白銀鬼譚 -星見の巫女姫は愛をほどく-

「白銀は……人の心に巣食う鬼」
 声に出した瞬間、背筋が冷えた。
「人の心?」
「愛し、惜しみ、執す心を喰らい、形を得る……」
 愁の顔が浮かんだ。
 行かないでください。私を置いていかないでください。その声にあったのは、確かに情だった。
 芹を大切に思う心。失いたくないという願い。けれどそれが、白銀に喰われているとしたら。
「……愁は、私を大切に思ってくれていたから、白銀に……?」
「まだそうと決まったわけではない」
 天也が即座に言った。その声に、芹は顔を上げる。
「決めつけるな」
「でも」
「白銀が心に巣食うなら、なおさらだ。愁という男の思いと、白銀の歪みを混同するな」
 その言葉に、胸を打たれた。
 愁の愛情が間違っているわけではない。むしろ、痛いほど真っ直ぐなのだと思う。
 大切に思ってくれていたことまで、恐れてはいけない。その思いに巣食うものがいるのなら、ほどかなければならないのは愁の心そのものではなく、それに絡みついた歪みなのだ。
「私は、愁のことを怖いと思ってしまいました。大切な人なのに」
 天也は黙って聞いている。
「でも、怖かったのです。袖を掴まれた時も、夜に障子の向こうに立っていた時も。あの人の声で、あの人ではないものが話した時も」
 じわりと、涙が滲む。
「怖いと思った自分が、嫌でした」
「怖いと思うことは悪いことではない。恐れを覚えたからこそ、異変に気づけたのだろう」
「……」
「救いたいなら、恐れも持っていけ」
 芹は天也を見る。
「恐れも?」
「ああ。恐れをなかったことにすれば、見誤る」
 天也らしい言葉だ。優しいだけではない。甘く慰めるのでもない。怖くてもいい。ただ、見誤るな。その厳しさが、芹には救いだった。
「神威様は」
 芹は小さく尋ねた。
「いつも、そうしてこられたのですか」
「何をだ」
「怖さも、迷いも、捨てずに」
 天也は少しだけ黙った。
 蔵の中に、風が入り込む。古い紙が微かに鳴った。
「……捨てられなかっただけだ。捨てられれば、もっと楽だったかもしれない」
 芹は息を呑む。
 天也の横顔は、静かだった。その静けさの奥に、何か深い痛みがあるように見えた。
「神威様にも、怖いものがあるのですか」
 尋ねてから、踏み込みすぎたと思った。けれど天也は怒らなかった。
「ある」
「……何、ですか」
 天也は芹を見た。
 翡翠の瞳が、まっすぐにこちらを捉える。その視線に、胸が鳴った。けれど天也は答えなかった。
 ただ、わずかに目を伏せる。
「今は、記録を読むのが先だ」
「……はい」
 逸らされた。けれどなぜか、天也の怖いものが自分と無関係ではないような気がした。
 時折、天也は芹を見て、何かを思い出すような顔をする。
 ほんの一瞬で消えてしまうけれど、その表情を見るたび、芹は胸の奥を掴まれたような心地がした。
 巻物の続きを読もうとした時、蔵の外から足音が聞こえた。顔を上げると、入口に立っていたのは父・楊憲だった。
「父様」
 楊憲は蔵の中を見回し、それから天也へ視線を向けた。
「神威殿もいらしていたのですね」
「勝手に上がり、失礼しました」
 天也が頭を下げると、楊憲は柔らかく笑った。
「いえ。芹がご迷惑をおかけしていなければよいのですが」
「迷惑ではありません」
 芹は思わず天也を見上げる。
 胸の奥が、じんわりと温かくなった。その熱に、自分でも少し戸惑う。
 楊憲はそんな二人を見て、静かに目を細めていた。
「父様、愁を見なかった?」
 芹が尋ねると、楊憲は少し首を傾げた。
「愁なら見ていないね。どこかへ使いに出たのかな」
「……そう」
「何かあったのかい?」
 芹は言葉に詰まる。楊憲にどこまで話すべきか分からないのだ。
 愁の異変。白銀。五百年前の封印。
 突然話しても、きっと混乱させるだけだ。
 天也が静かに口を開いた。
「縹家に残る鬼の記録を確認しています。近頃の鬼の異常と関わりがある可能性があるためです」
「鬼の……」
 楊憲の表情が、少しだけ曇った。
「白銀という名に、心当たりはありますか」
 天也が尋ねると、楊憲は目を伏せた。
「……名だけは」
「父様?」
「縹家の当主にだけ伝わる話がある。もっとも、私も詳しいことは知らない。何代も前から、口伝は途切れかけているからね」
 芹は身を乗り出した。
 楊憲は迷うように芹を見る。その目に、父としての心配が浮かんでいた。
「芹にはまだ早いと思っていた」
「もう、知らないままではいられないわ」
 芹ははっきりと言った。
「教えて、父様」
 楊憲は長い溜め息をついた。
「……白銀は、五百年前に封じられた鬼の名だ。人を喰らうだけの鬼ではなく、人の心に入り込む鬼だったと伝えられている」
「では、愁は……」
 言いかけて止まる。
 楊憲が不思議そうに見る。
「愁がどうしたんだい」
「……いいえ」
 まだ言えない。けれど楊憲は芹の顔を見て、何かを察したようだった。
「芹」
「はい」
「一族に伝わる星見の力はね、ただ未来を視るものではないと言われている」
 芹の胸が跳ねた。巻物と同じだ。
「では、何なのですか」
「過去、現在、未来……時の運命の分かれ道を見つける力。そして、ほどける糸を見極める力だと」
「ほどける糸……」
「けれど、使い方は失われた。だから私は、芹に教えてやることができない。すまないね」
「謝らないでください」
 芹は首を振る。
 父が悪いわけではない。何代もかけて失われたものを、一人で背負えるはずがない。
 けれど芹は今、その失われた力の前に立っている。自分が望むかどうかにかかわらず。
 楊憲は巻物へ視線を落とした。
「白銀に関わるなら、気をつけなさい。あれは、愛する心を最も好むと伝えられている」
 愛する心。その言葉が、胸に刺さる。
 恋。親愛。執着。守りたい思い。失いたくない願い。それらは皆、愛と呼べるものなのかもしれない。
 けれど白銀は、その愛に巣食い、愛を歪める。
 愁の中で膨らんでいたものも、きっと。