「杏樹さま!」
芹は鏡を取り出した。
天也の言葉を思い出す。鏡を使う時は必ず声をかけること。
「神威様、鏡を使います!」
天也は鬼と斬り結びながらも、短く答えた。
「俺の声を聞け!」
「はい!」
芹は鏡を覗き込む。
杏樹の糸が見える。美しい金色のそれは、ところどころ切れかけていた。そこに白銀の銀糸が絡みつき、過去の記憶へ引きずり込もうとしているようだ。
(杏樹さんの結びの記憶を)
芹は意識を澄ませる。
(見せて)
鏡の光が揺れ、景色が変わった。
血の匂い。崩れた屋敷。赤く燃える空。そこに、杏樹がいた。
彼の腕の中には芹がいた。その胸元は血で染まっている。
芹は息を呑む。
これは、杏樹が言っていた過去なのだろうか。
芹を助けられなかったという時間。
杏樹は血に濡れた芹を抱きしめ、何度も名前を呼んでいた。
――芹ちゃん。起きてよ、お願いだから。
芹は動かない。
杏樹は顔を歪め、二つの目からはらはらと涙をこぼしていた。
――ごめん、俺が選べなかったから。
景色が揺れる。
次に見えたのは、別の春だった。
杏樹が芹の前で笑っている。軽く、明るく。
けれど芹の知らない顔だ。その世界の芹は、杏樹ととても親しいようだった。
笑っていた。杏樹も笑っている。だが、その後ろには銀の糸が揺れていた。
白銀の影。そしてまた、血。
また、芹の死。
何度も。
何度も。
杏樹は手を伸ばし、届かず、芹を失っていた。
(……こんな)
芹の胸が潰れそうになる。
杏樹はこれを覚えているのだ。芹が覚えていない死を、何度も。助けられなかった時間を、何度も。
だから笑っていた。壊れないように。崩れないように。
芹は涙を堪え、さらに奥を見る。
杏樹の結びの記憶。そこには、血ではなく、穏やかな光があった。
夕暮れの茶屋。
杏樹が芹に団子を差し出している。
――緊張してると、余計疲れるよ。
あの時の声。出会ったばかりのはずなのに、どこか懐かしかった微笑み。
杏樹の糸は、その記憶で温かく光っていた。守れなかった後悔だけではない。杏樹の中には、芹と笑っていた時間もある。
何度失っても、それでもまた出会いたいと思った時間がある。
(……杏樹さま)
芹は糸へ手を伸ばす。
今度は、銀の糸を無理に剥がさないよう、金色の糸へ触れる。
(あなたは、見殺しにしただけの人ではありません)
心の中で呼びかける。
(あなたは、何度も私を助けようとしてくれた)
銀の糸がざわめき、白銀の声が響いた。
――助けられなかったのなら、同じことだ。
(違う)
芹は首を振る。
(違います)
杏樹の金色の糸が震える。現実の杏樹が、苦しげに顔を上げた。
「芹、ちゃん……?」
「杏樹さま!」
芹は鏡を抱きしめる。
「聞こえますか!」
「……聞こえるよ」
「あなたは、私を見殺しにした人ではありません」
声が震える。
「何度も、助けようとしてくれた人です」
「でも、助けられなかった」
「それでも! 助けようとしてくれたことまで、なかったことにしないでください!」
白銀の霧が揺れる。銀の糸が杏樹を強く締め上げ、杏樹が呻いた。
「杏樹ッ!」
天也が鬼を斬り伏せ、杏樹へ向かおうとする。だが、白銀がその前に立った。
「甘い言葉だ。だが、後悔は消えぬ」
「消えなくていい!」
芹は恐怖を抱きながらも、白銀を睨んだ。
「消えなくていいのです。後悔したままでも、前を向いていい。忘れなくても、帰ってきていい」
杏樹の糸が、かすかに光った。
「だから、杏樹さま」
芹は櫛を握りしめる。
「ただいまって、言ってください」
杏樹の目から、涙が零れた。
初めて見た。彼が本当に泣くところを。
「……ずるいなぁ」
掠れた声だ。
「ほんと、ずるいよ。芹ちゃん」
杏樹は笑った。泣きながら、笑った。
「そんなこと言われたら、帰りたくなるじゃん」
「帰ってきてください」
「うん」
杏樹は震える手で、銀の糸を掴んだ。
「帰るよ」
金色の糸が強く光り、銀の糸が少しだけ緩んだ。
天也はその瞬間を逃さなかった。
「杏樹、伏せろ!」
杏樹が身体を倒す。
翡翠の刀が白銀の霧を切り裂いた。
銀の糸が一部断ち切れ、白銀が初めて不快そうに顔を歪めた。
「神威……!」
「芹!」
天也が叫ぶ。
「今だ!」
芹は鏡を握りしめ、金色の糸へ意識を向けた。
(ほどけて)
銀の糸が軋む。
杏樹の後悔に絡みついた白銀の糸。それを無理に引き剥がすのではなく、杏樹自身の帰りたいという願いへ沿わせる。
帰りたい。ただいまと言いたい。その小さな願いが、金色の糸を強くした。
銀の糸が、一本、ほどける。
杏樹の身体から黒い霧が剥がれた。
「杏樹さま!」
芹は駆け出した。
天也が白銀を押さえている。楊憲が護符を投げ、周囲の霧を一瞬だけ退けた。
芹は杏樹のもとへ駆け寄り、膝をついてその身体を支えた。
「杏樹さま、大丈夫ですか」
「……大丈夫って言いたいところだけど」
杏樹は苦しげに笑う。
「ちょっと、無理かも」
その言葉に、芹の血の気が引いた。
