白銀鬼譚 -星見の巫女姫は愛をほどく-

 杏樹は詰所の裏庭にいた。桜の木の下で、扇をひらひらと揺らしている。春の光の中にいるのに、その横顔は冷たかった。
「杏樹さま」
 芹が声をかけると、杏樹は顔を上げた。そしてすぐにいつもの笑みを作る。
「おはよう、芹ちゃん。天也も一緒?」
「一緒だ。お前に話がある」
「俺、何かした?」
 杏樹は笑う。けれど、その指先がほんのわずかに止まったのを、芹は見逃さなかった。
「杏樹さま」
 芹は一歩近づいた。
「昨夜、あなたの夢を見ました」
 杏樹の笑みが止まった。
「……俺の?」
 杏樹の顔から色が消えた。
 扇を玩んでいた手が、止まる。
 風が吹き、桜の花びらが杏樹の肩に落ちた。
「……そっか」
 やがて、杏樹は小さく呟いた。
「見ちゃったんだ」
「杏樹さま」
「困るなぁ。まだ早いのに」
「まだ早い?」
 芹が問い返すと、杏樹は笑った。けれどその笑みは痛々しい。
「芹ちゃんは、どんどん見つけちゃうね」
「知りたいからです」
「知らない方が楽なこともあるよ」
「でも、知らないままでは救えません」
 杏樹の目が揺れた。
「救う、か」
 その声が、ひどく遠い。
「芹ちゃんは本当に、そういうことを真っ直ぐ言うよね」
「杏樹さまが、隠すからです」
「隠してるよ」
 あっさり認められて、芹は息を呑んだ。
「たくさん隠してる」
 杏樹は扇を懐に入れた。
「でも、全部は話せない」
「なぜですか」
「話したら、俺が耐えられない」
 芹は目を見開く。
「芹ちゃんが耐えられないんじゃなくて、俺が耐えられないんだよ」
「杏樹さまが?」
 杏樹は桜の木に背を預けた。
「君に全部話して、君が泣いたら。君が自分を責めたら。俺はたぶん、もう笑っていられない」
 胸が締めつけられた。
 杏樹は芹を守ろうとしている。
 真実から。痛みから。けれど同時に、自分自身を守っている。
「……私、そんなに弱く見えますか」
「弱いとは思ってないよ」
「では」
「優しいと思ってる」
 杏樹は静かに言った。
「だから怖いんだ」
 芹は言葉を失った。
 優しさが、誰かを苦しめることもある。白銀が心に巣食うように。人の心は、いつも綺麗なだけではない。
「杏樹。お前は、何を見た」
 杏樹は天也を見る。
「それ、今聞く?」
「ああ」
「容赦ないね」
「お前が言わないからだ」
 杏樹は少しだけ笑った。
「天也はさ」
「何だ」
「自分も隠し事してるくせに、人には厳しいよね」
 空気が微かに変わった。
 天也の表情は変わらない。けれど芹には、彼の周囲の空気が張り詰めていくのが分かった。
「何の話だ」
「芹ちゃんを見てる時、時々すごい顔してるよ」
 杏樹は軽く言う。けれどその目は、鋭い。
「初めて会った子を見る顔じゃない」
 芹の心臓が跳ねた。
 天也も?
 天也も、何かを知っている?
 いや、そんなはずは。
 今の世界の天也は、芹と婚姻を結んでいない。
 けれど――時折、天也の目が何かを思い出すように揺れることがあった。
「杏樹。今はお前の話だ」
「はいはい」
 杏樹は小さく肩をすくめた。
「じゃあ、少しだけ」
 杏樹はゆっくりと視線を上げ、薄曇りの空を見上げた。どこか遠くを見ているような横顔だった。
「俺は――何度か、同じ場所に立ってる」
 同じ場所。その言葉だけで、胸がざわつく。
「同じような春を見て、同じように鬼が出て、同じように誰かが傷つく」
「それは……」
 芹の声が震える。
「時を、繰り返しているということですか」
 杏樹は答えなかった。けれど否定もしなかった。
「最初はね、変えられると思ったんだ」
 杏樹はふんわりと笑う。
「こうすれば助かるんじゃないか。あそこで止めれば変わるんじゃないか。俺がもっと早く動けば、誰も死なないんじゃないかって」
「…………」
「でも、何かを選べば、何かを落とす。助けたつもりが、別の誰かが死ぬ。言葉ひとつで道が変わる。変えた先が、もっと悪くなることもある」
「だから、話せなかったのですか」
 杏樹は頷いた。
「俺が何か言うことで、芹ちゃんが違う道を選ぶのが怖かった」
「違う道を選ぶことが、悪いのですか」
「悪いとは限らない」
 杏樹の声が少し掠れた。
「でも、俺は一度、それで失敗した」
「誰を、失ったのですか」
 杏樹は痛いほど優しい眼差しで芹を見た。
「君だよ」
 芹は今度こそ言葉を失った。
 天也の手が刀の柄へ動いた。けれど杏樹は続ける。
「前の前、かな。もう数え方も曖昧だけど。俺は芹ちゃんを助けようとして、逆に君を死なせた」
「私を……」
「うん」
 芹は眩暈を覚えた。
 自分は一度、天也の屋敷で殺された。けれど杏樹が言うのは、それとは別の死なのだろうか。
「それで、見殺しにしたのですか」
「正確には違う」
 杏樹は目を伏せる。
「助ける方法があったのに、俺は選べなかった。選んだら、別の人が死ぬと思ったから。迷って、遅れて、君を失った」
 声が震えていた。
「だから白銀は、見殺しって言うんだろうね」
「杏樹さま……」
「言ったでしょ。嫌われるって」
 杏樹は笑った。
「俺は、君を助けられなかった男だよ」
 芹の胸が痛む。けれど、不思議と杏樹を責める気持ちは湧かなかった。
 ただ、彼がどれほど長くその罪を抱えてきたのかを思うと、苦しかった。
「私は、杏樹さまを覚えていません」
 芹は小さく言った。
「その時のことも、分かりません」
「うん」
「だから、許すとか許さないとか、そういうことは言えません」
 杏樹は黙っている。
「でも、今の私は、杏樹さまを責めたいとは思いません」
 杏樹の瞳が揺れた。
「どうして」
「あなたが、今も苦しんでいるからです」
 芹は一歩近づく。
「自分を責め続けている人を、私まで責めたら、あなたはどこへ行けばいいのですか」
 杏樹の表情が、ふいに歪む。今にも泣き出してしまいそうな、そんな顔だった。
「……ほんと、ずるい」
「杏樹さま」
「そういうところが、好きだったんだろうな」
 芹は息を呑んだ。
「え?」
 杏樹ははっとしたように目を見開き、それから苦笑した。
「おっと、失言」
「今のは」
「忘れて」
「忘れられません」
「じゃあ、心の端っこに置いといて」
 杏樹は軽く言おうとしている。その頬は少し赤いようにも見えた。
 今の言葉が何を意味するのか、芹にも分からないわけではなかった。けれど杏樹は、それを恋として差し出すつもりはないのだろう。
 諦めた人の顔をしていた。それが、たまらなく切なかった。
「……ありがとね」
 その笑顔を見た瞬間、芹の胸に鋭い痛みが走った。
 星見の鏡が、懐の中で熱を帯びる。