白銀鬼譚 -星見の巫女姫は愛をほどく-

 夕方近くになって、杏樹が戻ってきた。顔色は少し悪いが、いつもの笑みを浮かべている。
「ただいま」
「お帰りなさい」
 芹が言うと、杏樹は目を丸くさせた。
「……ただいまって言ったら、お帰りって返されるの、久しぶりかも」
 何気ないように聞こえる言葉だった。けれど、その声音が泣きそうなくらい優しくて、芹の胸はきゅっと痛んだ。
「では、これからは返します」
「え?」
「杏樹さまがただいまと言ったら、お帰りなさいと」
 杏樹は何も答えなかった。隣にいる天也も、黙ったまま動かない。二人の沈黙に、芹の胸がじわりと不安に染まっていく。
「……変、でしたか」
 おそるおそる尋ねると、杏樹がふいに俯いた。その肩が、かすかに震える。
 笑っているのかと思った。けれど、違う。
 顔を上げた杏樹は――泣き出しそうな顔をしていた。
「ほんと、芹ちゃんはさ。何でそういうこと、普通に言うかな」
「すみません」
「謝らないで」
 杏樹は手で顔を覆った。ほんの一瞬だけ。次に顔を上げた時には、いつもの笑みに近いものが戻っていた。
「じゃあ、ただいまって言うよ。何度でも」
「はい」
「そのたびに返してくれる?」
「返します」
「……そっか」
 杏樹は小さく笑った。それは、今までで一番静かな笑みだった。
 そのあと杏樹は、愁の行方について報告した。
「都の南側で、白銀っぽい気配があった」
「愁の気配はありましたか?」
「姿は見てない。でも、鬼が一体出た。人は襲わず、何かを探すように歩いてたらしい」
「何かを探す……」
「たぶん、祠か封印に関わる場所だね」
 天也が地図を広げる。
「南側に古い祠は?」
「三つ」
 杏樹が指差す。
「そのうち一つは、五百年前の封印に関係してる可能性が高い」
「どうして分かる」
「勘」
 天也の視線が鋭くなる。杏樹は肩をすくめた。
「ごめん。これは本当に勘に近い。でも、当たると思う」
 芹は二人を見る。
 天也は杏樹を完全には信用していないわけではない。むしろ、信じているからこそ苛立っているように見える。
 杏樹が隠すものを、天也は感じ取っている。それでも、今は使える手がかりとして受け入れるしかない。
「明日、確認するか」
「私も行きます」
 芹が即座に言うと、天也は予想していたようにこちらを見た。
「星見の鏡を持ってか」
「はい」
「危険だ」
「分かっています。でも、愁の結びの記憶を辿るには、私の力が必要です」
 沈黙する天也に、芹は続けた。
「一人では行きません。神威様の指示にも従います。無茶もしません」
「さっき無茶をしたばかりだ」
「……もうしません」
「信用できない」
「では、信用していただけるようにします」
 杏樹が横で吹き出した。
「芹ちゃん、強くなったねぇ」
「笑わないでください」
「ごめんごめん。でも今の、よかったよ」
 天也は小さく息を吐いた。
「分かった」
「よろしいのですか」
「駄目と言っても、お前は理由を並べるだろう」
「……そうかもしれません」
「ならば、最初から条件をつける」
 天也は真剣な目で芹を見た。
「俺のそばを離れるな。鏡を使う時は必ず声をかけろ。白銀の声が聞こえても返事をするな」
「はい」
「危険だと判断したら、途中でも戻る。約束できるか」
 芹は頷いた。
「約束します」
 天也はしばらく芹を見つめ、それから静かに頷いた。
 その夜、芹は久しぶりに夢を見た。
 桜の下に、無数の糸が揺れている。その中で、愁が泣いていた。
 幼い愁と、今の愁が重なって見える。その背後に、銀の糸が絡みついている。
 芹は手を伸ばす。今度は、無理に引き剥がそうとはしなかった。愁の薄桃色の糸に、そっと触れる。
 温かかった。優しくて、懐かしくて、泣きたくなるほど温かい。その奥から、愁の声が聞こえた。
 ──姫様。
 芹は答えようとして、目を覚ました。
 朝だった。障子の向こうが白んでいる。胸の奥に、まだ温かさが残っている。
(……愁)
 まだ、消えていない。
 愁の心は、ちゃんとそこにある。白銀に絡め取られても、歪められても、まだ愁は愁のままだ。それだけで、芹は少しだけ救われた気がした。

 その日の朝、三人は都の南へ向かった。
 芹は懐に星見の鏡を入れ、袖の中でそっと指先を握っていた。
 天也は隣を歩いている。杏樹は少し前を、いつものように軽い足取りで進んでいる。けれど、誰も冗談は言わなかった。
 南の祠は、人通りの少ない古い道の先にあった。
 周囲には朽ちかけた石灯籠が並び、草が伸び放題になっている。昼間なのに薄暗く、空気が冷たい。
 芹は足を止めた。
「……ここです」
 胸の奥が反応している。
 冷たい痛みと、白銀の気配。けれど、その奥に微かな温かさもある。
 愁の糸だ。
「鏡を」
 芹は頷き、懐から鏡を取り出した。
「使います」
「ああ」
 天也がすぐそばに立つ。杏樹も周囲を警戒している。
 芹は鏡を覗き込んだ。
(……見せて)
 心の中で願う。
(愁の結びの記憶を)
 鏡の光が揺れ、糸が見える。
 銀の糸。黒く濁った糸。そして、その奥にある薄桃色の糸。
 芹はそれに触れようとした。
 今度は急がない。引き剥がそうとしない。ただ、愁の心へ呼びかけるように。
(愁)
 薄桃色の糸が、微かに震えた。
 景色が変わる。幼い日の裏山。泣いている芹。隣にいる愁。愁は困ったように笑いながら、小さな手で芹の背を撫でている。
 ──泣いてもいいのです。
 幼い愁が言う。
 ──でも、泣き終わったら帰りましょう。旦那様が心配なさいます。
 幼い芹が泣きながら首を振る。
 ──母様がいないなら、帰りたくない。
 愁は少しだけ困った顔をした。それから、幼い芹の前にしゃがむ。
 ──では、私が一緒に帰ります。
 ──愁が?
 ──はい。姫様が帰りたくなるまで、何度でも一緒にいます。
 幼い愁の声は、今と同じように優しかった。
 ──だから、ひとりで泣かないでください。
 景色が滲む。
 芹の胸に、温かいものが広がった。
 これだ。これが、愁の結びの記憶。
 芹を閉じ込めるための愛ではない。ひとりで泣かせないための愛。一緒に帰るための愛。