白銀鬼譚 -星見の巫女姫は愛をほどく-

「――芹」
 天也の声がすぐそばで聞こえる。
 低く、落ち着いた声。その声で、芹はどうにか足を止めた。
「白銀は誘っている。だからこそ、道を見誤るな」
 その言葉は、何度も天也に言われたことだ。
 疑うなら疑い、怖いなら怖がっていい。──けれど、見誤るな、というもの。今こそ、守らなければならない。
 芹は懐から星見の鏡を取り出した。
 鏡面は淡く光っている。中には、銀色の霧が映っていた。その奥に、一本の糸が伸びている。
 杏樹の糸だ。淡い金色。けれどところどころが黒く焦げ、そこに銀の糸が巻きついている。今にも千切れそうに、細く震えていた。
「見えます」
 芹は息を整えながら言った。
「杏樹さまの糸が」
「辿れるか」
「……やってみます」
「一人で触れるな」
「はい」
 天也が隣に立つ。その近さに、ほんの少しだけ心が落ち着いた。
 怖い。焦っている。今すぐ駆け出したい。けれど、天也がいる。
 それだけで、芹は自分を繋ぎ止めることができた。
「私も行こう」
 背後から声がした。振り返ると、父の楊憲が立っていた。
「父様」
「百舌鳥殿を放ってはおけないだろう。私に戦う力はないが、護符くらいは持っていける」
 楊憲の手には、古びた札束があった。
「でも、危険だわ」
「危険だから、芹だけを行かせるわけにはいかないよ」
 穏やかな声には、父としての強さがあった。
 芹は胸が熱くなる。
「……ありがとう」
 楊憲は微笑んだ。
「礼は、全員で帰ってからでいい」
 全員で帰る。その言葉に、芹は櫛を握りしめた。
 帰らなければならない。杏樹も。愁も。誰一人、白銀に渡したくない。
 星見の鏡が強く光った。霧の中の糸が、南の方へ伸びている。
「都の南……昨日の祠の方です」
 芹が言うと、天也は頷いた。
「行こう」
 それだけで、三人は動き出した。
 都へ続く道は、いつもより静かだった。
 春の空は薄紅に染まり、遠くの雲が金色に縁取られている。けれど芹には、その美しさが怖かった。
 杏樹が消えていった時も、桜が舞っていた。美しいものと、恐ろしいものが同じ場所にある。それが白銀の気配に似ている気がした。
 美しい銀の糸。けれど触れれば冷たく、心を歪める。愛の形をして、人を縛る。
(……杏樹さま)
 鏡の中の糸は、まだ繋がっている。けれど細く、今にも切れそうだ。
 芹は歩きながら、杏樹の言葉を思い出していた。
 ――俺は、君を助けられなかった男だよ。
 ――前の前。
 ――数え方も曖昧なほど、彼は同じ時間を繰り返している。
 助けようとして、選べず、芹を失った。それを白銀は「見殺し」と呼んだ。
 杏樹自身も、きっとずっとそう呼び続けてきたのだ。
 自分のことを責め続け、それでも笑って、軽く振る舞って、何でもないような顔をしていた。何度も。
(……私が覚えていなくても)
 杏樹の苦しみは消えない。
 芹が知らないからといって、なかったことにはならない。
 ならばせめて、今の芹はそれを見たい。知りたい。杏樹が嫌われると恐れているものも、見捨てたと自分を責めている過去も。
 そのうえで、言いたいのだ。――あなたを嫌いになりたいわけではないと。
 
 都の南へ近づくほど、空気が冷えていった。
 通りには人影が少ない。鬼の噂が広がっているのだろう。商人たちは早々に店を閉め、家々の戸は固く閉ざされている。
 夕暮れの都は、息を潜めるように静まり返っていた。
 南の古い祠へ続く道へ入ると、星見の鏡が震えた。
 芹は足を止める。
「近いです」
 天也が刀の柄に手をかける。
「白銀の気配もある」
 楊憲が護符を握りしめる。
「芹、無理はしないように」
「はい」
 そう答えたものの、胸は早鐘のように鳴っていた。
 祠へ近づく。
 昨日と同じ場所。朽ちかけた石灯籠、伸びた草、冷たい空気。けれど今日は、祠の周りに黒い霧が立ち込めていた。
 霧の奥から、声が聞こえる。
「……っ」
 杏樹の声だ。苦しそうに呻いている。
「杏樹さま!」
 芹が呼ぶと、霧の奥で何かが揺れた。
「来るな!」
 返ってきたのは杏樹の声だった。いつもの軽さなどない、切羽詰まった声。
「芹ちゃん、来ちゃ駄目だ!」
「嫌です!」
 芹は叫び返した。
「迎えに来ました!」
「来るなって言ってるでしょ!」
「それでも来ました!」
 自分でも驚くほど強い声だった。
 霧の奥が沈黙する。
 天也が芹の前へ出た。
「白銀」
 低く呼ぶ。すると、霧が左右に割れた。その奥に、白銀が立っていた。
 銀の髪。赤い瞳。美しい顔に、冷たい笑みを浮かべている。そして、その足元に杏樹が膝をついていた。
 片腕を押さえ、息を荒げている。
 血が、静かに流れていた。暗い地面の上を、じわりと赤が広がっていく。
 その光景に、芹は息を呑んだ。
「杏樹さま!」
「来るなって……言ったのに」
 杏樹は苦しげに笑った。
「ほんと、芹ちゃんは言うこと聞かないなぁ」
「杏樹さまこそ」
 芹の声が震える。
「帰ってくるって言ったじゃないですか」
「……うん」
「ただいまって、言うって」
「言ったね」
「なら、立ってください」
 杏樹の顔が歪む。泣きそうな、笑いそうな、どちらにも見える顔だった。
 白銀が愉快そうに笑った。
「美しいな。約束という糸は脆いくせに、人はそれに縋る」
「黙れ」
 天也が刀を抜いた。翡翠の刃が、夕暮れの光を受けて煌めく。
 白銀の赤い瞳が細まる。
「神威の子。その刀で私を斬るか」
「必要ならば」
「無駄だと知っているだろう。私を斬っても、糸は残る」
「黙れと言った」
 天也が鋭く踏み込む。
 一瞬で、白銀との距離が詰まった。
 翡翠の刀が、迷いなくその首筋を狙う。しかし、白銀の姿は霧のようにゆらりと揺れた。
 刃は空を裂き、そのまま虚しく夜気を薙ぐ。
 次の瞬間、黒い霧の奥から鬼が現れた。
 一体。さらに、もう一体。異形の影が、唸り声を上げながら天也へ襲いかかる。
 天也は即座に身を翻した。振り下ろされた鬼の爪を、刀で真正面から受け止める。甲高い金属音が鋭く響いた。
「芹、下がれ!」
 芹は楊憲と共に後ろへ下がる。
 だが、杏樹の姿から目を離せなかった。
 杏樹の周囲には、銀の糸が絡みついている。星見の鏡を通さなくても、今は薄く見えた。
 後悔の糸。自責の糸。そして、その奥にある淡い金色の糸。
 杏樹の心だ。それはまだ、消えていない。