杏樹の葬送が行われたのは、腹が立つほど綺麗な春の日だった。
薄青い空の下、桜の花びらが風に乗って舞っている。庭の草木は朝露に濡れ、世界は何事もなかったかのように美しかった。
けれど、杏樹はもういない。昨日までそこにいた人が、もう笑わない。軽やかな声で芹の名を呼ぶこともない。ただいま、と言ってくれることもない。その事実が、まだうまく胸に落ちてこなかった。
芹は両手で櫛を握りしめていた。黒漆の艶の中に、貝の光が星のように散っている。見る角度によって青にも紫にも光るそれは、杏樹が未来の花嫁へ贈るつもりだったもの。けれど今は、芹の手の中にある。
――預かってて。すぐ取りに戻るから。
その言葉も、もう果たされない。
「……杏樹さま」
呼んでも返事はなかった。
香の煙が空へ昇っていく。その細い白が春霞に溶けていく様を、芹は瞬きも忘れて見つめていた。
泣きすぎて、もう涙は出ないと思っていた。けれど、煙が薄れていくたび、胸の奥からまた熱いものが込み上げてくる。
「忘れません」
芹は櫛を胸に抱く。
「絶対に、忘れません」
隣に立つ天也は、何も言わなかった。ただ静かに、同じ煙を見上げている。
その横顔はいつも通りに見えたけれど、芹には分かる。
天也も傷ついている。杏樹を失った痛みを、言葉にせず抱えている。
――杏樹。
天也が杏樹をそう呼ぶ声を、もう聞けないのだと思うと、胸が締めつけられた。
楊憲が弔いの言葉を終え、鬼狩りたちが深く頭を下げる。
誰も大声では泣かない。けれど、皆それぞれの形で杏樹の死を悼んでいた。
杏樹は軽い男のように見えて、たくさんの人に好かれていたのだと、芹は今さら知った。
誰にでも気軽に声をかけ、困っている者がいれば笑いながら手を貸し、重い空気を軽くしてしまう人。けれど、その明るさの奥で、彼はずっと孤独だった。
何度も時間を繰り返し、何度も誰かを失い、何度も後悔して。それでも最後に、ただいまと言ってくれた。帰ってきてくれた。
(……私は)
救えたのだろうか。
白銀から杏樹の糸をほどくことはできた。けれど杏樹は死んだ。
それは救いと呼べるのだろうか。
考えても答えは出ない。ただ、杏樹が最後に笑ったことだけが、芹の中に残っている。
泣きながら、笑ってくれた。ならば、少なくとも白銀に奪われたままではなかったのだと、そう思いたかった。
葬送が終わったあと、芹はしばらく庭に立っていた。
誰も声をかけなかった。父も、天也も。ただ、静かにそばにいてくれた。
やがて、鬼狩りたちが帰り、楊憲も屋敷の中へ戻り、庭には芹と天也だけが残った。
風が吹いて、桜の花びらがひとひら、櫛の上に落ちた。
芹はそれをそっと払う。
「……神威様」
「何だ」
天也の声は低い。けれど、いつもより少し掠れていた。
「杏樹さまは、帰ってこられたのでしょうか」
天也はすぐには答えなかった。
芹は櫛を握りしめる。
「私のところへ。ただいまって、言いに」
「ああ。あいつは帰ってきた」
その言葉で、芹の目から涙が落ちた。
「……よかった」
よかった、などと言える結末ではない。
けれどそれでも。白銀に奪われ、後悔に沈んだままではなかったのなら。最後に帰りたい場所へ帰れたのなら。
「よかった、です」
声が震える。
天也は何も言わなかった。ただ、芹が泣くのを止めなかった。
しばらくして、芹は涙を拭った。泣いてばかりはいられない。
杏樹は、ちゃんと見ろと言った。天也を。白銀を。そして、自分自身を。
「神威様」
芹は顔を上げる。
「昨日、約束しましたよね」
天也の瞳が、静かに芹を見た。
「ああ」
「私が話せば、神威様も話してくださると」
「そうだな」
「今、話します」
声は震えていた。けれど、逃げるつもりはなかった。
杏樹が死んだ。それでも世界は止まらない。
白銀は次に天也を狙うと言った。ならばもう、隠したままではいられない。
芹は自分の中にある恐怖も疑いも、すべて差し出さなければならない。
「中へ入ろう。ここは冷える」
「……はい」
二人は、蔵の隣にある小さな座敷へ入った。
そこは普段あまり使われていない部屋だった。庭に面した障子から光が差し込み、畳の上に桜の影が揺れている。
芹は座布団に腰を下ろした。向かいに天也が座る。
ほんの少し距離がある。けれど、その距離が今はありがたかった。
近すぎると、きっと話せなくなる。
芹は膝の上で手を握りしめた。
櫛は、懐にしまってある。杏樹が見ていてくれるような気がした。
「……信じられない話かもしれません」
芹は口を開く。
「私自身、今でも信じきれていないところがあります」
「聞こう」
芹は一呼吸置いてから、天也と向き直った。
