「っ」
「芹ちゃん?」
杏樹の声が、鋭く響く。
芹ははっと胸元を押さえた。
懐の鏡が淡く光を帯びている。ぞくり、と背筋が粟立った。
白銀の気配だ。しかも――近い。
「神威様」
「ああ」
天也も気づいたのか、すでに刀に手をかけている。
庭の空気が冷えた。桜の影が、じわりと濃くなる。その中から、声がした。
「美しいな」
庭の奥、桜の木の下に白い影が立っていた。
銀の髪。赤い瞳。人の姿をした鬼。
白銀は杏樹を見て、愉快そうに笑った。
「叶わぬ夢ほど甘い」
「黙ってくれないかな」
「百舌鳥。お前は何度繰り返しても同じだな。手を伸ばすのが遅い。選ぶのが遅い。だから失う」
顔を強張らせていく杏樹を庇うように、天也が前へ出た。
「白銀」
「お前もいずれ分かる。守りたいと思うほど、守れぬものだ」
「黙れ」
白銀はくっくと笑うと、芹へと視線を移した。
「星見の娘。糸を見たな」
「……はい」
「では見えるだろう。その男の糸が、今にも切れそうなことが」
「どういう意味ですか」
「そのままだ。後悔に囚われた者は脆い。優しい言葉で少し揺らせば、自ら死地へ向かう」
「やめろ」
杏樹が一歩前へ出る。けれどその肩へ、天也の手が静かにかかった。
「杏樹、挑発に乗るな」
「分かってるよ」
白銀は満足そうに笑う。
「分かっている、か。ならば今度は選べるか?」
その瞬間、白銀の背後に黒い霧が広がった。
霧の中に、愁の姿が見える。膝をつき、苦しそうに胸を押さえている。
「愁!」
芹が叫ぶ。
愁が顔を上げる。その唇が動いた。
──姫様。
芹は駆け出しそうになった。だが、天也の腕が前に出る。
「動くな」
「でも」
「白銀の罠だ」
分かっている。けれど、愁が苦しんでいる。
杏樹が手のひらを握りしめた。その指先が白くなるほどに。
「杏樹さま?」
不安を押し隠せないまま、芹はその名を呼んだ。
杏樹は振り返り、ふっと笑う。いつものような、柔らかな笑み。けれどその奥に、嫌な予感が滲んでいた。
「行かないでください、杏樹さま」
気づけば、芹はそう言っていた。縋るような声だった。その言葉に、杏樹の目がわずかに揺れる。
そして――白銀が、愉快そうに笑った。
「行かねば愁は沈む。行けばお前が沈む。さあ、今度はどう選ぶ?」
「杏樹さま! 一人で行かないでください!」
叫んだ芹を、杏樹は泣きそうな顔で見つめる。
「……ほんと、困るなぁ」
「杏樹さま」
「そんなふうに言われたら、行きたくなくなる」
「なら、行かないで」
芹は一歩近づく。
「約束してください。明日も、ただいまと言ってください」
何かを堪えるように、杏樹の顔が悲痛に歪む。
白銀は赤い瞳を愉快そうに細め、恍惚とした笑みを浮かべた。
「甘いな。だが、その甘さが愛か」
黒い霧が、不気味に揺らめいた。その奥で、愁の姿がさらに深く沈んでいく。まるで闇に呑まれていくようだった。
「……っ」
芹の胸が、鋭く痛む。
す、と天也が静かに刀を抜いた。翡翠の光が、夜気を鋭く裂く。
「俺が行こう」
「駄目だよ。これは俺への罠だ。天也が行けば、別の糸を取られる」
「何を知っている」
「知ってるから言ってる」
杏樹は真剣な眼差しで天也を見る。
「今回は、俺が選ぶ」
その言葉に、芹の背筋が冷えた。
「杏樹さま、だめ」
「芹ちゃん。そんな顔しないで」
「嫌です」
「はは、正直だなあ」
「行かないでください」
声が震える。
「私、杏樹さまにお帰りなさいって言うって約束しました」
「うん」
「だから、帰ってきてください」
杏樹は目を閉じた。そのまま少しの間、何も言わなかった。
やがて、ゆっくり目を開ける。
「帰ってくるよ」
「嘘です」
「嘘じゃない」
「なら、ここで待って」
杏樹は小さくそう言った。
次の瞬間、彼は迷いなく一歩を踏み出す。
天也もすぐに動いた。けれど、その瞬間だった。
白銀の霧が一気に周囲へ溢れ出し、視界が黒く染まった。
「芹!」
