蔵には、昨日開いた巻物がまだ机の上に置かれていた。
楊憲は蔵の奥へ進み、古い棚の下に手をかけた。床板の一部を外すと、そこに小さな桐箱が収められていた。蓋には星の形に似た紋が彫られている。
「これだ」
楊憲が慎重に差し出したものを、芹は両手で受け取った。手にした瞬間、胸の奥が微かに熱を帯びた。
(……呼んでいる)
そう思った。
箱が。あるいは、その中にあるものが。
芹は蓋に手をかける。しかし、開かない。力を入れてもびくともしなかった。
「やはり駄目か」
楊憲が呟く。けれど芹は首を振った。
「いいえ」
分かる。力で開けるものではない。
芹は目を閉じた。胸の奥にある熱へ意識を向ける。
――星見。
未来を見る力ではない。運命の結び目を見つける力。ほどける糸を見極める力。
(……教えて)
心の中で呟く。
(私は、何を見ればいいの)
その瞬間、指先に小さな痛みが走った。
「っ」
「芹」
天也がすぐに反応する。
「大丈夫です」
芹は箱を見つめた。指先から、一滴だけ血が滲んでいる。その血が星の紋に落ちた瞬間、箱の蓋が小さく鳴った。
かちり、と。封が解ける音だ。
芹は息を呑み、ゆっくり蓋を開けた。
中には、細い銀糸で綴じられた古い冊子と、小さな鏡が入っていた。
鏡は手のひらほどの大きさで、縁には星と桜の意匠が彫られている。表面は曇っているのに、覗き込むと奥に淡い光が揺れているように見えた。
「これは……」
楊憲も初めて見るらしく、驚いた顔をしている。
芹は冊子を手に取った。表紙には、薄く文字が残っている。
――星見覚書。
その文字を見て、心臓が大きく鳴った。
「星見の……」
芹は震える指で紙を捲る。
古い文字。けれど昨日の巻物よりも、ずっと読みやすい。
まるで、芹に読まれることを待っていたかのように。
──星見とは、定めを視る力にあらず。
──人と人との間に生じる結び目を見つけ、ほどくべき糸と結ぶべき糸を見極める力なり。
芹は息を止めた。
──結び目は、愛より生まれる。
──愛は人を救い、人を縛る。
──救う愛と縛る愛を見誤れば、星見は災いとなる。
「救う愛と、縛る愛……」
声に出すと、胸の奥が震えた。
愁の愛は、どちらなのだろう。
本来は救う愛だったはずだ。けれど白銀に絡め取られ、縛る愛へ変えられようとしている。
ならば、ほどくべきは愁の愛ではない。そこに絡みついた白銀の糸だ。
「続きを」
天也が静かに言う。
芹は頷く。
──白銀は、情に飢えた鬼なり。
──己が愛されざるゆえ、人の愛を喰らい、己のものとする。
──白銀を斬るのみでは滅びぬ。愛の結び目より引き剥がさねば、また別の者の心へ巣食う。
「斬るだけでは、駄目……」
芹は天也を見た。天也も表情を険しくしている。
鬼狩りの刀では、白銀を完全には止められない。それが意味することは明らかだった。
「私が、ほどかなければならないのですね」
声が震えた。
天也はすぐに答えなかった。けれど、その沈黙が肯定だった。
「方法は書いてあるか」
芹は次の項をめくる。しかし次の部分は、文字が薄くなっていて読めない。目を凝らしても、霞がかかったようにぼやけてしまう。
「……読めません」
「力が足りないのかもしれないね」
楊憲が言う。
「力が強まれば読めるようになるのか」
天也が尋ねると、楊憲は頷いた。
「おそらくですが」
「では、星見の力を使う訓練が必要だな」
訓練。
芹は鏡へ視線を落とした。
星見の鏡。それが何なのか、説明されなくても何となく分かった。
この鏡は、結び目を見るためのものだと、そう直感した。
「使ってみます」
芹が言うと、天也がすぐに眉を寄せた。
「今すぐにか」
「はい」
「危険かもしれない」
「でも、知らなければ愁を救えません」
天也は黙った。
