白銀鬼譚 -星見の巫女姫は愛をほどく-

 その夜、天也と杏樹は縹家の屋敷に残った。
 父の楊憲には、鬼の異常に備えるためと説明した。楊憲は何かを察したようだったが、深くは尋ねなかった。
 芹は座敷で横になったものの、眠れなかった。隣の部屋には天也がいる。少し離れた廊下には杏樹もいる。
 守られている。その安心があるのに、胸はざわついたままだ。
 愁はどこにいるのだろう。白銀は何をしようとしているのだろう。考えても答えは出ない。
 やがて、うとうとと意識が沈みかけた時。
 耳元で、声がした。
 ――姫様。
 愁の声だった。
 芹は目を開けそうになる。けれど、天也の言葉を思い出す。
 白銀の声が聞こえても答えるな。愁の姿が見えても、一人で追うな。
 芹は布団の中で手を握りしめた。
 声は続く。
 ――助けてください。
 涙が滲む。
 愁の声だ。苦しそうで、悲しそうで、今すぐ駆け出したくなる。
 けれど。
(……応えない)
 芹は唇を噛む。
(あなたを救うために、今は応えない)
 声が少し低くなる。
 ――どうして来てくれないのですか。
 芹の肩が震える。次の瞬間、声は愁のものではなくなった。
 ――薄情な娘だ。
 芹は目を閉じたまま、息を殺す。
 ――愛されるばかりで、何も返さぬ。
 違う。
 ――守られるばかりで、誰も救えぬ。
 違う。
 ――ならば見せてやろう。お前が選ばなかった者の末路を。
 空気が凍った。
 芹は目を開ける。部屋の隅に、白い影が立っていた。
 銀の髪。赤い目。愁の姿ではない。それは、人の形をした鬼だった。
 声が出ない。
 白銀がゆっくり笑う。その手には、愁の紐が握られていた。
 そして次の瞬間、隣の部屋の襖が開いた。
 天也が立っていた。刀を抜き、芹の前に出る。
「下がれ」
「また守るか、鬼狩り」
 天也は答えない。ただ、刀を構えている。
 杏樹も廊下から駆け込んできた。
「白銀……!」
「百舌鳥。お前はいつまで傍観する」
 白銀の赤い目が杏樹を捉える。
「また見殺しにするか」
 杏樹の顔が、凍りついた。
 芹は息を呑む。
 また。見殺し。その言葉が何を意味するのか、分からない。けれど杏樹の表情が、その重さを物語っていた。
「黙れ」
「よい。実によい。愛も後悔も、執着も、すべて甘い」
 白銀の姿が揺らぐ。
「星見の巫女姫。いずれ迎えに来る」
 赤い目が芹を見た。
「お前の愛がほどける時を、楽しみにしている」
 次の瞬間、白銀の姿は霧のように消えた。
 部屋に残ったのは、冷たい空気だけ。
 芹は震えていた。
 天也が刀を下ろさず、しばらく周囲を警戒する。
 杏樹は立ち尽くしていた。顔色がとても悪い。
「杏樹さま」
 芹が呼ぶと、杏樹ははっとしたように笑った。
「大丈夫」
 いつもの言葉。けれど、全く大丈夫には見えなかった。
 天也が杏樹を見る。
「今のは何だ」
「……何でもない」
「杏樹」
「何でもないって」
 杏樹は笑った。痛々しいほど軽く。
「ごめん。ちょっと外の空気吸ってくる」
 そう言って、杏樹は部屋を出ていった。
 芹は追いかけようとしたが、天也に止められた。
「今は一人にしてやれ」
「でも」
「杏樹にも、触れられたくない傷がある」
 芹は胸を押さえた。
「神威様は」
 芹は小さく尋ねる。
「杏樹さまのことを、どこまでご存じなのですか」
「多くは知らない」
「そうなのですか」
「あいつは隠すのが上手いからな。よく喋る口だが、肝心なことは語らない」
「……はい」
 それは芹にも分かる。
 杏樹はずっと、笑っている。けれどその笑みの下に、深い傷を隠している。
 白銀はそこを知っていた。そして抉った。
 愁だけではない。白銀は、誰の愛にも、後悔にも、執着にも入り込むのだろう。
(……愛をほどく)
 巻物の言葉が蘇る。
 星見の力は、運命の結び目を見つける力。
 白銀は、心に巣食う鬼。
 ならば芹がしなければならないことは、何なのか。
 愁の中に絡みついたものをほどくこと。杏樹の後悔を見つめること。天也を見誤らないこと。
 そして、自分自身の恐れをほどくこと。
 芹は震える手を握りしめた。
「神威様」
「何だ」
「私は、白銀を止めたいです」
「ああ」
「愁を助けたい。杏樹さまのことも知りたい。あなたのことも、もっと」
 最後の言葉は、小さくなった。けれど天也には聞こえたらしい。
 翡翠の瞳が、静かに芹を見る。
 芹は頬が熱くなるのを感じながら、それでも目を逸らさなかった。
「何も知らないままでは、誰も救えないから」
 天也はしばらく黙っていた。やがて、静かに頷く。
「ならば、明日から白銀について本格的に調べる」
「はい」
「愁の行方も追う」
「はい」
「そして、お前の星見の力も調べる」
 芹は息を呑んだ。
 怖い。自分の中にあるかもしれない力。それが何を見せるのか、分からない。
 けれど、逃げるわけにはいかなかった。
「……お願いします」
 芹は頭を下げた。
 天也は少しだけ眉を寄せる。
「一人で抱えるな」
 その言葉に、胸がじんとする。
「はい」
「俺もいる」
 短い一言。ただそれだけで、涙が出そうになった。
 芹は顔を上げる。
 天也はいつも通り静かな顔をしている。けれど、その瞳には確かな熱があった。
 信じたい。その気持ちはもう、揺らがなかった。
 夜は深くなっていく。
 白銀は消えた。愁は戻らない。杏樹は傷ついたまま、どこかで笑っている。
 何一つ解決していない。それでも芹は、以前よりもはっきりと前を向いていた。
 怖い。けれど、足は止めない。
 運命の糸が絡まっているのなら、自分の手でほどく。
 芹は胸の奥に灯った小さな熱を、そっと抱きしめた。