天也の声が、すぐ近くで響く。同時に腕を強く掴まれ、芹の身体が引き寄せられた。
霧の向こうで、杏樹の姿がゆっくりと薄れていく。
「杏樹さま!」
芹は思わず叫んだ。
杏樹が振り返る。その手が、何かをこちらへ放った。
反射的に受け止めると、それは櫛だった。艶やかな濡れ羽色のそれは、陽光を受けて煌めいている。
「預かってて」
「嫌です!」
声が震えた。
「すぐ取りに戻るから」
「杏樹さま!」
霧が、さらに濃くなる。どこか遠くで、白銀の笑い声が響いた。
杏樹の姿が、完全に消えてしまう寸前。
彼はいつものように笑う。
「――ただいまって、言いに行くよ」
その言葉を最後に、杏樹は霧の中へ消えた。
白銀も。愁の姿も。何もかもが、闇へ溶けるように消えていく。
あとに残ったのは、静かな庭と、舞い落ちる桜の花びらだけだった。
芹はその場に立ち尽くしたまま、強く櫛を握りしめる。
冷たい。手の中の櫛が、とても冷たかった。
「……杏樹さま」
「追うぞ」
声も心も震わせる芹へと、天也のまっすぐな眼差しが降り注ぐ。
「必ず連れ戻そう」
その言葉に縋りたかった。けれど星見の鏡が、懐の中で震えている。
芹には見えていた。杏樹の糸が、白銀の霧の中で強く引かれている。今にも切れそうに。
(……だめ)
切れてしまう。このままでは。
芹は櫛を胸に抱きしめた。
「神威様」
「何だ」
「急がないと、杏樹さまが──杏樹さまの糸が、切れてしまいます」
天也の表情が険しくなる。
春の庭に、冷たい風が吹いた。桜の花びらが散る。その中で芹は、手の中の櫛を握りしめながら、初めてはっきりと理解した。
白銀は、愁だけを狙っているのではない。杏樹の後悔も、天也の守りたい心も、芹自身の恐れも。すべてを糸として絡め取り、壊そうとしている。
そして次にほどかなければならない糸は、杏樹の糸だ。
芹は涙を堪え、顔を上げた。
「行きましょう」
声は震えていた。けれど、足はもう止めなかった。
「芹ちゃん?」
杏樹の声が、鋭く響く。
芹ははっと胸元を押さえた。
懐の鏡が淡く光を帯びている。ぞくり、と背筋が粟立った。
白銀の気配だ。しかも――近い。
「神威様」
「ああ」
天也も気づいたのか、すでに刀に手をかけている。
庭の空気が冷えた。桜の影が、じわりと濃くなる。その中から、声がした。
「美しいな」
庭の奥、桜の木の下に白い影が立っていた。
銀の髪。赤い瞳。人の姿をした鬼。
白銀は杏樹を見て、愉快そうに笑った。
「叶わぬ夢ほど甘い」
「黙ってくれないかな」
「百舌鳥。お前は何度繰り返しても同じだな。手を伸ばすのが遅い。選ぶのが遅い。だから失う」
顔を強張らせていく杏樹を庇うように、天也が前へ出た。
「白銀」
「お前もいずれ分かる。守りたいと思うほど、守れぬものだ」
「黙れ」
白銀はくっくと笑うと、芹へと視線を移した。
「星見の娘。糸を見たな」
「……はい」
「では見えるだろう。その男の糸が、今にも切れそうなことが」
「どういう意味ですか」
「そのままだ。後悔に囚われた者は脆い。優しい言葉で少し揺らせば、自ら死地へ向かう」
「やめろ」
杏樹が一歩前へ出る。けれどその肩へ、天也の手が静かにかかった。
「杏樹、挑発に乗るな」
「分かってるよ」
白銀は満足そうに笑う。
「分かっている、か。ならば今度は選べるか?」
その瞬間、白銀の背後に黒い霧が広がった。
霧の中に、愁の姿が見える。膝をつき、苦しそうに胸を押さえている。
「愁!」
芹が叫ぶ。
愁が顔を上げる。その唇が動いた。
──姫様。
芹は駆け出しそうになった。だが、天也の腕が前に出る。
「動くな」
「でも」
「白銀の罠だ」
分かっている。けれど、愁が苦しんでいる。
杏樹が手のひらを握りしめた。その指先が白くなるほどに。
「杏樹さま?」
不安を押し隠せないまま、芹はその名を呼んだ。
杏樹は振り返り、ふっと笑う。いつものような、柔らかな笑み。けれどその奥に、嫌な予感が滲んでいた。
