白銀。古い巻物に記された、たった二文字。けれど芹には、それがただの名ではないことが分かっていた。
口にした瞬間、愁が崩れた。愁ではない何かが、愁の声で「かえせ」と言った。梅林の祠で聞いた声と同じ冷たさを帯びて。
その事実が、芹の胸の奥に重く沈んでいる。
(……愁)
助けたい。けれど、どうすればいいのか分からない。
追いかけようとした芹を、天也は止めた。
今のお前が追えば、連れて行かれる。その言葉の意味を考えるだけで、背筋が冷える。
誰に。何に。白銀に、だろうか。愁の中にいるかもしれない、五百年前に封じられた鬼に。
蔵の扉は開け放たれたままだった。
春の光が細く差し込み、埃が淡く舞っている。古い木箱、色褪せた衣、祭具、巻物。長い年月眠っていたものたちが、突然目を覚ましたように、静かに芹を見つめていた。
芹は膝の上で手を握りしめる。まだ指先が震えていた。
天也はそんな芹の前に膝をつき、視線を合わせる。
「立てるか」
「……はい」
答えたものの、身体はすぐには動かなかった。
天也は無理に急かさない。ただ静かに、芹が呼吸を整えるのを待ってくれている。その沈黙が、今はありがたかった。
「芹ちゃん」
杏樹が少し離れたところから声をかける。
いつものように軽く笑おうとしている。けれど、うまくできていなかった。
「水、いる?」
「……大丈夫です」
「大丈夫じゃない顔だけど」
「でも、大丈夫です」
そう言ってから、芹は小さく息を吐いた。
大丈夫なわけがない。愁がいなくなった。白銀という名が現れた。
自分の中にある星見の力も、未だによく分からない。けれど、ここで立ち止まるわけにはいかなかった。愁を助けると決めたのだから。
「神威様」
芹は天也を見た。
「愁を、探さなければ」
「ああ」
天也は頷く。
「だが、闇雲に追っても見つからないだろう」
「……では」
「まずは記録を探そう」
天也は巻物へ視線を移した。
「白銀が何者か。どう封じられたのか。愁に何が起きているのか。それを知らなければ、救う方法も分からない」
天也の言葉が正しいと分かっている。けれど、愁が今どこにいるのかと思うと、胸が張り裂けそうになる。
「でも、愁が苦しんでいたら」
「探す手は打つ」
天也は静かに言った。
「杏樹」
「はいはい」
杏樹は肩をすくめる。
「俺が式を放って周辺を見てくるよ。愁くん、そんなに遠くへは行ってないと思うし」
「一人でですか?」
芹が顔を上げると、杏樹はにこっと笑った。
「心配してくれるの?」
「します」
即答すると、杏樹は一瞬だけ目を丸くした。それから、少し困ったように笑う。
「芹ちゃんって、そういうところあるよね」
「どういうところですか?」
「ううん。何でもない」
また、はぐらかす。けれど今は、それを責める余裕がなかった。
杏樹は蔵の入口へ向かい、ふと足を止める。
「天也」
「何だ」
「芹ちゃんを一人にしないでね」
「分かっている」
「絶対だよ」
その言い方が、妙に強かった。天也も眉を寄せている。
「杏樹」
「じゃ、行ってくるね」
杏樹はそれ以上何も言わず、軽い足取りで出ていった。
その背中を見送りながら、芹は胸騒ぎを覚えた。
杏樹は、やはり何かを知っている。白銀の名を聞いた時の顔。芹を一人にするなと言った声。
まるで、過去にそれを怠って何かを失ったことがあるような――。
(……私は)
知らないことばかりだ。
天也のことも。杏樹のことも。愁のことも。自分のことさえ。
「芹」
天也の声で我に返る。
「読むぞ」
「……はい」
芹は頷き、巻物の前に座り直した。
古い文字は読みづらかった。ところどころ掠れ、破れ、墨も薄くなっている。けれど不思議なことに、芹が目を向けると、一部の文字だけが浮かび上がるように見えた。
白銀。封印。星見の巫女姫。神威の剣士。
言葉の断片が、目に飛び込んでくる。
「……星見は」
芹はゆっくりと読み上げる。
「星の巡りを読むものではあらず。人と人、命と命、定めと定めの結び目を見つけるもの……」
自分でも分かるほど、声が震えていた。
天也は何も言わず、その続きを目で追っている。
「結び目?」
「はい。ここに、そう書かれているように見えます」
「見える?」
「……全部は読めないのです。でも、ところどころ、文字が浮かぶように」
天也はしばらく芹を見ていた。
「お前に流れる巫女姫の血によるのかもしれないな」
「これが……?」
芹は自分の手を見る。
何か特別な感覚があるわけではない。ただ、胸の奥が微かに熱い。
「縹家に伝わるという星見の力は、星を通して未来を知るものだと思っていました」
「俺もそう思っていた」
「でも、違うのかもしれません」
芹は巻物へ視線を戻す。
「結び目を見つける力……」
運命の結び目。それは一体、何なのだろう。
芹が一年前へ戻ったことも、その結び目に関係しているのだろうか。
ふと、あの夜の感覚が蘇る。
畳に散った血。突然の死。そして、目覚めた朝。
あれはただ過去へ戻ったのではない。
何かが、ほどけたのではないだろうか。あるいは、結び直されたのか。
