白銀鬼譚 -星見の巫女姫は愛をほどく-

 人の形をした鬼として姿を現した白銀は、艶やかな銀の髪と赤い瞳を持つ、底のない冷たい声をした男だった。
 ──お前の愛がほどける時を、楽しみにしている。
 その言葉が、耳の奥にこびりついている。
(……愛が、ほどける時)
 それはどういう意味なのだろう。
 愛は結ぶものではないのか。家族と、友と、想う人と。けれど白銀は、それを絡め取り、歪め、縛るものへ変える。
 愁の親愛は、芹を閉じ込めようとする執着へ変わりかけていた。杏樹の軽やかな笑みの奥には、誰かを見殺しにしたという後悔があるらしい。そして天也にも、白銀が触れようとした傷がある。
 守りたい。救いたい。失いたくない。その思いが、どこまでなら愛で、どこからが執着なのか、芹にはまだ分からない。
 けれど、分からないままではいられなかった。
「芹」
 父の声がして、芹は顔を上げた。
 楊憲が襖の向こうに立っている。笑みを浮かべているが、その目元には疲れが見えた。
「入ってもいいかな」
「ええ」
 楊憲は部屋に入り、芹の前に腰を下ろした。
「眠れなかったようだね」
「……父様も」
「年を取ると、眠りが浅くなるんだよ」
「父様はまだ若いわ」
「ありがとう。娘にそう言ってもらえると、少し元気が出る」
 楊憲はそう言って笑ったが、すぐに表情を改めた。
「昨夜のこと、神威殿から少し聞いたよ。白銀が現れた、と」
「……はい」
「愁は、まだ戻っていない」
 その言葉に、芹は膝の上で手を握った。
 愁は戻らなかった。杏樹が夜明け前まで屋敷の周囲を見てくれたが、手がかりはなかった。裏山の祠にも、梅林にも、都へ続く道にも、愁の姿はなかったという。
 ただ、白銀の気配だけが薄く残っていた。まるで、芹を嘲笑うように。
「……父様。愁は、助けられる?」
 楊憲はすぐには答えなかった。優しい嘘をつくことも、安易な希望を口にすることも、しなかった。その沈黙が、かえって怖かった。
「分からない。けれど、助ける方法を探すことはできる」
「……はい」
「芹。お前は星見の力を恐れているかい」
 思いがけない問いに、芹は目を瞬かせる。
「恐れている……と思うわ。何が見えるのか分からない。何を変えてしまうのかも分からない。私が何かを選ぶことで、誰かを傷つけるかもしれない。それが怖いの」
「そうだね。力は、何も知らずに扱えば怖いものだ」
「でも、使わなければ愁を助けられないかもしれない」
「うん」
「だから……知りたいの」
 芹は顔を上げる。
「星見の力はどうやって使うのか。白銀をどうすれば止められるのか。私に何ができるのか」
 楊憲の目が少しだけ潤んだように見えた。
「お前は強くなったね」
「強くないわ」
「怖いと言いながら前を見る人を、強いと言うんだよ」
 その言葉に、天也を思い出した。
 恐れても、足を止めなければいい。怖いと思う心は、捨てるものではない。
 天也がくれた言葉が、芹の中で静かに息づいている。
「蔵に、まだ見ていない箱がある」
 楊憲が言った。
「当主である私も開けたことがないものだ。縹の姫にしか開けられないと伝えられている」
「私にしか?」
「そう。ずっと迷信だと思っていたが……今なら、開くかもしれない」
 芹の胸が鳴る。
 縹の姫にしか開けられない箱。そこに、何かがある。そう直感した。
「見るわ。今すぐに」
 楊憲は頷いた。
 蔵へ向かう廊下の途中、天也が待っていた。黒い装束をまとい、腰には翡翠の刀がある。朝の光を受けた亜麻色の髪が淡く輝いていて、芹は一瞬足を止めた。
「神威様」
「顔色は昨日より悪くないな」
 開口一番にそう言われ、芹は思わず瞬きをした。
「……ご挨拶より先にそれですか」
「必要な確認だ」
「そう、ですか」
 少しだけ笑ってしまう。
 自分でも驚いた。こんな状況なのに、天也と話すと胸の奥が少しだけ緩む。
 天也はそれを見て、ふっと目元を和らげた。
「少しは眠れたようだな」
「はい。少しだけ」
「ならいい」
 短い言葉。けれど、その中に確かな安堵がある。それが分かってしまうくらいには、芹は天也を見てきた。
「杏樹さまは?」
「屋敷の外を見ている」
「休んでいないのですか」
「少しは休めと言った」
「聞かなかったのですね」
「聞かなかった」
 天也の声音に、ほんの少し呆れが混じる。
 芹は胸が痛んだ。昨夜、白銀に「また見殺しにするか」と言われた時の杏樹の顔が忘れられない。
 杏樹は何を見殺しにしたのだろう。誰を失ったのだろう。そして、どうしていつも笑っているのだろう。
「芹」
「はい」
「今は目の前のことを見ろ」
 はっとする。考えを読まれたのかと思った。
「……分かりました」
「杏樹のことも、いずれ聞き出す。だが今は白銀と愁だ」
「はい」
 天也はいつも、芹が迷いかけると道を示してくれる。無理に引っ張るのではなく、ただ向くべき方を指してくれる。そのことが、今は心強かった。