「行かないでください、杏樹さま」
気づけば、芹はそう言っていた。縋るような声だった。その言葉に、杏樹の目がわずかに揺れる。
そして――白銀が、愉快そうに笑った。
「行かねば愁は沈む。行けばお前が沈む。さあ、今度はどう選ぶ?」
「杏樹さま! 一人で行かないでください!」
叫んだ芹を、杏樹は泣きそうな顔で見つめる。
「……ほんと、困るなぁ」
「杏樹さま」
「そんなふうに言われたら、行きたくなくなる」
「なら、行かないで」
芹は一歩近づく。
「約束してください。明日も、ただいまと言ってください」
何かを堪えるように、杏樹の顔が悲痛に歪む。
白銀は赤い瞳を愉快そうに細め、恍惚とした笑みを浮かべた。
「甘いな。だが、その甘さが愛か」
黒い霧が、不気味に揺らめいた。その奥で、愁の姿がさらに深く沈んでいく。まるで闇に呑まれていくようだった。
「……っ」
芹の胸が、鋭く痛む。
す、と天也が静かに刀を抜いた。翡翠の光が、夜気を鋭く裂く。
「俺が行こう」
「駄目だよ。これは俺への罠だ。天也が行けば、別の糸を取られる」
「何を知っている」
「知ってるから言ってる」
杏樹は真剣な眼差しで天也を見る。
「今回は、俺が選ぶ」
その言葉に、芹の背筋が冷えた。
「杏樹さま、だめ」
「芹ちゃん。そんな顔しないで」
「嫌です」
「はは、正直だなあ」
「行かないでください」
声が震える。
「私、杏樹さまにお帰りなさいって言うって約束しました」
「うん」
「だから、帰ってきてください」
杏樹は目を閉じた。そのまま少しの間、何も言わなかった。
やがて、ゆっくり目を開ける。
「帰ってくるよ」
「嘘です」
「嘘じゃない」
「なら、ここで待って」
杏樹は小さくそう言った。
次の瞬間、彼は迷いなく一歩を踏み出す。
天也もすぐに動いた。けれど、その瞬間だった。
白銀の霧が一気に周囲へ溢れ出し、視界が黒く染まった。
「芹!」
天也の声が、すぐ近くで響く。同時に腕を強く掴まれ、芹の身体が引き寄せられた。
霧の向こうで、杏樹の姿がゆっくりと薄れていく。
「杏樹さま!」
芹は思わず叫んだ。
杏樹が振り返る。その手が、何かをこちらへ放った。
反射的に受け止めると、それは櫛だった。艶やかな濡れ羽色のそれは、陽光を受けて煌めいている。
「預かってて」
「嫌です!」
声が震えた。
「すぐ取りに戻るから」
「杏樹さま!」
霧が、さらに濃くなる。どこか遠くで、白銀の笑い声が響いた。
杏樹の姿が、完全に消えてしまう寸前。
彼はいつものように笑う。
「――ただいまって、言いに行くよ」
その言葉を最後に、杏樹は霧の中へ消えた。
白銀も。愁の姿も。何もかもが、闇へ溶けるように消えていく。
あとに残ったのは、静かな庭と、舞い落ちる桜の花びらだけだった。
芹はその場に立ち尽くしたまま、強く櫛を握りしめる。
冷たい。手の中の櫛が、とても冷たかった。
「……杏樹さま」
「追うぞ」
声も心も震わせる芹へと、天也のまっすぐな眼差しが降り注ぐ。
「必ず連れ戻そう」
その言葉に縋りたかった。けれど星見の鏡が、懐の中で震えている。
芹には見えていた。杏樹の糸が、白銀の霧の中で強く引かれている。今にも切れそうに。
(……だめ)
切れてしまう。このままでは。
芹は櫛を胸に抱きしめた。
「神威様」
「何だ」
「急がないと、杏樹さまが──杏樹さまの糸が、切れてしまいます」
天也の表情が険しくなる。
春の庭に、冷たい風が吹いた。桜の花びらが散る。その中で芹は、手の中の櫛を握りしめながら、初めてはっきりと理解した。
白銀は、愁だけを狙っているのではない。杏樹の後悔も、天也の守りたい心も、芹自身の恐れも。すべてを糸として絡め取り、壊そうとしている。
そして次にほどかなければならない糸は、杏樹の糸だ。
芹は涙を堪え、顔を上げた。
「行きましょう」
声は震えていた。けれど、足はもう止めなかった。