「続きは読めるか」
芹は頷き、目を凝らした。
口にした瞬間、愁が崩れた。愁ではない何かが、愁の声で「かえせ」と言った。梅林の祠で聞いた声と同じ冷たさを帯びて。
その事実が、芹の胸の奥に重く沈んでいる。
(……愁)
助けたい。けれど、どうすればいいのか分からない。
追いかけようとした芹を、天也は止めた。
今のお前が追えば、連れて行かれる。その言葉の意味を考えるだけで、背筋が冷える。
誰に。何に。白銀に、だろうか。愁の中にいるかもしれない、五百年前に封じられた鬼に。
蔵の扉は開け放たれたままだった。
春の光が細く差し込み、埃が淡く舞っている。古い木箱、色褪せた衣、祭具、巻物。長い年月眠っていたものたちが、突然目を覚ましたように、静かに芹を見つめていた。
芹は膝の上で手を握りしめる。まだ指先が震えていた。
天也はそんな芹の前に膝をつき、視線を合わせる。
「立てるか」
「……はい」
答えたものの、身体はすぐには動かなかった。
天也は無理に急かさない。ただ静かに、芹が呼吸を整えるのを待ってくれている。その沈黙が、今はありがたかった。
「芹ちゃん」
杏樹が少し離れたところから声をかける。
いつものように軽く笑おうとしている。けれど、うまくできていなかった。
「水、いる?」
「……大丈夫です」
「大丈夫じゃない顔だけど」
「でも、大丈夫です」
そう言ってから、芹は小さく息を吐いた。
大丈夫なわけがない。愁がいなくなった。白銀という名が現れた。
自分の中にある星見の力も、未だによく分からない。けれど、ここで立ち止まるわけにはいかなかった。愁を助けると決めたのだから。
「神威様」
芹は天也を見た。
「愁を、探さなければ」
「ああ」
天也は頷く。
「だが、闇雲に追っても見つからないだろう」
「……では」
「まずは記録を探そう」
天也は巻物へ視線を移した。
「白銀が何者か。どう封じられたのか。愁に何が起きているのか。それを知らなければ、救う方法も分からない」
天也の言葉が正しいと分かっている。けれど、愁が今どこにいるのかと思うと、胸が張り裂けそうになる。
「でも、愁が苦しんでいたら」
「探す手は打つ」
天也は静かに言った。
「杏樹」
「はいはい」
杏樹は肩をすくめる。
「俺が式を放って周辺を見てくるよ。愁くん、そんなに遠くへは行ってないと思うし」
「一人でですか?」
芹が顔を上げると、杏樹はにこっと笑った。
「心配してくれるの?」
「します」
即答すると、杏樹は一瞬だけ目を丸くした。それから、少し困ったように笑う。
「芹ちゃんって、そういうところあるよね」
「どういうところですか?」
「ううん。何でもない」
また、はぐらかす。けれど今は、それを責める余裕がなかった。
杏樹は蔵の入口へ向かい、ふと足を止める。
「天也」
「何だ」
「芹ちゃんを一人にしないでね」
「分かっている」
「絶対だよ」
その言い方が、妙に強かった。天也も眉を寄せている。
「杏樹」
「じゃ、行ってくるね」
杏樹はそれ以上何も言わず、軽い足取りで出ていった。
その背中を見送りながら、芹は胸騒ぎを覚えた。
杏樹は、やはり何かを知っている。白銀の名を聞いた時の顔。芹を一人にするなと言った声。
まるで、過去にそれを怠って何かを失ったことがあるような――。
(……私は)
知らないことばかりだ。
天也のことも。杏樹のことも。愁のことも。自分のことさえ。
「芹」
天也の声で我に返る。
「読むぞ」
「……はい」
芹は頷き、巻物の前に座り直した。
古い文字は読みづらかった。ところどころ掠れ、破れ、墨も薄くなっている。けれど不思議なことに、芹が目を向けると、一部の文字だけが浮かび上がるように見えた。
白銀。封印。星見の巫女姫。神威の剣士。
言葉の断片が、目に飛び込んでくる。
「……星見は」
芹はゆっくりと読み上げる。
「星の巡りを読むものではあらず。人と人、命と命、定めと定めの結び目を見つけるもの……」
自分でも分かるほど、声が震えていた。
天也は何も言わず、その続きを目で追っている。
「結び目?」
「はい。ここに、そう書かれているように見えます」
「見える?」
「……全部は読めないのです。でも、ところどころ、文字が浮かぶように」
天也はしばらく芹を見ていた。
「お前に流れる巫女姫の血によるのかもしれないな」
「これが……?」
芹は自分の手を見る。
何か特別な感覚があるわけではない。ただ、胸の奥が微かに熱い。
「縹家に伝わるという星見の力は、星を通して未来を知るものだと思っていました」
「俺もそう思っていた」
「でも、違うのかもしれません」
芹は巻物へ視線を戻す。
「結び目を見つける力……」
運命の結び目。それは一体、何なのだろう。
芹が一年前へ戻ったことも、その結び目に関係しているのだろうか。
ふと、あの夜の感覚が蘇る。
畳に散った血。突然の死。そして、目覚めた朝。
あれはただ過去へ戻ったのではない。
何かが、ほどけたのではないだろうか。あるいは、結び直されたのか。
「続きは読めるか」
芹は頷き、目を凝らした。

