白銀鬼譚 -星見の巫女姫は愛をほどく-

「愁?」
 声をかけると、愁は一歩後ずさった。
「……しろがね」
 掠れた声。その瞳の奥に、見知らぬ光が揺れた。
 天也が芹を庇うように前に出る。杏樹も表情を消した。
「愁、どうしたの」
 芹は震える声で呼ぶ。
 愁は答えない。ただ、苦しげに胸を押さえている。
「……違う」
 愁が呟く。
「私は、違う」
「愁?」
「姫様、私は……」
 その声は愁のものだった。けれど次の瞬間、愁の唇から低い声が漏れた。
「……かえせ」
 空気が凍った。
 天也の手が刀の柄にかかる。
「神威様、待ってください!」
 芹は叫んだ。
 天也は刀を抜かなかったが、いつでも動ける体勢のまま愁を見ている。
 愁はがくりと膝をつき、苦しそうに息をしている。
「姫、様……逃げて」
 愁の声だ。確かに愁の声だった。
「愁!」
 駆け寄ろうとすると、天也に腕を掴まれた。
「近づくな」
「でも!」
「今は駄目だ」
 天也の声は厳しかった。けれどその手は、芹を傷つけないように力を加減している。
 顔を上げた愁の瞳には、いつもの優しさと、見知らぬ暗い光が混じっている。
「……姫様。申し訳、ありません」
 そして次の瞬間、愁はふらりと立ち上がり、屋敷の奥へ走っていった。
「愁!」
 芹が叫ぶ。しかし天也が腕を離してくれない。
「追うな」
「どうして!」
「今のお前が追えば、連れて行かれる」
 その言葉に芹は息を止めた。震える手で開いたままの巻物を見ると、古い文字の中に、その名だけが焼きつくように残っている。
 白銀。それは、五百年前に封じられた鬼の名だ。
 その名を、芹は初めて知った。そして同時に、理解してしまった。
 愁の中にいるものは、悪戯好きな物の怪の類ではない。もっと古く、もっと深く、縹家と神威家の始まりに関わるもので、運命そのものに絡みついた何かだ。
 芹の膝から、静かに力が抜けていく。崩れ落ちる前に、天也がその身体を支えた。
「芹」
 低い声が、すぐそばで聞こえる。
「息をしろ」
 言われて初めて、自分が息を止めていたことに気づいた。
 芹は震えながら息を吸う。
 じわじわと涙が滲み、視界が朧げになった。
「愁を……助けたい」
 声がこぼれる。
「助けたいのです」
 天也は静かに芹を見つめた。
 翡翠の瞳が、わずかに揺れている。それは驚きにも、戸惑いにも見えた。
「ああ、助けよう。だが、そのためには知らなければならない」
 芹は泣きそうになりながら頷いた。
「はい」
 杏樹が静かに巻物を拾い上げた。その顔には、いつもの笑みがなかった。
「……白銀、か」
 ぽつりと呟く。その声は、あまりにも遠かった。
 まるで、何度もその名を聞いたことがあるように。その名がもたらす悲劇を知っているように。
 芹は杏樹を見る。
「杏樹さま」
 杏樹は顔を上げる。
「少し面倒なことになったね」
 軽い口調だが、その声は震えていた。
 芹はその時、初めて思った。杏樹もまた、怖がっているのだと。何かを知っているからこそ、何かを失ったことがあるからこそ、怖がりながら、それでも笑っているのだと。
 蔵の中に、春の光が細く差し込む。埃が光の中をゆっくりと舞っていた。
 芹は天也に支えられながら、もう一度巻物を見る。
 白銀。その名が、すべての糸を絡めている。
 愁の異変。鬼の異常。そして、芹の死に戻り。
 まだ何も分からない。けれど、もう知らなかった頃には戻れない。
(……愁)
 必ず助ける。そう胸の中で誓う。
 たとえ愁の中に何がいたとしても。
 たとえ、その先にどんな真実が待っていたとしても。
 天也の手が、芹の腕を支えている。その温かさに、芹は震える心をどうにか繋ぎ止めた。
 怖い。けれど、もう足は止めない。
 芹は涙を拭い、顔を上げる。
「神威様」
「何だ」
「教えてください。白銀とは、何なのですか」
 天也は巻物へ視線を落とした。そして静かに答える。
「五百年前、星見の巫女姫と鬼狩りの剣士が封じたとされる鬼の名だ」
 やはり、すべては五百年前へ繋がっている。そして今、その封じられた鬼が、愁の中で目を覚まそうとしているのだ。
 杏樹が目を伏せる。
「……ほどけ始めたんだね」
 小さな呟きだった。
 芹は聞き返せなかった。けれどその言葉は、確かに胸に残った。
 ほどけ始めた。
 何が。封印か。運命か。それとも――。
 答えはまだ分からない。けれど芹は知った。
 ここから先は、もう疑いだけでは進めない。
 誰かを信じなければならない。誰かを救うために。
 そして、誰かに救われるだけではなく、自分自身で選ぶために。
 芹はもう一度、天也を見た。
 翡翠の瞳が、静かにこちらを見返している。少し前までは、恐怖の象徴だった色。けれど今は、芹を支える光のように見えた。
 信じたい。今度こそ、はっきりとそう思った。