芹は鏡を取り出した。
天也の言葉を思い出す。鏡を使う時は必ず声をかけること。
「神威様、鏡を使います!」
天也は鬼と斬り結びながらも、短く答えた。
「俺の声を聞け!」
「はい!」
芹は鏡を覗き込む。
杏樹の糸が見える。美しい金色のそれは、ところどころ切れかけていた。そこに白銀の銀糸が絡みつき、過去の記憶へ引きずり込もうとしているようだ。
(杏樹さんの結びの記憶を)
芹は意識を澄ませる。
(見せて)
鏡の光が揺れ、景色が変わった。
血の匂い。崩れた屋敷。赤く燃える空。そこに、杏樹がいた。
彼の腕の中には芹がいた。その胸元は血で染まっている。
芹は息を呑む。
これは、杏樹が言っていた過去なのだろうか。
芹を助けられなかったという時間。
杏樹は血に濡れた芹を抱きしめ、何度も名前を呼んでいた。
――芹ちゃん。起きてよ、お願いだから。
芹は動かない。
杏樹は顔を歪め、二つの目からはらはらと涙をこぼしていた。
――ごめん、俺が選べなかったから。
景色が揺れる。
次に見えたのは、別の春だった。
杏樹が芹の前で笑っている。軽く、明るく。
けれど芹の知らない顔だ。その世界の芹は、杏樹ととても親しいようだった。
笑っていた。杏樹も笑っている。だが、その後ろには銀の糸が揺れていた。
白銀の影。そしてまた、血。
また、芹の死。
何度も。
何度も。
杏樹は手を伸ばし、届かず、芹を失っていた。
(……こんな)
芹の胸が潰れそうになる。
杏樹はこれを覚えているのだ。芹が覚えていない死を、何度も。助けられなかった時間を、何度も。
だから笑っていた。壊れないように。崩れないように。
芹は涙を堪え、さらに奥を見る。
杏樹の結びの記憶。そこには、血ではなく、穏やかな光があった。
夕暮れの茶屋。
杏樹が芹に団子を差し出している。
――緊張してると、余計疲れるよ。
あの時の声。出会ったばかりのはずなのに、どこか懐かしかった微笑み。
杏樹の糸は、その記憶で温かく光っていた。守れなかった後悔だけではない。杏樹の中には、芹と笑っていた時間もある。
何度失っても、それでもまた出会いたいと思った時間がある。
(……杏樹さま)
芹は糸へ手を伸ばす。
今度は、銀の糸を無理に剥がさないよう、金色の糸へ触れる。
(あなたは、見殺しにしただけの人ではありません)
心の中で呼びかける。
(あなたは、何度も私を助けようとしてくれた)
銀の糸がざわめき、白銀の声が響いた。
――助けられなかったのなら、同じことだ。
(違う)
芹は首を振る。
(違います)
杏樹の金色の糸が震える。現実の杏樹が、苦しげに顔を上げた。
「芹、ちゃん……?」
「杏樹さま!」
芹は鏡を抱きしめる。
「聞こえますか!」
「……聞こえるよ」
「あなたは、私を見殺しにした人ではありません」
声が震える。
「何度も、助けようとしてくれた人です」
「でも、助けられなかった」
「それでも! 助けようとしてくれたことまで、なかったことにしないでください!」
白銀の霧が揺れる。銀の糸が杏樹を強く締め上げ、杏樹が呻いた。
「杏樹ッ!」
天也が鬼を斬り伏せ、杏樹へ向かおうとする。だが、白銀がその前に立った。
「甘い言葉だ。だが、後悔は消えぬ」
「消えなくていい!」
芹は恐怖を抱きながらも、白銀を睨んだ。
「消えなくていいのです。後悔したままでも、前を向いていい。忘れなくても、帰ってきていい」
杏樹の糸が、かすかに光った。
「だから、杏樹さま」
芹は櫛を握りしめる。
「ただいまって、言ってください」
杏樹の目から、涙が零れた。
初めて見た。彼が本当に泣くところを。
「……ずるいなぁ」
掠れた声だ。
「ほんと、ずるいよ。芹ちゃん」
杏樹は笑った。泣きながら、笑った。
「そんなこと言われたら、帰りたくなるじゃん」
「帰ってきてください」
「うん」
杏樹は震える手で、銀の糸を掴んだ。
「帰るよ」
金色の糸が強く光り、銀の糸が少しだけ緩んだ。
天也はその瞬間を逃さなかった。
「杏樹、伏せろ!」
杏樹が身体を倒す。
翡翠の刀が白銀の霧を切り裂いた。
銀の糸が一部断ち切れ、白銀が初めて不快そうに顔を歪めた。
「神威……!」
「芹!」
天也が叫ぶ。
「今だ!」
芹は鏡を握りしめ、金色の糸へ意識を向けた。
(ほどけて)
銀の糸が軋む。
杏樹の後悔に絡みついた白銀の糸。それを無理に引き剥がすのではなく、杏樹自身の帰りたいという願いへ沿わせる。
帰りたい。ただいまと言いたい。その小さな願いが、金色の糸を強くした。
銀の糸が、一本、ほどける。
杏樹の身体から黒い霧が剥がれた。
「杏樹さま!」
芹は駆け出した。
天也が白銀を押さえている。楊憲が護符を投げ、周囲の霧を一瞬だけ退けた。
芹は杏樹のもとへ駆け寄り、膝をついてその身体を支えた。
「杏樹さま、大丈夫ですか」
「……大丈夫って言いたいところだけど」
杏樹は苦しげに笑う。
「ちょっと、無理かも」
その言葉に、芹の血の気が引いた。

