白銀鬼譚 -星見の巫女姫は愛をほどく-

「……父様」
「何だい」
「もし、愛する心が歪められてしまったら、元には戻せるのかしら」
 楊憲はすぐには答えなかった。ただ、静かに芹を見ている。
「それをほどくのが、星見の巫女姫だったのかもしれないね」
 芹の胸が、震えた。
 ほどく。愛を。運命を。その言葉が、自分の中のどこか深い場所に触れた気がした。
 楊憲が蔵を出たあと、杏樹が戻ってきた。
「愁くん、見つからなかった」
「そうですか……」
「でも、屋敷の外に変な気配はない。たぶん、遠くには行ってないと思う」
「どうして分かるのですか」
「んー、勘」
 杏樹はいつものように笑う。けれど、芹はもうその言葉をただの冗談として受け取れなかった。
 杏樹の勘は鋭すぎる。まるで、先のことを知っているかのように。
「杏樹さま」
「うん?」
「あなたは、白銀を知っているのですか」
 杏樹の笑みが、ふっと止まった。天也もわずかに視線を向ける。
 杏樹はしばらく何も言わない。その横顔から、いつもの軽さが消えている。
 やがて――困ったように、小さく笑った。
「名前は、ね」
「それだけですか」
「芹ちゃん、今日はよく踏み込んでくるね」
「踏み込まなければ、何も分からないので」
 杏樹は目を瞬かせた。それから、少しだけ嬉しそうに笑った。
「強くなったね」
「私は強くありません」
「強いよ」
 杏樹は静かに言った。
「少なくとも、前よりずっと」
 前。まただ。
 芹はごくりと息を呑んだ。
「前、とはいつのことですか」
「ごめん」
 杏樹は小さく肩をすくめた。
「今のは失言」
「杏樹さま」
「話せる時が来たら話すよ」
「それは、いつですか」
「芹ちゃんが、自分で選べるようになった時」
 また、分からない言葉だった。けれど、その声が真剣であることだけは分かる。
 芹は小さく唇を噛んだ。
 苛立ちは確かにあった。どうして何も教えてくれないのか、と。けれど、それ以上に。杏樹が何かを一人で抱え込んでいることが伝わってきてしまう。
 無理にこじ開ければ、きっと何かが壊れる。そんな危うさが、その横顔にはあった。

 その日の夕方、天也と杏樹は詰所へ戻ることになった。
 愁が見つからない以上、都の鬼の動きも確認しなければならない。
 芹は二人を門まで見送った。
 空は薄紅に染まり、庭の桜が静かに揺れている。
「……芹」
 天也が芹を振り返る。
「はい」
「今夜は一人になるな」
「……愁が戻ったら」
「近づきすぎるな。だが、拒絶もするな」
 難しいことを言う。
 芹は苦笑しかけたが、天也の目が真剣だったので頷いた。
「はい」
「何かあれば、すぐ詰所へ知らせろ」
「分かりました」
「本当に分かっているのか」
「……分かっています」
 拗ねたような声音になってしまったことに気づき、芹は慌てて口を閉ざした。
 けれど天也は、ほんのわずかに目を瞬かせる。次いで、その目元がかすかに和らいだ。
 笑った――のだと思う。
 ほんの一瞬だけ。それだけなのに、胸がひどく騒いだ。
(……ずるい)
 そんな顔をされると、困る。
 まだ疑いは消えていないのに。まだ何も解けていないのに。信じたい気持ちだけが、先に膨らんでしまう。
「神威様」
 気づけば、芹は呼び止めていた。
「何だ」
 今言わなければ、また言えなくなる。そう思ったのだ。
「私は……あなたを疑っていました」
 天也の表情は、ほとんど変わらなかった。けれどその隣で、杏樹が小さく息を呑む気配がする。
 芹は震える手を、ぎゅっと握りしめた。
「詳しくは、まだ言えません。でも、私は神威様を怖いと思っていました。今も、少し怖いです」
 すべてを話す勇気は、まだない。けれど、これだけは言わなければならないと思った。
「それなのに、あなたを知るたびに、疑いきれなくなっていくのです。……それが怖いです」
 天也は何も言わず、静かに芹を見ている。その沈黙が、ひどく怖かった。
 怒っているのだろうか。呆れられただろうか。もう近づくなと、そう言われたら――。
 胸が苦しくなる。
 やがて、長い沈黙のあとで、天也は静かに口を開いた。
「疑え」
 芹は目を見開いた。
「え……」
「怖いなら疑え。分からないなら確かめろ」
 天也の声は、静かだった。
「だが、見誤るな」
 胸が震えた。
 責められなかった。怒られなかった。ただ、真っ直ぐに道を示された。
「俺が何者かは、お前が見て決めればいい」
 芹は息を呑む。
 この人は、どうしてこんなにも。
 どうして、芹が欲しい言葉をくれるのだろう。
「……はい」
 声が小さくなる。
「見ます。ちゃんと、自分の目で」
「ああ」
 天也は頷く。
 それだけだった。けれど芹には、それが約束のように感じられた。

 やがて二人は、そのまま静かに去っていく。
 芹は遠ざかっていく背中を見つめながら、そっと胸元を押さえた。
 疑いはまだ消えていない。怖さも、胸の奥に残ったままだ。
 愁のこと。白銀のこと。何ひとつ、解決したわけではない。
 けれど――それでも。
 胸の奥に、小さな熱だけが残っていた。
(……信じたい)
 天也を。この人が見せてくれたものを。その刀が、人を守るためにあるのだということを。
 芹は初めて、はっきりとそう思った。
 夜が近づいてくる。庭の桜が、淡い闇の中で揺れている。
 屋敷の奥からかすかな物音がして、芹は振り返る。
「……愁?」
 返事はない。けれど、確かに何かがいる。
 胸の奥で、巻物に触れた時の熱が微かに揺れた。
 芹は息を吸う。
 怖い。けれど、もう目を逸らさない。
 愁を救うために。白銀を知るために。そして、自分自身の運命を見誤らないために。
 芹はゆっくりと、屋敷の奥へ足を踏み出した。