白銀鬼譚 -星見の巫女姫は愛をほどく-

「……姫、様」
 愁の声だった。白銀の笑みが歪んでいく。
「まだ抗うか」
「逃げて……ください。私が……私で、あるうちに」
「愁!」
 芹が駆け寄ろうとすると、またしても天也が腕を掴んだ。
「行くな」
「でも!」
「今近づけば、白銀に取られる」
 天也の声は厳しい。けれど、その手は震えていた。
 芹にしか分からないくらいに。
「愛しいな。どいつもこいつも、守りたいものの前では脆くなる」
 愁の身体がふらりと後ろへ下がる。
 開いた障子の向こう、庭へ。
 月明かりの中、桜の花びらが舞っている。その中で、愁は一瞬だけ芹を見た。
 いつもの、優しい目だった。
「姫様」
 唇が動く。
「必ず、戻ります」
 次の瞬間、黒い霧のようなものが愁の身体を包んだ。
「愁――!」
 芹が叫ぶのと同時に、天也が鋭く踏み込む。
 けれど、その刃が届く寸前に愁の姿は霧の中へ溶けるように消えた。あとに残ったのは、肌を刺すような冷たい空気だけだった。
 座敷に、重たい静寂が落ちる。
 芹はその場に立ち尽くしたまま、動けなかった。
 愁が消えた。目の前で。白銀に連れ去られたのか。それとも――愁自身が、あちらへ引かれていったのか。
 分からない。ただ、胸の奥にぽっかりと穴が空いたようで、息をすることさえ苦しかった。
「……愁」
 声が震える。
 天也が刀を納める音がした。
 杏樹は庭を見つめたまま、何も言わない。
「追わなければ」
 芹は一歩踏み出す。だが、膝から力が抜けた。
 崩れ落ちる寸前、天也が支えてくれた。
「無理をするな」
「でも、愁が」
「今は追えない」
「どうして!」
 思わず声を荒げた。
 芹を見下ろす天也の眼差しは静かで、苦しそうでもあった。
「白銀は、お前を誘っている」
「私を?」
「ああ」
 天也は庭に残る冷気を見た。
「愁を餌に、お前を引きずり出そうとしている」
 芹は息を呑む。
「どうして、私を」
「星見の力を秘めた姫だからだよ」
 杏樹が、静かに答えた。
 芹ははっとして彼を見る。
 けれど杏樹は、もう笑っていなかった。いつもの軽い空気は消え、その横顔には張り詰めたものだけが残っている。
「白銀は、芹ちゃんの力を恐れてる。たぶん、欲しがってもいる」
「私の力なんて、まだ何も」
「だからだよ」
 杏樹の声が低い。
「咲く前なら、絡め取れるから」
 絡め取る。その言葉に、芹は背筋を冷やした。
 天也が杏樹を見る。
「杏樹。お前はどこまで知っている」
 静かな問いだけれど、鋭い。
 杏樹は少しだけ目を伏せた。
「全部じゃないよ」
「答えになっていない」
「知ってることを全部言えば、たぶん壊れる」
「何がだ」
 杏樹は芹を見た。その目が、ひどく優しかった。
「この子が選ぶ道」
「私の……?」
「うん」
 杏樹は困ったように笑う。
「だから、まだ言えない」
「杏樹さま」
「ごめんね」
 また謝られた。けれど今度の謝罪は、いつもより重かった。
 芹は怒りたかった。教えてほしいと叫びたかった。けれど杏樹の顔を見ていると、言葉が出なかった。
 杏樹も苦しんでいる。きっと、芹の知らない場所で何度も。そう思えてしまったから。
 天也はしばらく杏樹を見ていたが、やがて視線を外した。
「今は愁を探す手がかりが先だ」
「はい」
 芹は震える声で頷く。
 天也の手が、まだ芹の腕を支えている。その温かさだけが、今の芹を立たせていた。
「白銀は愁の心に巣食っている」
 天也が言う。
「ならば、愁が強く縁を持つ場所に現れる可能性がある」
「縁のある場所……」
 芹は必死に考えを巡らせた。
 愁と過ごした場所。縹家の屋敷。季節ごとに色を変える庭。幼い頃、何度も駆け回った裏山。夕暮れまで石を投げ合って遊んだ川辺。そして――母の墓。
 思い出せる場所はいくつもあった。ありすぎるほどに。そのどれにも、愁との記憶が残っている。
「愁が苦しい時に行く場所があります」
 芹はふと思い出した。
「裏山の小さな祠です。昔、愁は嫌なことがあると、よくそこへ行っていました」
「祠?」
 杏樹が反応する。天也も目を細めた。
「どんな祠だ」
「古いものです。縹家の敷地の外れにあって、誰を祀っているのかは分かりません。母様が亡くなった後、私が泣いていた時、愁がそこへ連れて行ってくれました」
 ――ここは静かでしょう。
 幼い愁の声が蘇る。
 ――泣きたい時は、ここで泣けばいいのです。
 胸が痛む。その場所に、愁はいるだろうか。それとも白銀が待っているのだろうか。
「可能性があるならば、行くしかあるまい。俺と杏樹で見に行ってくる」
「私も行きます」
「駄目だ」
 芹は天也を見上げる。
「愁に、会いたいのです」
「白銀の狙いはお前だ」
「それでも」
「駄目だ」
 芹はきゅっと唇を噛んだ。
 分かっている。自分が行けば危険だということも。場合によっては、足手まといになるかもしれないことも。
 それでも――愁を助けたい。あの苦しそうな顔を、放っておけない。その想いだけは、どうしても止められなかった。
「……私は、守られているだけなのですか」
 天也の瞳がわずかに揺れる。
「愁を助けたいのに。白銀を知りたいのに。星見の力が私にあるのなら、私が行かなくてどうするのですか」
「力を使えないまま行けば、奪われるだけだ」
「では、どうすれば!」
 芹の声が震える。
「待っていればいいのですか」
 震える声のまま、芹は続けた。
「誰かが傷つくのを、ただここで見ていれば」
 天也は何も答えなかった。その沈黙が、かえって苦しい。
 芹の目に、じわりと涙が滲む。
「私は、一度……」
 そこまで言って、言葉が止まった。
 一度、何だ。死んだ。殺された。天也の屋敷で。
 喉の奥までせり上がった言葉を、芹は必死に飲み込む。
 言えるはずがない。けれど、胸の奥に溜まり続けていた恐怖と焦りは、もう抑えきれなくなっていた。
「私は、何も知らないまま失うのが嫌なのです」
 代わりに、そう言った。
「もう、嫌なのです」
 天也はじっと芹を見つめていた。
 翡翠の瞳が、まっすぐこちらを射抜いている。
 長い沈黙が落ちる。
 芹は息を詰めたまま、その答えを待った。
 やがて――天也が、静かに息を吐く。
「……俺のそばを離れないと、約束できるか?」
 芹は目を見開いた。
「では」
「行くなら、絶対に離れるな。俺の指示に従え。白銀の声に応えるな」
「はい」
「少しでも異変があれば、俺が連れ戻す」
「はい」
 芹は何度も頷いた。
 杏樹が横で小さく笑っている。
「天也、甘くなったね」
「黙れ」
「でも、悪くないと思うよ」
 杏樹は芹を見る。
「芹ちゃんが行かなきゃ、ほどけないものもあるだろうし」
「ほどけないもの……」
「うん」
 杏樹は目を細める。
「たぶん、これはそういう話だから」
 その言葉の意味を問いかける前に、天也が歩き出した。