「……芹」
芹は顔を上げる。涙で視界が歪み、天也の顔が朧げだ。
「神威様。私……ほどけたのでしょうか」
杏樹の糸を、白銀から。
けれど、杏樹は死んだ。これで本当に、救えたと言えるのだろうか。
天也はすぐには答えなかった。黙って膝をつき、芹の前に座る。
「分からない」
泣きそうなくらい優しい声に、芹の涙がまたひとつふたつとこぼれ落ちる。
「だが、あいつは最後に帰ってきただろう」
芹は櫛を見下ろす。
杏樹はただいまと言った。
白銀に絡め取られたまま死んだのではない。後悔に沈んだままではなく、帰ると言って、芹のもとへ帰ってきた。
それでも、死はあまりに重い。受け入れることなどできなかった。
「嫌です」
芹は泣いた。
「こんなの、嫌です」
「ああ」
「私は、助けたかった。生きて、帰ってきてほしかった」
「……ああ」
天也は否定しなかった。泣くなとも言わなかった。
ただ、そこにいてくれた。芹の悲しみを、急かさず、薄めず、受け止めてくれた。
やがて楊憲が近づき、杏樹の顔にそっと布をかけた。
芹は櫛を胸に抱いた。
(……杏樹さま)
忘れない。絶対に。
あなたが笑っていたこと。軽口を叩いていたこと。何度も失って、何度も後悔して、それでも最後に帰ってきてくれたこと。未来の花嫁に渡すはずだった櫛を、芹へ託してくれたこと。
杏樹の身体を縹家へ運ぶまで、芹はずっと櫛を離さなかった。天也も何も言わなかった。
その夜、縹家の屋敷は静まり返っていた。
杏樹は客間に安置された。楊憲が弔いの支度をし、天也は詰所へ知らせを出した。
芹は自分の部屋に戻っても、眠ることができなかった。櫛を膝の上に置き、ただ見つめていた。
「……ごめんなさい」
杏樹は謝るなと言うだろうか。それとも、また困ったように笑うだろうか。
その時、襖の向こうに気配がした。
「芹」
天也の声だった。
「……はい」
「入ってもいいか」
「どうぞ」
襖が開き、天也が入ってきた。いつもの黒い装束ではなく、藍色の着流しを着ている。
「眠れないのか」
「眠れるはずがありません」
「そうだな」
天也は芹の前に腰を下ろし、櫛に目を向けた。
「杏樹らしいな」
「……そう、ですか」
「ああ」
「杏樹さまは、いつも笑っていましたね」
「ああ」
「でも、本当はずっと苦しかった」
「……ああ」
天也の声も、少しだけ低くなる。
「俺も、気づいていた。だが踏み込めなかった」
「神威様のせいではありません」
「そうだとしても、後悔は残る」
芹は顔を上げた。
天也の横顔に、深い影が落ちている。
白銀は言っていた。次は天也だと。天也にも、白銀が巣食えるだけの後悔があるのだろうか。
守れなかった誰か。失いたくない誰か。それは――。
「神威様」
「何だ」
「白銀が言っていました。……次は神威様だと」
天也は黙った。その沈黙が、芹を不安にさせる。
「心当たりがあるのですか」
「そうだな」
「それは――」
「今は言えない」
その言葉に、芹は杏樹を思い出した。
今は言えない。言えば壊れる。そんな言葉ばかりだ。
芹は櫛を握りしめる。
「言ってください」
「……芹」
「杏樹さまは、言えないまま逝ってしまいました。だから、もう嫌です。知らないまま失うのは嫌です」
天也の瞳が揺れた。
芹は涙を堪えながら続ける。
「神威様まで、何も言わないままいなくなるのは嫌です」
言ってから、自分の言葉に気づいた。
嫌だ。天也を失うのが嫌だ。その感情が、はっきりと形を持ってしまった。
天也は静かに芹を見ていた。
長い沈黙が落ちた。重たく張り詰めた空気の中で、誰も動けない。
やがて――低い声が、静かに零れた。
「お前も、まだ言っていないことがあるだろう」
天也の瞳は、まっすぐ芹を捉えている。
「俺を疑っていた理由だ」
芹は息を呑む。
あの夜。死に戻り。婚儀。殺されたこと。すべてが胸の奥で渦を巻く。
「……はい。あります」
「ならば、俺も話そう」
「え?」
「お前が話す時、俺も話す」
それは、交換のようでいて、約束のようだった。
芹は天也を見つめる。
「逃げませんか」
「逃げない」
「隠しませんか」
「隠さない」
「本当に?」
「ああ」
天也の声は少しも揺らがない。その静かな強さに触れた瞬間、芹の胸にも、かすかに熱が戻った。
「……分かりました」
芹は櫛を胸に抱きしめる。
「話します」
今すぐではない。けれど、近いうちに。
自分が一度死んだことを。天也を疑っていた理由も、すべて。
「杏樹さまが、ちゃんと見ろと言ってくれました。だから、私も逃げません」
天也は静かに頷いた。
「俺もだ」
その夜、芹は泣き疲れて眠った。
夢の中で、杏樹が笑っていた。血の中ではない。桜の下で。いつものように軽く手を振って。
──ただいま。
芹は泣きながら答えた。
──お帰りなさい。
杏樹は少し困ったように笑って、春の光の中へ消えていった。
