白銀鬼譚 -星見の巫女姫は愛をほどく-

 杏樹の腹部から血が流れていた。着物を濃く染めながら、赤がじわりと滲んでいく。
 傷は深い。先ほどまで白銀の霧に隠され、見えていなかった傷だった。
「……っ」
 芹の手が、小さく震える。
「嫌……」
「芹ちゃん」
「嫌です。そんなこと言わないで」
「ごめんね」
「謝らないでください。……杏樹さま、帰るって言いました。約束しました」
 杏樹は苦しげに頷く。
「だから、今言うね」
 嫌な予感がして、芹は首を振る。
「駄目です」
「ただいま」
 杏樹は笑った。泣きそうなくらい優しい微笑みだった。
 芹はほろほろと涙をこぼしながら、震える唇を開いた。
「お帰りなさい」
 そう返すと、杏樹の顔が少しだけ安堵したように緩んだ。
「ああ……よかった」
「よくありません」
「うん。そうだね」
 白銀と天也の刃がぶつかる音が遠くで響いている。けれど芹には、杏樹の呼吸の音しか聞こえなかった。
「芹ちゃん」
「話さないでください」
「話させて」
「嫌です」
「お願い」
 杏樹が震える手を伸ばし、芹が握っている櫛へ触れた。
「それ」
「預かっているだけです。杏樹さまが取りに戻るって」
「うん」
 杏樹は小さく笑う。
「これ、俺の未来の花嫁にあげようと思ってたやつなんだけどね」
 杏樹の白い指先が、濡れ羽色の櫛をそっと撫でる。この世で一番大切なものに触れるかのような、優しい手つきだった。
「それは、叶いそうにないから……芹ちゃんにあげるね」
「嫌です」
 涙が止まらない。
「そんな言い方、しないでください」
「……ごめん」
「謝らないでくださいって、何度も」
「うん」
 杏樹は目を細めた。
「でも、ありがとう。お帰りって、言ってくれて」
 芹は首を振る。
「これからも言います。だから」
「うん」
「だから、帰ってきてください」
 杏樹の瞳が揺れた。けれどもう、そこから力が抜けていくのが分かった。
「……天也」
 杏樹の声で、戦っていた天也が一瞬だけこちらを見る。
 白銀は霧の中へ引いたらしく、周囲の鬼も消えかけていた。
 天也が翡翠刀を握ったまま、迷いなく杏樹のそばへ膝をつく。
「……杏樹」
「ごめん」
「黙れ」
「怒ってる?」
「黙れと言っただろう」
 天也の声が低く落ちる。怒っているのだと分かった。けれどその声音は震えていた。
 杏樹はそんな天也を見上げ、ふっと笑う。
「天也がそんな顔するの、珍しいね」
「喋るな」
「最後くらい、喋らせてよ」
「最後ではない」
 天也の言葉に、杏樹は少しだけ目を伏せた。
「……そう言ってくれるんだ」
「当たり前だ」
「そっか」
 杏樹は満足そうに笑った。
「芹ちゃんを、頼むね」
「お前が言うな」
「うん。でも、言わせて」
 天也は何も言わずに、拳を握りしめている。
 杏樹は芹を見て、消え入りそうな微笑みを飾った。
「芹ちゃん」
「はい」
「天也を、ちゃんと見てあげて」
 涙で視界が滲む。
「……はい」
「疑ってもいいから。怖がってもいいから。でも、見誤らないで」
 天也と同じ言葉。
 芹は泣きながら頷いた。
「杏樹さまも、ちゃんと見ます」
「俺?」
「はい。私は、あなたを忘れません」
 杏樹の目が大きく揺れた。それから、くしゃりと顔を歪める。
「……それ、一番困るやつ」
「困ってください」
「強いなぁ」
「杏樹さまが、そう言ってくれたので」
 杏樹は小さく笑った。その笑みが、少しずつ薄れていく。
「芹ちゃん」
「はい」
「もし、次があるなら」
 次。
 その言葉に、芹の胸が震えた。
 杏樹は続ける。
「俺のこと、もう少し早く見つけて」
「…………」
「できればさ」
 声が弱くなる。
「――今度は、ちゃんと好きだって言わせて」
 杏樹の目から、最後の涙が零れる。
「……言えなかったんだ。ずっと」
 芹は何も言えなかった。
 胸がいっぱいで、言葉にならない。
 杏樹は芹の手に、自分の手を重ねた。
 櫛を握る手。
「それまで、預かってて」
「……はい」
「ありがと」
 杏樹の手から力が抜けていく。
「杏樹さま」
 芹は呼ぶ。
「杏樹さま」
「……うん」
 微かな返事。
「お帰りなさい」
 杏樹は笑った。それが最後だった。
 次の瞬間、彼の手が静かに落ちた。
 音が消えた世界に、桜の花びらが舞い落ちる。夕暮れの光は杏樹の髪を淡く照らしていた。
 まるで眠っているようだった。けれど、胸はもう上下していない。
「……いや」
 小さく声が漏れる。
「いや、杏樹さま」
 揺すってはいけないと分かっているのに、芹は杏樹の肩に手を置いた。
「起きてください。ただいまって、言ってください」
 返事はない。
「また、お帰りなさいって言いますから」
 返事はない。
 芹は櫛を握りしめたまま、杏樹の胸に顔を伏せた。
 涙が溢れる。止まらない。
 どうして。
 どうしてまた、失うのだろう。
 せっかく帰ってきてくれたのに。ただいまって言ってくれたのに。
「白銀……」
 天也の声が低く響いた。そこには、今まで聞いたことのない怒りがあった。
 霧の向こうから、白銀の笑い声が聞こえる。
「美しいな。ほどけた愛は、死してなお残る」
「絶対にお前を殺す」
 その一言に、芹は顔を上げた。
 天也の瞳が、燃えるように鋭い。けれど白銀は笑うだけだった。
「斬ればよい。だが私は消えぬ。お前たちが愛し、悔い、求める限り」
 霧が薄れ、白銀の姿も消えようとしていた。
「星見の娘。お前は一つほどいた。だが、まだ足りぬ」
 赤い瞳が芹を見る。
「次は、そこの鬼狩りだ」
 その言葉を残し、白銀は消えた。
 冷たい風だけが残る。
 芹は杏樹の櫛を握ったまま、震えていた。
 天也がゆっくり振り返った。怒りを押し殺した顔だ。けれど、芹を見た瞬間、その瞳に痛みが浮かんだ。