白銀鬼譚 -星見の巫女姫は愛をほどく-

(……愁)
 芹はその糸を抱きしめるように意識を向けた。
(私は、あなたを置いていかないわ)
 銀の糸がざわめく。白銀の声が遠くで響いた。
 ──嘘だ。
(嘘じゃない)
 芹は心の中で答える。
(私はあなたを忘れない。置いていかない。でも、あなたの中に閉じ込められることもしない)
 銀の糸が鋭く伸びる。
 痛みが走った。けれど、今度は怯まなかった。
(愁、帰りましょう)
 薄桃色の糸が強く光った。その瞬間、現実の祠の前で、風が巻き起こった。
「芹!」
 天也の声が聞こえる。けれど芹はまだ鏡から目を逸らさなかった。
 糸の向こうに、愁が見えた。暗い場所に座り込み、顔を上げている。泣きそうな目で、芹を見ている。
 ──姫様。
 声がした。今度は白銀ではない。愁の声だった。
 芹は息を呑む。
「愁!」
 思わず現実でも声が出た。
 次の瞬間、祠の奥から黒い影が飛び出した。
 鬼だ。
 天也が即座に前へ出る。翡翠の刀が抜かれ、光が走る。
 杏樹も横から動く。
 芹は鏡を抱えたまま後ろへ下がった。
 鬼は一体ではない。二体、三体。祠を守るように、あるいは芹を妨げるように現れる。
「白銀が気づいた! 天也、芹ちゃんを下がらせて!」
「分かっている」
 天也が鬼の爪を弾き、火花が散る。
 芹は震える足で後ろへ下がる。けれど、胸の奥ではまだ愁の糸が光っていた。
 見えた。愁はまだいる。助けられる。その確信が、芹を支えていた。
 天也の刃が一体を斬る。杏樹がもう一体を引きつける。二人の動きは無駄がない。けれど、鬼の数が多い。
 祠の奥から、さらに黒い影が滲み出る。
「きりがないね」
 杏樹が笑う。けれど声に余裕はなかった。その時、芹の耳元で白銀の声がした。
 ──来い。
 身体が強張る。
 ──愁を救いたければ、一人で来い。
 鏡の中に、愁の姿が映る。苦しそうに手を伸ばしている。
 芹の足が、一歩前へ出そうになった。
「芹!」
 芹は唇を噛み、足を止めた。
「行きません」
 震える声で言う。
「私は、一人では行かない」
 白銀の気配が揺らいだ。
 天也が最後の鬼を斬り伏せる。黒い血が地面に散り、祠の周囲に静寂が戻った。
 芹は膝から崩れ落ちそうになったが、天也が支えてくれた。
「無事か」
「はい……」
「声が聞こえたのか」
「はい。愁を救いたければ一人で来い、と」
 天也の表情が険しくなる。
「応えなかったな」
「はい」
 芹は天也を見上げた。
「約束しましたから」
 その言葉に、天也の瞳が微かに揺れた。
「……そうか」
 短い返事。そこには安堵が滲んでいた。
 杏樹が少し離れたところで息を整えている。
「芹ちゃん、今のは偉かったね」
「偉い、ですか」
「うん。すごく」
 杏樹は笑った。いつもの軽さとは少し違う、優しい笑みだった。
「一人で行かないって決めるの、案外難しいから」
 その言葉に、芹は杏樹を見る。
 杏樹は目を逸らした。過去に、誰かが一人で行ってしまったのだろうか。あるいは、杏樹が一人にしてしまったのか。
 今は聞かなかった。代わりに、芹は鏡を胸に抱いた。
「愁の記憶が見えました」
 天也と杏樹がこちらを見る。
「母を亡くした時、愁が私を裏山の祠へ連れて行ってくれた記憶です。ひとりで泣かないでください、と言ってくれました」
 芹は目を伏せる。
「愁の本当の願いは、私を閉じ込めることではありません。ひとりにしたくない、ただそれだけだったのです」
 天也は静かに聞いていた。
「ならば、その記憶が鍵になる」
「はい」
「白銀から引き剥がすには、愁自身にその願いを思い出させる必要がある」
「私も、そう思います」
 芹は頷く。
 少しだけ、道が見えた。愁を助ける方法。白銀の糸をほどく方法。
 まだ完全ではないけれど、確かに一歩進んだ。

 帰り道、芹は天也の隣を歩いた。杏樹は少し前を歩いている。夕暮れの光が、都の道を淡く染めていた。
「神威様」
「何だ」
「先ほど、私を呼んでくださいましたよね」
「ああ」
「声が聞こえた時、神威様の声で戻れました」
 天也は少しだけ視線を落とした。
「そうか」
 芹は小さく笑う。
「ありがとうございます」
 天也は何も言わなかった。けれど、ほんのわずかに歩幅を緩めた。
 芹に合わせるように。その優しさが、今ははっきりと分かる。
(……私は)
 この人を、好きになりかけているのかもしれない。そう思った瞬間、胸が苦しくなった。
 まだ怖いけれど、もう否定できない。知りたいと思う気持ちは、いつの間にか、そばにいたいという願いへ変わり始めていた。
 その夜、縹家へ戻ると、杏樹が門の前で足を止めた。
「俺、今日は詰所に戻るよ」
「休まないのですか」
「休むよ。たぶん」
「たぶんではなく、休んでください」
 芹が言うと、杏樹は笑った。
「お帰りって言ってくれるなら、ちゃんと帰ってくるよ」
「言います」
「じゃあ、大丈夫」
 何が大丈夫なのか分からない。けれど杏樹は少しだけ穏やかな顔をしていた。
「杏樹さま」
「うん?」
「明日も、ただいまと言ってくださいね」
 杏樹は目を見開いた。それから、ゆっくりと笑う。
「……うん。言うよ」
 その笑みを見て、芹は胸の奥に小さな不安を覚えた。
 まるで、今の約束がとても脆いもののように感じたから。
 杏樹は手を振り、夕暮れの道へ消えていった。
 天也はその背中を見ていた。
「神威様」
「何だ」
「杏樹さまは、大丈夫でしょうか」
「分からない」
 天也は正直に答える。
「だが、あいつは約束を軽く扱う男ではない」
「では、帰ってきますね」
「ああ」
 芹は頷いた。

 けれど胸騒ぎは消えなかった。
 夜が深まる頃、芹は星見の鏡を枕元に置き、布団に入った。
 愁の糸を見た。結びの記憶も見つけた。白銀の誘いにも応えなかった。
 少しずつ、進んでいると、そう思いたかった。
 けれど、眠りに落ちる寸前、芹は見たのだ。
 夢の中で、杏樹が血の中に立っていた。手には、艶やかな濡羽色の美しい櫛を持って。
 杏樹は笑いながら、うっすらと唇を開き――何かを言いかけていた。その唇は何と奏でていたのだろうか。
 目を覚ますと、頬が濡れていた。
「……杏樹さま?」
 部屋は暗く、外では風が鳴っている。
 星見の鏡が枕元で淡く光っている。
 芹は震える手でそれに触れた。
 鏡の中に、一瞬だけ杏樹の背中が映った。
 遠ざかっていく背中。その先に、白銀の銀糸が揺れている。
 芹は息を呑んだ。
(……杏樹さま)
 胸騒ぎは、確信へ変わりつつあった。
 次にほどかなければならない糸は、愁だけではない。杏樹の中にも、深く絡まった糸がある。そしてそれは、もうすぐ切れてしまうのかもしれない。
 芹は鏡を抱きしめ、震える息を吐いた。
 夜は、まだ明けなかった。