芹は顔を上げる。涙で視界が歪み、天也の顔が朧げだ。
「神威様。私……ほどけたのでしょうか」
杏樹の糸を、白銀から。
けれど、杏樹は死んだ。これで本当に、救えたと言えるのだろうか。
天也はすぐには答えなかった。黙って膝をつき、芹の前に座る。
「分からない」
泣きそうなくらい優しい声に、芹の涙がまたひとつふたつとこぼれ落ちる。
「だが、あいつは最後に帰ってきただろう」
芹は櫛を見下ろす。
杏樹はただいまと言った。
白銀に絡め取られたまま死んだのではない。後悔に沈んだままではなく、帰ると言って、芹のもとへ帰ってきた。
それでも、死はあまりに重い。受け入れることなどできなかった。
「嫌です」
芹は泣いた。
「こんなの、嫌です」
「ああ」
「私は、助けたかった。生きて、帰ってきてほしかった」
「……ああ」
天也は否定しなかった。泣くなとも言わなかった。
ただ、そこにいてくれた。芹の悲しみを、急かさず、薄めず、受け止めてくれた。
やがて楊憲が近づき、杏樹の顔にそっと布をかけた。
芹は櫛を胸に抱いた。
(……杏樹さま)
忘れない。絶対に。
あなたが笑っていたこと。軽口を叩いていたこと。何度も失って、何度も後悔して、それでも最後に帰ってきてくれたこと。未来の花嫁に渡すはずだった櫛を、芹へ託してくれたこと。
杏樹の身体を縹家へ運ぶまで、芹はずっと櫛を離さなかった。天也も何も言わなかった。
その夜、縹家の屋敷は静まり返っていた。
杏樹は客間に安置された。楊憲が弔いの支度をし、天也は詰所へ知らせを出した。
芹は自分の部屋に戻っても、眠ることができなかった。櫛を膝の上に置き、ただ見つめていた。
「……ごめんなさい」
杏樹は謝るなと言うだろうか。それとも、また困ったように笑うだろうか。
その時、襖の向こうに気配がした。
「芹」
天也の声だった。
「……はい」
「入ってもいいか」
「どうぞ」
襖が開き、天也が入ってきた。いつもの黒い装束ではなく、藍色の着流しを着ている。
「眠れないのか」
「眠れるはずがありません」
「そうだな」
天也は芹の前に腰を下ろし、櫛に目を向けた。
「杏樹らしいな」
「……そう、ですか」
「ああ」
「杏樹さまは、いつも笑っていましたね」
「ああ」
「でも、本当はずっと苦しかった」
「……ああ」
天也の声も、少しだけ低くなる。
「俺も、気づいていた。だが踏み込めなかった」
「神威様のせいではありません」
「そうだとしても、後悔は残る」
芹は顔を上げた。
天也の横顔に、深い影が落ちている。
白銀は言っていた。次は天也だと。天也にも、白銀が巣食えるだけの後悔があるのだろうか。
守れなかった誰か。失いたくない誰か。それは――。
「神威様」
「何だ」
「白銀が言っていました。……次は神威様だと」
天也は黙った。その沈黙が、芹を不安にさせる。
「心当たりがあるのですか」
「そうだな」
「それは――」
「今は言えない」
その言葉に、芹は杏樹を思い出した。
今は言えない。言えば壊れる。そんな言葉ばかりだ。
芹は櫛を握りしめる。
「言ってください」
「……芹」
「杏樹さまは、言えないまま逝ってしまいました。だから、もう嫌です。知らないまま失うのは嫌です」
天也の瞳が揺れた。
芹は涙を堪えながら続ける。
「神威様まで、何も言わないままいなくなるのは嫌です」
言ってから、自分の言葉に気づいた。
嫌だ。天也を失うのが嫌だ。その感情が、はっきりと形を持ってしまった。
天也は静かに芹を見ていた。
長い沈黙が落ちた。重たく張り詰めた空気の中で、誰も動けない。
やがて――低い声が、静かに零れた。
「お前も、まだ言っていないことがあるだろう」
天也の瞳は、まっすぐ芹を捉えている。
「俺を疑っていた理由だ」
芹は息を呑む。
あの夜。死に戻り。婚儀。殺されたこと。すべてが胸の奥で渦を巻く。
「……はい。あります」
「ならば、俺も話そう」
「え?」
「お前が話す時、俺も話す」
それは、交換のようでいて、約束のようだった。
芹は天也を見つめる。
「逃げませんか」
「逃げない」
「隠しませんか」
「隠さない」
「本当に?」
「ああ」
天也の声は少しも揺らがない。その静かな強さに触れた瞬間、芹の胸にも、かすかに熱が戻った。
「……分かりました」
芹は櫛を胸に抱きしめる。
「話します」
今すぐではない。けれど、近いうちに。
自分が一度死んだことを。天也を疑っていた理由も、すべて。
「杏樹さまが、ちゃんと見ろと言ってくれました。だから、私も逃げません」
天也は静かに頷いた。
「俺もだ」
その夜、芹は泣き疲れて眠った。
夢の中で、杏樹が笑っていた。血の中ではない。桜の下で。いつものように軽く手を振って。
──ただいま。
芹は泣きながら答えた。
──お帰りなさい。
杏樹は少し困ったように笑って、春の光の中へ消えていった。