芹は鏡を両手で持つ。
「神威様」
「何だ」
「そばに、いてくださいますか」
言ってから、少し恥ずかしくなる。
けれど撤回はしなかった。
怖い。だから、そばにいてほしい。
天也はほんの一瞬だけ目を見開いたように見えた。そして、静かに頷く。
「ああ。いる」
その一言で、胸の奥が落ち着いた。
鏡を覗き込むと、曇った面に自分の顔がぼんやり映っている。
少し青ざめた顔。けれど目だけは、昨日よりも強いように見えた。
(……見せて)
心の中で願う。
(愁を救うために、私が見なければならないものを)
鏡の中の光が揺れる。
次の瞬間、視界が反転した。
桜の花びらが舞っている。いや、桜ではない。無数の糸だ。
白、金、淡い紅、深い藍。色とりどりの糸が、空間に張り巡らされている。
その中に、黒く濁った糸があった。愁のものだと、なぜか分かった。黒い糸の中心には、温かな薄桃色の光がある。
それは愁の心。芹を大切に思う、優しい情。けれどその周りに、銀色の糸が絡みついている。
美しいのに冷たい。光っているのに、どこか死んでいる。
(……白銀)
銀の糸は、愁の薄桃色を締め上げていた。
守りたい。失いたくない。そばにいてほしい。その願いの一つひとつに銀の糸が絡み、形を変えていく。
守りたい、は閉じ込めたいへ。失いたくない、は奪われたくないへ。そばにいてほしい、はどこにも行かせないへ。
(やめて)
芹は思わず手を伸ばした。
銀の糸に触れようとした瞬間、冷たい痛みが指先を走る。
──触れるな。
白銀の声。
芹は息を呑む。鏡の中の糸の奥に、赤い瞳が浮かんだ。
──まだお前にはほどけぬ。
銀の糸が一斉に芹へ伸びる。
絡め取られてしまう。そう思った瞬間、現実の世界で腕を強く掴まれた。
「芹!」
天也の声だ。
芹ははっと目を開けた。鏡は手の中にある。
蔵の中。天也の腕。楊憲の青ざめた顔。
芹は荒い息を繰り返した。
楊憲は蔵の奥へ進み、古い棚の下に手をかけた。床板の一部を外すと、そこに小さな桐箱が収められていた。蓋には星の形に似た紋が彫られている。
「これだ」
楊憲が慎重に差し出したものを、芹は両手で受け取った。手にした瞬間、胸の奥が微かに熱を帯びた。
(……呼んでいる)
そう思った。
箱が。あるいは、その中にあるものが。
芹は蓋に手をかける。しかし、開かない。力を入れてもびくともしなかった。
「やはり駄目か」
楊憲が呟く。けれど芹は首を振った。
「いいえ」
分かる。力で開けるものではない。
芹は目を閉じた。胸の奥にある熱へ意識を向ける。
――星見。
未来を見る力ではない。運命の結び目を見つける力。ほどける糸を見極める力。
(……教えて)
心の中で呟く。
(私は、何を見ればいいの)
その瞬間、指先に小さな痛みが走った。
「っ」
「芹」
天也がすぐに反応する。
「大丈夫です」
芹は箱を見つめた。指先から、一滴だけ血が滲んでいる。その血が星の紋に落ちた瞬間、箱の蓋が小さく鳴った。
かちり、と。封が解ける音だ。
芹は息を呑み、ゆっくり蓋を開けた。
中には、細い銀糸で綴じられた古い冊子と、小さな鏡が入っていた。
鏡は手のひらほどの大きさで、縁には星と桜の意匠が彫られている。表面は曇っているのに、覗き込むと奥に淡い光が揺れているように見えた。
「これは……」
楊憲も初めて見るらしく、驚いた顔をしている。
芹は冊子を手に取った。表紙には、薄く文字が残っている。
――星見覚書。
その文字を見て、心臓が大きく鳴った。
「星見の……」
芹は震える指で紙を捲る。
古い文字。けれど昨日の巻物よりも、ずっと読みやすい。
まるで、芹に読まれることを待っていたかのように。
──星見とは、定めを視る力にあらず。
──人と人との間に生じる結び目を見つけ、ほどくべき糸と結ぶべき糸を見極める力なり。
