白銀鬼譚 -星見の巫女姫は愛をほどく-

 外は春の匂いに満ちていた。
 柔らかな陽射しの中、道端には小さな花がいくつも咲き、風が吹くたびに青い匂いが胸の奥まで入り込んでくる。
 自分は一度、確かに死んだ。あの瞬間の冷たさも、喉の奥に広がった鉄の味も、目に映る世界がごろりと転がっていったあの感覚も、今も身体の奥深くにこびりついて離れないというのに。
 目を覚ました時には、神威天也に嫁ぐ一年前へと戻っていた。
 こんなことを口にすれば誰も信じないだろうし、自分でさえ未だに夢を見ているのではないかと思ってしまう。
 だが、左肩に触れるたび、そこには何もないはずなのに、あの時の痛みがじくじくと疼く気がするのだ。首筋に手をやれば、今にもそこから血が流れ出してしまいそうな錯覚さえする。
 あれは夢ではない。夢であるには、あまりにも鮮明すぎた。
(……あの時)
 婚儀の夜。侍女たちに夜の支度を整えられ、芹は天也を待っていた。だが、芹は殺されてしまった。
 あの時、芹は下手人の顔を見ていない。
 肩を斬られた痛みに混乱し、ようやく顔を上げた時にはもう、視界は傾いていて、まともにその姿を捉えることはできなかった。
 ただ、白い装束と、翡翠の色をした刀だけが、脳裏に焼きつくように残っている。
(……神威天也様、だったのかしら)
 あの夜、あの部屋へ来るはずだったのは、天也しかいない。ならば、自分を殺したのはやはり天也なのではないだろうか。
 婚儀の最中、あれほど優しく微笑んでくれた人が。片膝をつき、手の甲へ口づけを落としてくれた人が、本当にそんなことをするのだろうか。
 信じたくはないけれど、芹を斬り、畳に突き立てられていた刀は、天也の瞳と同じ色を帯びていた。
(……確かめなくては)
 誰が自分を殺したのだろうか。答えを探すように歩いているうちに、いつの間にか都の門が見えていた。
 人々の話し声。荷車の軋む音。団子の香ばしい匂い。朝の都は変わらず賑やかで活気に満ち、そのことが妙に懐かしく感じられる。
 たった一度死んだだけなのに、まるで何年も遠くへ行っていたような気がした。
「……まずは、何から調べるべきかしら」
 ぽつりと呟く。知りたいことは山ほどあるのに、何ひとつ手が届かない。
 そんなふうに立ち止まっていた、その時だった。
 ひゅ、と。風を裂くような音がした。
「──っ!」
 反射的に振り返る。
 次の瞬間、黒い影が目の前を駆け抜け、人々の悲鳴が辺りに響き渡った。
「鬼だ!」
「逃げろ!」
 ざわりと人の波が揺れる。
 昼だというのに。都の真ん中だというのに。獣のような唸り声をあげながら、人の形を歪めたものがそこに立っていた。
 煤けたように黒い肌。裂けた口元から覗く鋭い牙には、まだ新しい血がこびりついている。
 ──鬼。夜になると現れ、人を喰らうもの。本来なら、日が高いうちは姿を見せないはずの存在。
「どうして……」
 芹の足が竦む。
 逃げなければ。そう思うのに、身体が動かなかった。
 鬼の濁った目が、まっすぐにこちらを向く。
 狙われている。そう気づいた瞬間には、もう遅かった。
 鬼が地を蹴る。鋭い爪が、芹の喉元を裂こうと迫ってくる。
(──死ぬ)
 また、あの夜と同じように。
 何もできないまま、何ひとつ知らないまま。
 ぎゅっと目を閉じた、その瞬間だった。
 甲高い金属音が響いた。強い風が巻き起こり、結い上げた髪がふわりと揺れる。次いで、どさりと重いものが倒れる音がした。
 恐る恐る目を開けると、陽の光を受けてきらめく、亜麻色の髪があった。抜き放たれた刀の先から、赤黒い雫がひとつ、ぽたりと地面に落ちる。
 芹は息を呑んだ。
 婚儀の夜よりも前、まだ花嫁になる前の時間。それなのに、目の前にいるこの人は、あの日と何ひとつ変わらず美しかった。
 いや、違う。今はまだ、芹のことなど何ひとつ知らない。
 春の景色の中に立つその姿は、そこにいるのにそこにいないような柔い儚さを纏っていた。
「────」
 芹の胸を打ったのは、ときめきではなかった。ぞくりと背筋を這い上がる、冷たい恐怖だ。
 翡翠の刀。あの夜、自分の肩を裂き、首を落とした刃と同じ色。
(この人が……?)
 違うかもしれない。けれど、違わないかもしれない。疑いと恐れが、喉をきつく締めつける。
 天也は倒れた鬼を一瞥し、それから静かに芹へと視線を向けた。
 翡翠の瞳が、まっすぐにこちらを射抜く。逃げたいのに、目が逸らせない。
「怪我は」
 低い声が、静かに落ちる。その声音は驚くほど凪いでいて、人らしかった。
 芹は何も答えられなかった。ただ、その人を見上げることしかできない。
 この人が、自分の夫になるはずだった人。もしかしたら、自分を殺したかもしれない人。
 信じたいけれど、信じきれない。
 そのことが、どうしようもなく苦しかった。