が揺れるような感覚がした。
「さいごに見たのは、白い装束と、翡翠色の刀だけでした。……だから、私は」
 芹は顔を上げ、涙で滲む視界いっぱいに天也を映した。
「あなたを疑いました」
 ついに、言ってしまった。
「この人が私を殺したのかもしれないと。あの夜、あの部屋へ来るはずだったのはあなたしかいないから。刀を持っていたから。だから、あなたを怖いと思いました」
 天也は動かない。
 怒るだろうか。傷つくだろうか。
 当然だ。自分を下手人として疑っていたのだ。けれど天也は、怒らなかった。ただ、ひどく苦しそうに息を吐いた。
「……そうか」
 それだけだった。その声があまりにも静かで、芹の方が耐えられなくなる。
「ごめんなさい」
「謝るな」
「でも」
「お前は殺された。そう見えたなら、疑うのは当然だ」
「でも、神威様は」
「俺ではない」
 天也ははっきりと言った。
 芹の胸が震える。
「俺は、お前を殺していない」
 その言葉は、静かで、強かった。
 芹は涙をこぼしながら頷いた。
「今は、そう思っています」
 天也の瞳が、芹を見る。
「今は?」
「はい」
 芹は震えながら言った。
「最初は怖かった。でも、あなたを知るたびに、違うと思うようになりました。あなたは、人を守る人です。怖いものを怖いと言いながら、それでも前へ立つ人です。誰かを傷つけるために刀を振るう人ではない」
 天也の表情が、わずかに歪む。
「だから、信じたいと思いました」
「……信じたい、か」
「はい」
「信じる、ではなく」
 芹は息を呑む。痛む胸を押さえながら、震える唇を開いた。
「まだ、全部が怖いのです。……あの夜の痛みも、血も、翡翠の刀も、忘れられない。でも、それでもあなたを信じたい」
 天也は何も言わなかった。
 長い沈黙が落ちる。その静けさが、かえって胸を締めつけた。
 やがて――天也が、静かに口を開く。
「それでいい」
 芹は顔を上げる。
「無理に怖さを消す必要はない。疑いをなかったことにする必要もない」
 天也はまっすぐに芹を見る。
「それでも信じたいと思うなら、その選択を疑うな」
 胸が震えた。
「……はい。私は、あなたを信じたいです」
 今度は、はっきりと言えた。
 天也は少しだけ目を伏せる。その表情が、ひどく痛ましかった。
「次は、俺が話す番だな」
 芹の胸が強張る。
「はい」
 天也はしばらく沈黙したのちに、形の良い唇を開いた。