屋敷の奥へ続く廊下はいつもより長く感じられた。
春の夜はまだ浅い。障子の向こうには淡い月明かりが差し込み、庭の桜が風に揺れるたび、薄い影が廊下に落ちる。その影はまるで水面のように揺れていた。
芹は一歩ずつ、足音を殺すように進む。
胸の奥で、何かが疼いている。巻物に触れた時に感じた熱。白銀の名を目にした時の冷たさ。その二つが、身体の内側で混ざり合うようだった。
(……愁)
声には出さず、名前を呼ぶ。
返事はない。けれど、気配はある。普段はほとんど使われていない、古い座敷の方から。
小さな物音が聞こえたのは、つい先ほどのことだった。
ぎぎい、と何かが倒れるような鈍い音が今も響いている。
「愁?」
呼びかけてみるも、返事はなかった。
芹は息を呑み、さらに奥へ進む。
古い座敷の襖が、少しだけ開いていた。その隙間から、冷たい空気が漏れてくる。
春の夜の冷たさではない。梅林の祠で感じた、あの底冷えするような気配に、芹の背筋が震えた。
(……白銀)
そう思った瞬間、胸の奥が強く疼いた。
襖を開けてはいけない。本能がそう告げている。けれど、開けなければならない。愁が中で苦しんでいるかもしれないのだから。
芹は震える指で襖を開けた。
月明かりの中、愁が座敷の中央に立っていた。
背を向けている。黒い髪が肩に落ち、いつもの柔らかな佇まいが、今はひどく頼りなく見える。
「愁」
呼ぶと、愁の肩が微かに揺れた。
「姫様」
返ってきたのは、確かに愁の声だった。けれどその声は、今にも消えてしまいそうだった。
「どうしたの。こんなところで」
「……来ないでください」
愁は振り返らない。
「愁?」
「お願いです。近づかないでください」
声が震えている。苦しそうだ。まるで、何かを必死に押し殺しているよう。その姿に、芹の胸がきゅっと締めつけられる。
「具合が悪いの?」
「違います」
「なら、どうして」
「分からないのです」
愁は両手で自分の腕を掴んだ。自分自身を押さえつけているようだ。
「私の中に、何かがある」
芹は息を止めた。
愁は、気づいている。完全ではなくても、自分の中にいるものに。
「声がするのです」
愁は掠れた声で続ける。
「眠っている時も、目を覚ましている時も。ふとした瞬間に、誰かの声がするのです」
「……何と?」
聞くのが怖かった。けれど、尋ねずにはいられなかった。
愁はゆっくりと首を振る。
「返せ、と」
芹の胸が冷えた。また、その言葉だ。
「何を返せと言っているのか、分かりません。けれど、その声が聞こえるたび、胸の奥が黒く塗り潰されていくようで……私は、私でなくなる気がする」
「愁……」
「姫様を見ると、苦しくなるのです」
その言葉に、芹は胸を刺されたような痛みを覚えた。
愁はゆっくり振り返る。
月明かりに照らされた顔は青白い。けれど、眼差しは熱を帯びている。
「姫様をお守りしたい。幸せでいてほしい。傷つかないでほしい。昔から、ずっとそう思っていました」
「知っているわ。愁がいつも私を大切にしてくれていたこと」
「でも」
愁は苦しげに眉を寄せた。
「今は、その思いが違う形になっていく」
「違う形?」
「姫様にどこにも行ってほしくない。誰のところへも。そんなことを思う自分が、怖いのです」
芹の胸が痛む。
愁自身も苦しんでいるのだ。白銀に侵されながら、それでも必死に自分を保とうとしている。
「愁」
芹は一歩踏み出した。
「来ないでください!」
愁が叫んだ。その声に、芹は立ち止まる。
愁の瞳が揺れている。いつもの優しい目と、見知らぬ暗い光が、交互に浮かんでいた。
「私は、姫様を傷つけたくないのです」
「傷つけないわ」
「違う!」
愁が頭を抱える。
「私はそう思っている。でも、声がするのです。姫様を返せと。あれは私のものだと。どこにも行かせるなと」
「愁、聞いて」
芹は震える声で言った。
「それは、あなたの心だけではないわ」
愁が顔を上げる。
「あなたの優しさも、心配も、私を大切に思ってくれる気持ちも、本物よ。でも、そこに何かが絡みついている」
「何か……」
「白銀」
その名を口にした瞬間、愁の身体がびくりと震えた。
空気が凍る。座敷の中の影が、一瞬だけ濃くなったように見えた。
