三人は裏山へ向かった。
夜の山道は暗い。月明かりが木々の隙間からこぼれ、足元にまだらな影を落としている。風が吹くたび、葉が擦れ合い、どこかで小さな獣が走る音がした。
芹は天也のすぐ後ろを歩いた。
彼の背中が近い。黒い装束。腰に差された翡翠の刀。その存在が、今は頼もしかった。
怖い。けれど、一人ではない。
杏樹は少し後ろを歩いている。
いつもの軽口はない。その沈黙が、不安を増した。
「この先です」
芹は小さく言った。
木々が少し開けた場所。そこに、小さな祠があった。
梅林のものよりもさらに古いが、月明かりを浴びたその姿は、不思議と静かで、寂しかった。
「……愁?」
芹は声をかける。
返事はない。しかし、祠の前に何かが落ちていた。
それは小さな布切れで、愁がいつも身につけていた紐の一部だった。
芹は駆け寄ろうとして、天也に止められた。
「待て」
天也が先に進み、周囲を確認する。杏樹も祠の裏手を見る。
「気配はないね。でも、いたのは確か」
天也が布切れを拾い、芹へ渡す。
芹はそれを握りしめる。
「愁……」
その瞬間、胸の奥が熱くなった。視界が白く揺れる。
「芹?」
天也の声が、遠くなっていく。
その瞬間、芹の目の前に、ふいに別の景色が重なった。
幼い自分がいる。泣いていた。声を上げ、ぼろぼろと涙を零している。
その隣には、愁がいた。まだ少年だった愁は、困ったように笑いながら、小さな芹の背をそっと撫でている。
――姫様が泣くと、私も悲しいです。
優しい声だった。胸が痛くなるほど、懐かしい声。
――だから、泣き終わったら、一緒に帰りましょう。
景色が揺らぐ。水面へ石を投げ込んだように、世界が波打った。
次に見えたのは――今の愁だった。
暗い場所。冷たい闇の中で、愁は膝を抱えて蹲っている。
息が苦しそうだった。何かに押し潰されそうな顔で、浅く呼吸を繰り返している。その背後に、白い影があった。
銀のような髪。赤く光る瞳。人の形をしている。けれど、決して人ではない。
禍々しい何か。その影が、ゆっくりと愁の肩へ手を置く。
――欲しいのだろう。
低い声が、闇の中に響いた。
――あの娘を。
――あの娘の心を。
――あの娘の運命を。
愁が苦しげに首を振る。
――違う。
白い影が、愉快そうに笑った。
――ならば、なぜ苦しい。
愁の顔が歪む。
――姫様を、守りたいだけだ。
――守るとは、閉じ込めることだ。
(違う)
芹は心の中で叫んだ。
(違う、愁)
それは違う。けれど、声は届かない。
白い影が、ゆっくりとこちらを振り向く。赤い瞳が、まっすぐ芹を捉えた。
――見つけた。
ぞくり、と背筋が凍る。
次の瞬間。弾かれたように、視界が現実へ戻った。
「――芹!」
天也の声が、すぐ耳元で響いた。
気づけば、芹は天也の腕の中にいた。どうやら倒れかけたところを支えられたらしい。
呼吸がうまく整わない。浅い息を繰り返しながら、芹は震える指先を見下ろした。その手の中には――愁の紐が、強く握られていた。
「愁が……白い影と一緒に」
「白銀か」
「おそらく」
杏樹が険しい顔で周囲を見る。
「まずいね。向こうも芹ちゃんに気づいた」
「……見つけた、と言われました」
天也の腕に力が入った。
「戻るぞ」
「でも、愁が」
「今は戻る」
今度の声には、有無を言わせない強さがあった。
芹も抵抗できなかった。
白銀に見つかった。その事実が、身体の芯を冷やしている。
三人は急いで屋敷へ戻った。
裏山を下りる間、芹は天也に支えられていた。
足元がおぼつかない。それでも、天也の手があるから歩けた。