「――わたし、殺されたのです」
薄青い空の下、桜の花びらが風に乗って舞っている。庭の草木は朝露に濡れ、世界は何事もなかったかのように美しかった。
けれど、杏樹はもういない。昨日までそこにいた人が、もう笑わない。軽やかな声で芹の名を呼ぶこともない。ただいま、と言ってくれることもない。その事実が、まだうまく胸に落ちてこなかった。
芹は両手で櫛を握りしめていた。黒漆の艶の中に、貝の光が星のように散っている。見る角度によって青にも紫にも光るそれは、杏樹が未来の花嫁へ贈るつもりだったもの。けれど今は、芹の手の中にある。
――預かってて。すぐ取りに戻るから。
その言葉も、もう果たされない。
「……杏樹さま」
呼んでも返事はなかった。
香の煙が空へ昇っていく。その細い白が春霞に溶けていく様を、芹は瞬きも忘れて見つめていた。
泣きすぎて、もう涙は出ないと思っていた。けれど、煙が薄れていくたび、胸の奥からまた熱いものが込み上げてくる。
「忘れません」
芹は櫛を胸に抱く。
「絶対に、忘れません」
隣に立つ天也は、何も言わなかった。ただ静かに、同じ煙を見上げている。
その横顔はいつも通りに見えたけれど、芹には分かる。
天也も傷ついている。杏樹を失った痛みを、言葉にせず抱えている。
――杏樹。
天也が杏樹をそう呼ぶ声を、もう聞けないのだと思うと、胸が締めつけられた。
楊憲が弔いの言葉を終え、鬼狩りたちが深く頭を下げる。
誰も大声では泣かない。けれど、皆それぞれの形で杏樹の死を悼んでいた。
杏樹は軽い男のように見えて、たくさんの人に好かれていたのだと、芹は今さら知った。
誰にでも気軽に声をかけ、困っている者がいれば笑いながら手を貸し、重い空気を軽くしてしまう人。けれど、その明るさの奥で、彼はずっと孤独だった。
何度も時間を繰り返し、何度も誰かを失い、何度も後悔して。それでも最後に、ただいまと言ってくれた。帰ってきてくれた。
(……私は)
救えたのだろうか。
白銀から杏樹の糸をほどくことはできた。けれど杏樹は死んだ。
それは救いと呼べるのだろうか。
考えても答えは出ない。ただ、杏樹が最後に笑ったことだけが、芹の中に残っている。
泣きながら、笑ってくれた。ならば、少なくとも白銀に奪われたままではなかったのだと、そう思いたかった。
葬送が終わったあと、芹はしばらく庭に立っていた。
誰も声をかけなかった。父も、天也も。ただ、静かにそばにいてくれた。
やがて、鬼狩りたちが帰り、楊憲も屋敷の中へ戻り、庭には芹と天也だけが残った。
風が吹いて、桜の花びらがひとひら、櫛の上に落ちた。
芹はそれをそっと払う。
「……神威様」
「何だ」
天也の声は低い。けれど、いつもより少し掠れていた。
「杏樹さまは、帰ってこられたのでしょうか」
天也はすぐには答えなかった。
芹は櫛を握りしめる。
「私のところへ。ただいまって、言いに」
「ああ。あいつは帰ってきた」
その言葉で、芹の目から涙が落ちた。
「……よかった」
よかった、などと言える結末ではない。
けれどそれでも。白銀に奪われ、後悔に沈んだままではなかったのなら。最後に帰りたい場所へ帰れたのなら。
「よかった、です」
声が震える。
天也は何も言わなかった。ただ、芹が泣くのを止めなかった。
しばらくして、芹は涙を拭った。泣いてばかりはいられない。
杏樹は、ちゃんと見ろと言った。天也を。白銀を。そして、自分自身を。
「神威様」
芹は顔を上げる。
「昨日、約束しましたよね」
天也の瞳が、静かに芹を見た。
「ああ」
「私が話せば、神威様も話してくださると」
「そうだな」
「今、話します」
声は震えていた。けれど、逃げるつもりはなかった。
杏樹が死んだ。それでも世界は止まらない。
白銀は次に天也を狙うと言った。ならばもう、隠したままではいられない。
芹は自分の中にある恐怖も疑いも、すべて差し出さなければならない。
「中へ入ろう。ここは冷える」
「……はい」
二人は、蔵の隣にある小さな座敷へ入った。
そこは普段あまり使われていない部屋だった。庭に面した障子から光が差し込み、畳の上に桜の影が揺れている。
芹は座布団に腰を下ろした。向かいに天也が座る。
ほんの少し距離がある。けれど、その距離が今はありがたかった。
近すぎると、きっと話せなくなる。
芹は膝の上で手を握りしめた。
櫛は、懐にしまってある。杏樹が見ていてくれるような気がした。
「……信じられない話かもしれません」
芹は口を開く。
「私自身、今でも信じきれていないところがあります」
「聞こう」
芹は一呼吸置いてから、天也と向き直った。
「――わたし、殺されたのです」