春の夜はまだ浅い。障子の向こうには淡い月明かりが差し込み、庭の桜が風に揺れるたび、薄い影が廊下に落ちる。その影はまるで水面のように揺れていた。
芹は一歩ずつ、足音を殺すように進む。
胸の奥で、何かが疼いている。巻物に触れた時に感じた熱。白銀の名を目にした時の冷たさ。その二つが、身体の内側で混ざり合うようだった。
(……愁)
声には出さず、名前を呼ぶ。
返事はない。けれど、気配はある。普段はほとんど使われていない、古い座敷の方から。
小さな物音が聞こえたのは、つい先ほどのことだった。
ぎぎい、と何かが倒れるような鈍い音が今も響いている。
「愁?」
呼びかけてみるも、返事はなかった。
芹は息を呑み、さらに奥へ進む。
古い座敷の襖が、少しだけ開いていた。その隙間から、冷たい空気が漏れてくる。
春の夜の冷たさではない。梅林の祠で感じた、あの底冷えするような気配に、芹の背筋が震えた。
(……白銀)
そう思った瞬間、胸の奥が強く疼いた。
襖を開けてはいけない。本能がそう告げている。けれど、開けなければならない。愁が中で苦しんでいるかもしれないのだから。
芹は震える指で襖を開けた。
月明かりの中、愁が座敷の中央に立っていた。
背を向けている。黒い髪が肩に落ち、いつもの柔らかな佇まいが、今はひどく頼りなく見える。
「愁」
呼ぶと、愁の肩が微かに揺れた。
「姫様」
返ってきたのは、確かに愁の声だった。けれどその声は、今にも消えてしまいそうだった。
「どうしたの。こんなところで」
「……来ないでください」
愁は振り返らない。
「愁?」
「お願いです。近づかないでください」
声が震えている。苦しそうだ。まるで、何かを必死に押し殺しているよう。その姿に、芹の胸がきゅっと締めつけられる。
「具合が悪いの?」
「違います」
「なら、どうして」
「分からないのです」
愁は両手で自分の腕を掴んだ。自分自身を押さえつけているようだ。
「私の中に、何かがある」
芹は息を止めた。
愁は、気づいている。完全ではなくても、自分の中にいるものに。
「声がするのです」
愁は掠れた声で続ける。
「眠っている時も、目を覚ましている時も。ふとした瞬間に、誰かの声がするのです」
「……何と?」
聞くのが怖かった。けれど、尋ねずにはいられなかった。
愁はゆっくりと首を振る。
「返せ、と」
芹の胸が冷えた。また、その言葉だ。
「何を返せと言っているのか、分かりません。けれど、その声が聞こえるたび、胸の奥が黒く塗り潰されていくようで……私は、私でなくなる気がする」
「愁……」
「姫様を見ると、苦しくなるのです」
その言葉に、芹は胸を刺されたような痛みを覚えた。
愁はゆっくり振り返る。
月明かりに照らされた顔は青白い。けれど、眼差しは熱を帯びている。
「姫様をお守りしたい。幸せでいてほしい。傷つかないでほしい。昔から、ずっとそう思っていました」
「知っているわ。愁がいつも私を大切にしてくれていたこと」
「でも」
愁は苦しげに眉を寄せた。
「今は、その思いが違う形になっていく」
「違う形?」
「姫様にどこにも行ってほしくない。誰のところへも。そんなことを思う自分が、怖いのです」
芹の胸が痛む。
愁自身も苦しんでいるのだ。白銀に侵されながら、それでも必死に自分を保とうとしている。
「愁」
芹は一歩踏み出した。
「来ないでください!」
愁が叫んだ。その声に、芹は立ち止まる。
愁の瞳が揺れている。いつもの優しい目と、見知らぬ暗い光が、交互に浮かんでいた。
「私は、姫様を傷つけたくないのです」
「傷つけないわ」
「違う!」
愁が頭を抱える。
「私はそう思っている。でも、声がするのです。姫様を返せと。あれは私のものだと。どこにも行かせるなと」
「愁、聞いて」
芹は震える声で言った。
「それは、あなたの心だけではないわ」
愁が顔を上げる。
「あなたの優しさも、心配も、私を大切に思ってくれる気持ちも、本物よ。でも、そこに何かが絡みついている」
「何か……」
「白銀」
その名を口にした瞬間、愁の身体がびくりと震えた。
空気が凍る。座敷の中の影が、一瞬だけ濃くなったように見えた。

