白銀鬼譚 -星見の巫女姫は愛をほどく-

「芹」
 天也に名を呼ばれ、芹は振り返った。
「お前は時々、真っ直ぐすぎる」
「……悪いことですか」
「危うい」
「それは、悪いことですね」
「だが、きっと救われる者もいるだろう」
 翡翠の瞳は、杏樹が去った方を見ている。
「杏樹さまも、でしょうか」
「分からない。だが、あいつは長く一人で抱えている。誰かが踏み込まなければ、話さないだろうな」
「神威様は、踏み込まないのですか」
「踏み込んでいい場所と、そうでない場所がある」
「……難しいですね」
「ああ」
 天也は短く答える。その横顔が、少し寂しそうに見えた。
 天也もまた、杏樹を案じている。けれど、無理にこじ開けることはしない。
 芹はその距離の取り方が、天也らしいと思った。

 午後になり、芹は星見の覚書を読み進めた。
 鏡を使うのは一度休むことになったため、冊子の読める部分だけを書き写していく。
 天也はそばで白銀に関する記録を整理していた。
 楊憲は古い口伝を思い出そうと、別の書付を探している。
 静かな時間だった。けれど、張り詰めている。
 いつ白銀が現れるか分からない。愁がどこにいるかも分からない。それでも、何かをしている間だけは心が折れずに済んだ。
 覚書には、星見の力の扱いについていくつかの記述があった。
 ──糸を見る時、己の心を忘るるな。
 ──己の心を知らぬ者は、他者の糸を見誤る。
 芹は筆を止めた。
「己の心……」
 自分は何をどう想っているのか。それを知らなければ、他者の糸を見誤る。
(……私は)
 愁を大切に思っている。助けたい。それは変わらない。杏樹のことも知りたい。あの寂しそうな笑顔の奥にあるものを、見ないふりはしたくない。
 そして天也。
 芹はそっと天也を見る。
 自分はこの人をどう思っているのだろう。
 怖い。けれど、信じたい。知りたい。
 そばにいると、呼吸がしやすい。触れられると、胸がうるさくなる。視線が合うと、目を逸らしたくないと思う。
(……これは)
 何と呼ぶのだろう。
 一度目の世界では、婚儀の日に胸を高鳴らせた。けれどそれは、ほとんど憧れに近かった。
 美しい人。夫になる人。今の気持ちは、それとは違う。もっと怖くて、もっと苦しくて、けれどもっと確かなもの。
「芹」
 天也の声で、芹は飛び上がりそうになった。
「はいっ」
「……何をそんなに驚いている」
「い、いえ、何でも」
 顔が熱い。
 天也は訝しげに見ていたが、追及はしなかった。
「ここを見ろ」
 差し出された書付には、白銀についての古い記述があった。
 ──白銀は器を得る時、器の心を増幅する。
 ──器が最も恐れる喪失を餌とし、最も欲するものを鎖とする。
「最も恐れる喪失……」
 愁が恐れているもの。それは、芹がいなくなることだ。芹が自分の知らない場所へ行ってしまうこと。芹が天也を見ること。
「愁は、私を失うことを恐れていると思います。でも、私は愁を置いていきたいわけではありません」
「それを、愁本人に伝える必要があるだろう。ただし、白銀を介さずに」
「どうやって……?」
「それを探す」
 芹は頷き、覚書へ戻る。
 次の項に、薄い文字が浮かび上がっていた。さっきまでは読めなかったところだ。
 ──器の心へ至るには、結びの記憶を辿れ。
 ──邪な色に染まる前の心を見つけよ。
「結びの記憶……。愁が私を大切に思ってくれた、始まりの記憶ということでしょうか」
「その可能性がある」
「母様が亡くなった時……」
 芹は思い出す。
 幼い頃、母を亡くして泣き続けた自分。愁が連れて行ってくれた裏山の祠。泣きたい時はここで泣けばいい、と言ってくれた少年。あの記憶が、昨夜も見えた。
 あれが結びの記憶なのだろうか。
「もう一度、祠へ行く必要があるかもしれません」
「今すぐは駄目だ」
「分かっています」
 天也に即座に止められ、芹は少しだけ唇を尖らせた。その表情に気づいたのか、天也がわずかに目を細める。
「不満か」
「……少しですが」
「正直だな」
「神威様が、嘘をつくなという顔をなさるので」
「そんな顔はしていない」
「されています」
 言ってから、芹は自分で驚いた。
 こんなふうに言い返せるようになっている。
 最初は目を合わせるだけで怖かったのに。
 天也も少し驚いていたが、ふっと息をこぼす。
「ならば、そういうことにしておこう」
 杏樹のような言い方で、芹は思わず笑ってしまう。
 天也が不思議そうに見る。
「何だ」
「いえ。杏樹さまみたいだと思って」
「……不本意だ」
 その返答に、さらに笑いそうになった。
 こんな状況なのに。愁が行方知れずで、白銀が迫っていて、星見の力も分からないのに。それでも、天也とこうして言葉を交わせる時間が、芹を支えていた。