芹は息を止めた。
──結び目は、愛より生まれる。
──愛は人を救い、人を縛る。
──救う愛と縛る愛を見誤れば、星見は災いとなる。
「救う愛と、縛る愛……」
声に出すと、胸の奥が震えた。
愁の愛は、どちらなのだろう。
本来は救う愛だったはずだ。けれど白銀に絡め取られ、縛る愛へ変えられようとしている。
ならば、ほどくべきは愁の愛ではない。そこに絡みついた白銀の糸だ。
「続きを」
天也が静かに言う。
芹は頷く。
──白銀は、情に飢えた鬼なり。
──己が愛されざるゆえ、人の愛を喰らい、己のものとする。
──白銀を斬るのみでは滅びぬ。愛の結び目より引き剥がさねば、また別の者の心へ巣食う。
「斬るだけでは、駄目……」
芹は天也を見た。天也も表情を険しくしている。
鬼狩りの刀では、白銀を完全には止められない。それが意味することは明らかだった。
「私が、ほどかなければならないのですね」
声が震えた。
天也はすぐに答えなかった。けれど、その沈黙が肯定だった。
「方法は書いてあるか」
芹は次の項をめくる。しかし次の部分は、文字が薄くなっていて読めない。目を凝らしても、霞がかかったようにぼやけてしまう。
「……読めません」
「力が足りないのかもしれないね」
楊憲が言う。
「力が強まれば読めるようになるのか」
天也が尋ねると、楊憲は頷いた。
「おそらくですが」
「では、星見の力を使う訓練が必要だな」
訓練。
芹は鏡へ視線を落とした。
星見の鏡。それが何なのか、説明されなくても何となく分かった。
この鏡は、結び目を見るためのものだと、そう直感した。
「使ってみます」
芹が言うと、天也がすぐに眉を寄せた。
「今すぐにか」
「はい」
「危険かもしれない」
「でも、知らなければ愁を救えません」
天也は黙った。
芹は鏡を両手で持つ。
「神威様」
「何だ」
「そばに、いてくださいますか」
言ってから、少し恥ずかしくなる。
けれど撤回はしなかった。
怖い。だから、そばにいてほしい。
天也はほんの一瞬だけ目を見開いたように見えた。そして、静かに頷く。
「ああ。いる」
その一言で、胸の奥が落ち着いた。
鏡を覗き込むと、曇った面に自分の顔がぼんやり映っている。
少し青ざめた顔。けれど目だけは、昨日よりも強いように見えた。
(……見せて)
心の中で願う。
(愁を救うために、私が見なければならないものを)
鏡の中の光が揺れる。
次の瞬間、視界が反転した。
桜の花びらが舞っている。いや、桜ではない。無数の糸だ。
白、金、淡い紅、深い藍。色とりどりの糸が、空間に張り巡らされている。
その中に、黒く濁った糸があった。愁のものだと、なぜか分かった。黒い糸の中心には、温かな薄桃色の光がある。
それは愁の心。芹を大切に思う、優しい情。けれどその周りに、銀色の糸が絡みついている。
美しいのに冷たい。光っているのに、どこか死んでいる。
(……白銀)
銀の糸は、愁の薄桃色を締め上げていた。
守りたい。失いたくない。そばにいてほしい。その願いの一つひとつに銀の糸が絡み、形を変えていく。
守りたい、は閉じ込めたいへ。失いたくない、は奪われたくないへ。そばにいてほしい、はどこにも行かせないへ。
(やめて)
芹は思わず手を伸ばした。
銀の糸に触れようとした瞬間、冷たい痛みが指先を走る。
──触れるな。
白銀の声。
芹は息を呑む。鏡の中の糸の奥に、赤い瞳が浮かんだ。
──まだお前にはほどけぬ。
銀の糸が一斉に芹へ伸びる。
絡め取られてしまう。そう思った瞬間、現実の世界で腕を強く掴まれた。
「芹!」
天也の声だ。
芹ははっと目を開けた。鏡は手の中にある。
蔵の中。天也の腕。楊憲の青ざめた顔。
芹は荒い息を繰り返した。

