白銀鬼譚 -星見の巫女姫は愛をほどく-

 夜明け前、芹はもう一度目を覚ました。
 部屋の中は薄暗く、障子の向こうはまだ青い。風の音だけが静かに響いていて、庭の桜が揺れる気配がした。
 頬に触れると、涙の跡が残っていた。
(……夢)
 夢だと思いたいけれど、胸の奥に残る痛みは鮮明だ。
 杏樹が泣きそうな顔で、何かを言っていたような気がしたけれど──。
(……杏樹さまにも、絡んでいる)
 愁だけではない。白銀は愛や執着に巣食う。ならば、杏樹の後悔にも触れることができるのだろう。
 また見殺しにするか。白銀が杏樹へ投げた言葉が蘇る。
 杏樹は笑っていた。けれど、顔色は失われていた。
 軽く、気楽で、掴みどころのない人。そう見せているだけなのだ。
 本当は、ずっと何かを抱えている。誰かを見殺しにしたという後悔。そして、芹が知らない“前”の時間。
 芹は鏡をそっと手に取った。
 冷たい。けれどその奥に、微かな熱がある。
 星見の力は、運命の結び目を見つける力。ほどくべき糸と、結ぶべき糸を見極める力。ならば杏樹の糸も、見なければならない。
 ただし、無理に触れてはいけない。
 天也との約束がある。白銀の声に応えないこと。一人で行かないこと。鏡を使う時は、必ず声をかけること。
(……神威様に、話さなければ)
 そう思った瞬間、胸が少しだけ落ち着いた。
 いつの間にか、芹はそう考えるようになっている。
 一人で抱え込むのではなく、天也に話す。天也と考える。その変化に気づき、少しだけ頬が熱くなった。
 怖いはずだった人。疑っていた人。けれど今、芹が真っ先に頼りたいと思う人。
 朝になるのを待ちきれず、芹は身支度を始めた。
 鏡を布に包み、懐へ入れる。髪を結い、動きやすい小袖に袖を通す。鏡の中の自分は、昨日よりも少しだけ緊張した顔をしていた。
 襖を開けると、廊下の先に父の姿があった。
「芹。早いね」
「父様こそ」
「眠れなくてね」
 楊憲は困ったように笑った。その顔に疲れが滲んでいて、芹は胸が痛んだ。
「ごめんなさい。心配ばかりかけて」
「親はね、子を心配するためにいるようなものだよ」
「そんなこと」
「あるんだよ」
 楊憲はやさしく笑った。
「それに、お前はもう私の知らないところへ進み始めている。寂しくないと言えば嘘になるけれど、止めたいとは思わない」
 その言葉に、芹は目を瞬かせた。
 愁の言葉を思い出したからだ。
 ――姫様は、私の知らないところへ行ってしまわれる。
 同じような言葉なのに、胸に届く形が違う。
 父の言葉は、芹を縛らなかった。ただ、寂しさを抱えながら送り出してくれている。
(……これが、違い)
 救う愛と、縛る愛。その境目は、きっとこういうところにあるのかもしれない。
「父様」
「うん?」
「私、愁を助けるわ」
「ああ」
「白銀も止める」
「うん」
「でも……それだけではなくて」
 芹は胸元を押さえた。鏡がそこにある。
「杏樹さまのことも、放っておけないの」
 楊憲は少し驚いたように目を開いた。
「百舌鳥殿かい」
「あの方も、何かに苦しんでいる気がして」
「そうか」
「欲張りかしら」
 そう尋ねると、楊憲は困ったように笑った。
「欲張りだね。でも、芹らしいと思うよ」
「父様」
「全員を救えるかどうかは分からない。けれど、救いたいと思うことまで諦める必要はないよ」
 胸の奥が、少し熱くなった。
「はい」
 芹は頷いた。

 都へ向かう道には、朝靄が薄く漂っていた。
 春の匂いがする。けれど、その奥にどこか冷たい気配が混じっているような気がした。
 白銀は近い。愁の中に巣食い、杏樹の後悔へ糸を伸ばし、芹の星見の力を狙っている。
 逃げることはできない。
 都の門をくぐると、詰所の前に天也がいた。
 黒い装束。腰には翡翠の刀。亜麻色の髪が朝の光を受けて淡く輝いている。
 その姿を認めた瞬間、芹の胸が小さく跳ねた。
「神威様」
「早いな」
「お話ししたいことがあるのです」
 天也はすぐに表情を改めた。
「中へ」
 通されたのは、いつもの奥の部屋だった。
 人の出入りは少なく、古い紙と墨の匂いがする。
 芹は懐から鏡を取り出した。
「昨夜、夢を見ました」
 天也は黙って聞いている。
「杏樹さまがいました。辺りは血の海で……その夢が、ただの夢とは思えないのです」
 芹は鏡へ視線を落とす。
「杏樹さまの糸にも、白銀の銀糸が見えました。愁ほど深くはないかもしれません。でも、絡まっているように見えたのです」
 天也はしばらく沈黙した。その横顔は険しい。
「杏樹は、白銀に過去を突かれている」
「見殺しにするか、と言われていました」
「ああ」
「神威様は、その意味を?」
「知らない。だが、あいつが何かを隠していることは分かっている」
「聞かないのですか」
「聞いて答えるなら、とっくに聞いている」
 確かにそうだ。
 杏樹は、聞かれても笑って躱す。
 さあね、と。便利だから、と。けれどその言葉の奥には、いつも痛みがある。
「今日、杏樹さまと話したいです」
 芹は言った。
「鏡は使わない約束でしたが……話すだけなら」
「一人では行くな」
「はい」
「俺も行く」
 芹は顔を上げる。
「よろしいのですか」
「杏樹は逃げる」
「……はい」
「お前だけなら、なおさらだ」
 天也は淡々と言う。けれどその声には、杏樹を案じる色があった。
 芹は小さく頷く。
「ありがとうございます」
「礼を言われることではない」
「でも、言いたいのです」
 天也は少しだけ視線を逸らした。その仕草に、芹の胸がまた揺れる。
 今は杏樹のことを話しているのに。それでも、天也の些細な反応が気になってしまう。
(……だめ)
 芹は小さく息を吸う。
 今は目の前のことを見る。
 杏樹の糸を。彼の抱えているものを。