白銀鬼譚 -星見の巫女姫は愛をほどく-

「──見えました、愁の糸が。白銀の糸が絡んでいました」
 天也の手が、芹の腕を支えている。
「触れたのか」
「触れようとしただけです。でも、拒まれました」
「無茶をするな」
 声が低い。怒っている。けれどその怒りは、心配から来ていると分かった。
「すみません」
「謝るより、次からは先に言ってくれ」
「……はい」
 楊憲が震える息を吐いた。
「星見の鏡が、本当に反応するとは」
「父様」
「芹、お前は今、星見の力で糸を見たのだと思う」
「糸……」
「人の情、運命の流れ、結び目。それらを糸として見る力。記録にもそうある」
 芹は鏡を見下ろす。
 まだ胸が震えている。怖かった。けれど見えた。愁の中の愛が、白銀に歪められていく様が。
「もう一度見ます」
「駄目だ」
 天也が即座に言った。
「ですが」
「今のお前では危険だ。白銀に気づかれている」
「でも、方法を探さなければ」
「焦れば絡め取られる」
 天也の声は厳しく、芹は言い返せなかった。
 確かに、さっきは危なかった。もし天也が止めてくれなければ、銀の糸に捕まっていたかもしれない。
「……分かりました」
 芹が頷くと、天也の表情がわずかに緩んだ。
「少し休め」
「はい」
 蔵を出ると、杏樹が庭に立っていた。
 いつからいたのだろう。彼は桜の木にもたれ、空を見上げていた。
「杏樹さま」
 芹が呼ぶと、杏樹はこちらを向いた。いつもの笑みを浮かべようとして、少し失敗したような顔だった。
「お疲れ、芹ちゃん」
「……見ていたのですか」
「ちょっとだけね。見えたんだね、糸」
 芹は息を呑む。
「どうして、それを」
「勘だよ、勘」
「杏樹さま」
 今度は、先ほどよりも強い声で呼んだ。
 杏樹の笑みが薄れる。その変化を見逃さないまま、芹は一歩、彼へ近づいた。
「私は、もうその言葉だけでは納得できません」
「……だよね」
「あなたは、知っていますよね。星見の力のことも、白銀のことも、私のことも」
 杏樹は視線を逸らした。
「全部じゃないよ」
「では、知っていることを教えてください」
「今は言えない。言えば、俺を見る目が変わるから」
「──っ」
 言葉を失った芹を見て、杏樹は笑った。
「嫌なんだよね。俺、臆病だから」
 杏樹は軽く言う。けれどその声は、少し震えていた。
「今の芹ちゃんに、軽い男だなぁとか、何考えてるのか分からないなぁとか、そう思われてるくらいが楽なんだ」
「そんなふうには」
「思ってるでしょ?」
「……少し」
「正直でよろしい」
 杏樹は笑った。今度は少しだけ、本当に笑っているように見えた。
「でもね、芹ちゃん」
 彼は桜の枝へ視線を向ける。
「俺は、たぶん君に嫌われる」
「どうして、ですか」
「選ばなかったから」
「何を……」
「手を伸ばすべき時に、伸ばせなかった」
 白銀の言葉が蘇る。また見殺しにするか、という嘲笑が。
 芹は息を呑んだ。
「誰かを、見殺しにしたのですか」
 杏樹の表情が、ぴたりと止まる。張り詰めた沈黙の中、天也が低く芹の名を呼んだ。
「芹」
 咎めるような声ではなかった。ただ、静かに制そうとしているだけだ。けれど杏樹は、それを遮るように小さく手を上げた。
「いいよ」
 そして、芹を見る。
「そうだね。俺は見殺しにした」
 胸が締めつけられる。
「誰を、ですか」
「今はまだ、言えない」
「……また」
「ごめん」
「謝らないでください」
 芹は唇を噛んだ。
「謝るくらいなら、話してください」
 杏樹は目を伏せる。
「話したら、芹ちゃんが自分を責める」
「私が? どうして……」
「君はそういう子だから」
 その言葉が、妙に胸に刺さった。
 杏樹は芹を知っている。芹が思っているよりも、もっと深く、もっと長く。まるで、別の時間で出会っていたかのように。
「杏樹さま。私たちは、前にも会っていますか」
 風が、ふいに止まったような気がした。
 杏樹の目が、ほんの一瞬だけ大きく揺れる。その変化に気づいたように、天也も静かに杏樹を見た。
 沈黙が落ちる。長く、重たい沈黙だった。
 やがて――杏樹は、いつものように笑った。
「どうだろうね」
 答えになっていない。けれど、それが答えだった。
 芹の胸が高鳴る。
 やはり、何かがある。杏樹は過去を知っている。あるいは、芹が知らない未来を。

「杏樹。お前は何を隠している」
「んー、たくさん?」
「ふざけているのか」
「ふざけてないよ」
 杏樹は笑っている。けれど、その笑顔は今にも崩れそうだった。
「いくら天也でも、言えないことがあるんだよ」
「俺にも?」
「うん」
「……なぜ」
 杏樹は天也を見た。
「君も、選び方を間違えるから」
 天也の表情が変わった。
 杏樹はすぐに視線を逸らし、苦しそうに笑う。
「ごめん。今のも失言」
「杏樹」
「ちょっと、寝不足で口が滑るね」
 軽く笑い、杏樹は背を向けた。
「俺、少し詰所に戻る。愁くんの行方、もう一度当たってくるよ」
「待ってください」
 杏樹は振り返らない。
「杏樹さま!」
 今度は足を止めた。
 芹は拳を握る。
「私は、杏樹さまを嫌いになりたいわけではありません」
 杏樹の肩が、小さく揺れた。
「何を隠しているのか分かりません。何を後悔しているのかも分かりません。でも、知る前から嫌いになると決めつけないでください」
 声が震えた。
「私は、ちゃんと見たいのです」
 これは天也にも言った言葉だ。自分の目で見て決める。それは杏樹に対しても同じだ。
 杏樹はしばらく黙っていた。やがて、そっと振り返る。
「……ほんと、そういうところ。ずるいよね」
 それだけ言って、杏樹は去っていった。
 芹はその背中を見送る。
 胸の奥が痛かった。杏樹の抱えているものは、きっととても重い。それを知る時が来るのが、怖い。
 けれど、知らなければならない。