「しろ、がね」
愁が掠れた声で繰り返す。
次の瞬間、彼の瞳から光が消えた。
「――その名を、呼ぶな」
声が変わった。愁の声でありながら、愁ではない。低く、冷たく、底の見えない声。
芹の身体が凍りつく。
「あなたが、白銀なの?」
愁の口元が、ゆっくりと笑みの形を作った。見たことのない笑い方だった。
「まだ、そうではない」
「まだ?」
「心が抵抗している。だが、お前を想う心は実に甘いな」
「やめて」
芹は思わず言った。
「愁の心を、そんなふうに言わないで」
「愁?」
白銀は笑う。
「これは、お前を欲している。お前を守りたいと願い、お前に置いて行かれたくないと怯え、お前が他の男を見るたびに胸を灼いている」
「違う」
「違わぬ」
「愁はそんな人ではない!」
叫んだ瞬間、胸の奥が熱を帯びた。
巻物に触れた時と同じ熱だ。
白銀が眩しそうに目を細めている。
「……星見の血か。忌々しい」
白銀が一歩近づく。
芹は後ずさりそうになる足を、必死に止めた。
愁の身体だ。目の前にいるのは、愁の姿をしている。だからこそ怖い。
「お前たちはいつもそうだ。ほどく、ほどくと。結んだものを断ち、願いを否定し、愛を綺麗なもののように語る」
「愛を歪めているのは、あなたでしょう」
「歪める?」
白銀は笑った。
「私はただ、隠された願いを表へ出してやるだけだ。失いたくない。離れたくない。自分だけを見てほしい。愛とはそういうものだろう」
「違う」
芹は首を振る。
「それだけではないわ」
「ならば、お前は何を知っている。愛されたことしかない小娘が」
芹は唇を噛む。
確かに、芹は愛されてきた。
父に。愁に。亡き母の記憶に。そして一度目の世界では、天也にも愛されるはずだったのかもしれない。
けれど、その愛がすべて正しい形だったのかは分からない。
だからこそ、ほどかなければならないのだ。何が愛で、何が執着なのか。誰かを守る手と、閉じ込める手の違いを。
「まだ、分からないわ。でも、分からないから知りたい。知って、選びたい」
白銀の瞳が冷たく光る。
「選ぶ、か」
その言葉に、かすかな怒りが滲んだ。
「お前たちはいつも選ぶ。選べると思っている」
愁の手が、ゆっくりと持ち上がる。その指先が、まっすぐ芹の喉元へ伸びてきた。
逃げなければ。そう思うのに、身体が動かない。
息が詰まる。
次の瞬間――襖が、鋭い音を立てて開いた。
「――芹!」
低い声が、鋭く落ちた。
瞬き一つしない間に、翡翠の光が月明かりを裂く。
息を呑む。
黒い装束をまとった天也が、そこに立っていた。刀へ静かに手をかけたまま、真っ直ぐ愁を見据えている。その背後には、杏樹の姿もあった。
「間に合った」
杏樹が息を吐く。
白銀はゆっくりと振り返った。
「鬼狩りか」
天也の表情が鋭くなる。
「その男から離れろ」
「それはできぬ」
白銀は笑う。
「これは私を拒むが、同時に私を呼ぶ。愛は深く、恐れは濃い。実に良い器だ」
「黙れ」
天也の声が、静かに低くなる。
怒っているのだと、すぐに分かった。けれどそれは、激情ではない。底の深い水のような、静かな怒りだった。
そんな天也を前にしても、白銀は愉快そうに目を細める。
「お前も同じだろう、鬼狩り」
天也の手が、刀の柄を握る。
「何?」
「守りたい。救いたい。失いたくない。その思いがどれほど甘いか、お前はよく知っているはずだ」
天也は答えない。けれど芹は、ほんの一瞬だけ彼の横顔が強張ったのを見た。
(……神威様?)