屋敷へ戻ると、杏樹が周囲に結界代わりの札を貼った。
「気休めだけどね。俺って遊び人に見えて、多芸でしょ?」
いつもの調子。けれど、手元の動きは慎重だった。
天也は芹を座敷へ座らせる。
「今夜はここから出るな」
「はい」
「白銀の声が聞こえても答えるな」
「はい」
「愁の姿が見えても、一人で追うな」
芹は息を止めた。それが一番難しい。
もし愁が助けを求めたら。もし目の前に現れたら。それでも、追ってはいけないのだろうか。
天也は膝をつき、芹の目を見た。
「救うためだ」
静かな声だった。
「今お前が奪われれば、愁も救えない」
芹は震えながら頷く。
「……はい」
天也の手が、ほんの一瞬だけ芹の肩に触れた。
慰めるように。支えるように。
「必ず手を打つ」
胸が熱くなる。
「神威様」
「何だ」
「信じても、いいですか」
問いかけた瞬間、部屋の空気が少し止まった。
杏樹がこちらを見る気配がする。
天也は芹を見つめている。
芹の声は震えていた。
「私はまだ、何もかも分かっているわけではありません。怖いです。疑いも、全部消えたわけではありません。でも」
喉が詰まる。
「今は、あなたを信じたい」
天也はすぐには答えなかった。けれど、その瞳がわずかに揺れた。
長い沈黙の後、彼は静かに言った。
「ならば、信じろ」
傲慢にも聞こえる言葉。けれど、天也が言うと不思議と違った。
それは、芹の信頼を受け止める覚悟のようだった。
「裏切らない」
短い一言。
芹の胸が、強く震えた。
「……はい」
涙がこぼれそうになって、芹は俯いた。その様子を、杏樹は少し離れた場所で見ていた。
いつものように笑っている。けれど、その笑みはひどく寂しかった。
「……今度こそ、か」
小さな呟きは、夜の静けさに溶けた。
夜の山道は暗い。月明かりが木々の隙間からこぼれ、足元にまだらな影を落としている。風が吹くたび、葉が擦れ合い、どこかで小さな獣が走る音がした。
芹は天也のすぐ後ろを歩いた。
彼の背中が近い。黒い装束。腰に差された翡翠の刀。その存在が、今は頼もしかった。
怖い。けれど、一人ではない。
杏樹は少し後ろを歩いている。
いつもの軽口はない。その沈黙が、不安を増した。
「この先です」
芹は小さく言った。
木々が少し開けた場所。そこに、小さな祠があった。
梅林のものよりもさらに古いが、月明かりを浴びたその姿は、不思議と静かで、寂しかった。
「……愁?」
芹は声をかける。
返事はない。しかし、祠の前に何かが落ちていた。
それは小さな布切れで、愁がいつも身につけていた紐の一部だった。
芹は駆け寄ろうとして、天也に止められた。
「待て」
天也が先に進み、周囲を確認する。杏樹も祠の裏手を見る。
「気配はないね。でも、いたのは確か」
天也が布切れを拾い、芹へ渡す。
芹はそれを握りしめる。
「愁……」
その瞬間、胸の奥が熱くなった。視界が白く揺れる。
「芹?」
天也の声が、遠くなっていく。
その瞬間、芹の目の前に、ふいに別の景色が重なった。
幼い自分がいる。泣いていた。声を上げ、ぼろぼろと涙を零している。
その隣には、愁がいた。まだ少年だった愁は、困ったように笑いながら、小さな芹の背をそっと撫でている。
――姫様が泣くと、私も悲しいです。
優しい声だった。胸が痛くなるほど、懐かしい声。
――だから、泣き終わったら、一緒に帰りましょう。
景色が揺らぐ。水面へ石を投げ込んだように、世界が波打った。
次に見えたのは――今の愁だった。
暗い場所。冷たい闇の中で、愁は膝を抱えて蹲っている。