白銀は何を知っているのだろう。天也の何を。
杏樹が札を手に一歩前へ出る。
「白銀」
その声に、芹は驚いた。杏樹の声から、いつもの軽さが消えていた。
「今は引いてくれないかな」
「百舌鳥の術者か」
白銀が杏樹を見る。
「お前もまた、繰り返すものの匂いがする」
――繰り返す。その言葉に、芹の胸が大きく跳ねた。
杏樹の表情は変わらず、いつものように穏やかなままだ。
けれど――その目は途轍もなく冷たかった。
「余計なこと言わないでくれる?」
「この娘はまだ知らぬのか」
「黙れって言ってるでしょ」
杏樹の指先が、そっと口元の前で組まれる。
芹は思わず息を呑んだ。
――今の会話は、何だったのだろう。
断片のような言葉が、胸の奥に引っかかる。
杏樹は、何を知っているのか。何を見てきたのか。
そして――何を、繰り返しているのか。
白銀は愉快そうに笑っていた。けれど次の瞬間、不意に愁の身体が大きく震える。
その変化に、場の空気が一瞬で張り詰めた。
愁が掠れた声で繰り返す。
次の瞬間、彼の瞳から光が消えた。
「――その名を、呼ぶな」
声が変わった。愁の声でありながら、愁ではない。低く、冷たく、底の見えない声。
芹の身体が凍りつく。
「あなたが、白銀なの?」
愁の口元が、ゆっくりと笑みの形を作った。見たことのない笑い方だった。
「まだ、そうではない」
「まだ?」
「心が抵抗している。だが、お前を想う心は実に甘いな」
「やめて」
芹は思わず言った。
「愁の心を、そんなふうに言わないで」
「愁?」
白銀は笑う。
「これは、お前を欲している。お前を守りたいと願い、お前に置いて行かれたくないと怯え、お前が他の男を見るたびに胸を灼いている」
「違う」
「違わぬ」
「愁はそんな人ではない!」
叫んだ瞬間、胸の奥が熱を帯びた。
巻物に触れた時と同じ熱だ。
白銀が眩しそうに目を細めている。
「……星見の血か。忌々しい」
白銀が一歩近づく。
芹は後ずさりそうになる足を、必死に止めた。
愁の身体だ。目の前にいるのは、愁の姿をしている。だからこそ怖い。
「お前たちはいつもそうだ。ほどく、ほどくと。結んだものを断ち、願いを否定し、愛を綺麗なもののように語る」
「愛を歪めているのは、あなたでしょう」
「歪める?」
白銀は笑った。
「私はただ、隠された願いを表へ出してやるだけだ。失いたくない。離れたくない。自分だけを見てほしい。愛とはそういうものだろう」
「違う」
芹は首を振る。
「それだけではないわ」
「ならば、お前は何を知っている。愛されたことしかない小娘が」
芹は唇を噛む。
確かに、芹は愛されてきた。
父に。愁に。亡き母の記憶に。そして一度目の世界では、天也にも愛されるはずだったのかもしれない。
けれど、その愛がすべて正しい形だったのかは分からない。
だからこそ、ほどかなければならないのだ。何が愛で、何が執着なのか。誰かを守る手と、閉じ込める手の違いを。
「まだ、分からないわ。でも、分からないから知りたい。知って、選びたい」
白銀の瞳が冷たく光る。
「選ぶ、か」
その言葉に、かすかな怒りが滲んだ。
「お前たちはいつも選ぶ。選べると思っている」
愁の手が、ゆっくりと持ち上がる。その指先が、まっすぐ芹の喉元へ伸びてきた。
逃げなければ。そう思うのに、身体が動かない。
息が詰まる。
次の瞬間――襖が、鋭い音を立てて開いた。
「――芹!」
低い声が、鋭く落ちた。
瞬き一つしない間に、翡翠の光が月明かりを裂く。
息を呑む。
黒い装束をまとった天也が、そこに立っていた。刀へ静かに手をかけたまま、真っ直ぐ愁を見据えている。その背後には、杏樹の姿もあった。
「間に合った」
杏樹が息を吐く。
白銀はゆっくりと振り返った。
「鬼狩りか」
天也の表情が鋭くなる。
「その男から離れろ」
「それはできぬ」
白銀は笑う。
「これは私を拒むが、同時に私を呼ぶ。愛は深く、恐れは濃い。実に良い器だ」
「黙れ」
天也の声が、静かに低くなる。
怒っているのだと、すぐに分かった。けれどそれは、激情ではない。底の深い水のような、静かな怒りだった。
そんな天也を前にしても、白銀は愉快そうに目を細める。
「お前も同じだろう、鬼狩り」
天也の手が、刀の柄を握る。
「何?」
「守りたい。救いたい。失いたくない。その思いがどれほど甘いか、お前はよく知っているはずだ」
天也は答えない。けれど芹は、ほんの一瞬だけ彼の横顔が強張ったのを見た。
(……神威様?)
白銀は何を知っているのだろう。天也の何を。
杏樹が札を手に一歩前へ出る。
「白銀」
その声に、芹は驚いた。杏樹の声から、いつもの軽さが消えていた。
「今は引いてくれないかな」
「百舌鳥の術者か」
白銀が杏樹を見る。
「お前もまた、繰り返すものの匂いがする」
――繰り返す。その言葉に、芹の胸が大きく跳ねた。
杏樹の表情は変わらず、いつものように穏やかなままだ。
けれど――その目は途轍もなく冷たかった。
「余計なこと言わないでくれる?」
「この娘はまだ知らぬのか」
「黙れって言ってるでしょ」
杏樹の指先が、そっと口元の前で組まれる。
芹は思わず息を呑んだ。
――今の会話は、何だったのだろう。
断片のような言葉が、胸の奥に引っかかる。
杏樹は、何を知っているのか。何を見てきたのか。
そして――何を、繰り返しているのか。
白銀は愉快そうに笑っていた。けれど次の瞬間、不意に愁の身体が大きく震える。
その変化に、場の空気が一瞬で張り詰めた。