息が苦しそうだった。何かに押し潰されそうな顔で、浅く呼吸を繰り返している。その背後に、白い影があった。
銀のような髪。赤く光る瞳。人の形をしている。けれど、決して人ではない。
禍々しい何か。その影が、ゆっくりと愁の肩へ手を置く。
――欲しいのだろう。
低い声が、闇の中に響いた。
――あの娘を。
――あの娘の心を。
――あの娘の運命を。
愁が苦しげに首を振る。
――違う。
白い影が、愉快そうに笑った。
――ならば、なぜ苦しい。
愁の顔が歪む。
――姫様を、守りたいだけだ。
――守るとは、閉じ込めることだ。
(違う)
芹は心の中で叫んだ。
(違う、愁)
それは違う。けれど、声は届かない。
白い影が、ゆっくりとこちらを振り向く。赤い瞳が、まっすぐ芹を捉えた。
――見つけた。
ぞくり、と背筋が凍る。
次の瞬間。弾かれたように、視界が現実へ戻った。
「――芹!」
天也の声が、すぐ耳元で響いた。
気づけば、芹は天也の腕の中にいた。どうやら倒れかけたところを支えられたらしい。
呼吸がうまく整わない。浅い息を繰り返しながら、芹は震える指先を見下ろした。その手の中には――愁の紐が、強く握られていた。
「愁が……白い影と一緒に」
「白銀か」
「おそらく」
杏樹が険しい顔で周囲を見る。
「まずいね。向こうも芹ちゃんに気づいた」
「……見つけた、と言われました」
天也の腕に力が入った。
「戻るぞ」
「でも、愁が」
「今は戻る」
今度の声には、有無を言わせない強さがあった。
芹も抵抗できなかった。
白銀に見つかった。その事実が、身体の芯を冷やしている。
三人は急いで屋敷へ戻った。
裏山を下りる間、芹は天也に支えられていた。
足元がおぼつかない。それでも、天也の手があるから歩けた。
屋敷へ戻ると、杏樹が周囲に結界代わりの札を貼った。
「気休めだけどね。俺って遊び人に見えて、多芸でしょ?」
いつもの調子。けれど、手元の動きは慎重だった。
天也は芹を座敷へ座らせる。
「今夜はここから出るな」
「はい」
「白銀の声が聞こえても答えるな」
「はい」
「愁の姿が見えても、一人で追うな」
芹は息を止めた。それが一番難しい。
もし愁が助けを求めたら。もし目の前に現れたら。それでも、追ってはいけないのだろうか。
天也は膝をつき、芹の目を見た。
「救うためだ」
静かな声だった。
「今お前が奪われれば、愁も救えない」
芹は震えながら頷く。
「……はい」
天也の手が、ほんの一瞬だけ芹の肩に触れた。
慰めるように。支えるように。
「必ず手を打つ」
胸が熱くなる。
「神威様」
「何だ」
「信じても、いいですか」
問いかけた瞬間、部屋の空気が少し止まった。
杏樹がこちらを見る気配がする。
天也は芹を見つめている。
芹の声は震えていた。
「私はまだ、何もかも分かっているわけではありません。怖いです。疑いも、全部消えたわけではありません。でも」
喉が詰まる。
「今は、あなたを信じたい」
天也はすぐには答えなかった。けれど、その瞳がわずかに揺れた。
長い沈黙の後、彼は静かに言った。
「ならば、信じろ」
傲慢にも聞こえる言葉。けれど、天也が言うと不思議と違った。
それは、芹の信頼を受け止める覚悟のようだった。
「裏切らない」
短い一言。
芹の胸が、強く震えた。
「……はい」
涙がこぼれそうになって、芹は俯いた。その様子を、杏樹は少し離れた場所で見ていた。
いつものように笑っている。けれど、その笑みはひどく寂しかった。
「……今度こそ、か」
小さな呟きは、夜の静けさに溶けた。

