その日の午後、芹は天也と杏樹とともに縹家へ戻ることになった。
愁はどんな顔をするだろうか。天也を連れて帰った芹を見て、またあの暗い目をするだろうか。
門の前では昨日と同じように愁が立っていた。まるで芹が帰ってくる頃合いを知っていたかのようである。
「姫様」
愁は芹の姿を見つけると、柔らかに微笑んだ。しかしすぐに、芹の後ろにいる天也と杏樹に気づき、顔を隠すように頭を下げた。
「これはこれは、神威様。百舌鳥様」
声は穏やかだった。だが芹は空気が冷えていくのを感じ、慌てて天也と杏樹の前に立った。
「ただいま、愁。これから蔵の古い記録を見たいの。神威様たちにも手伝っていただくわ」
「蔵ですか。なぜ急に?」
「鬼について調べたいことがあるの」
愁は黙った。その瞳が、ほんの一瞬暗く沈む。
「……鬼、ですか」
低く、呟くような声だった。その響きに、芹の背筋がひやりと冷える。
けれど次の瞬間には、愁はいつものように微笑んでいた。
「蔵は埃っぽいです。私が必要なものをお持ちします」
「いいえ、私が見るわ」
「姫様」
「愁」
芹は愁を見つめた。怖い。けれど、目を逸らさなかった。
「お願い。通して」
愁の表情が揺れた。悲しそうに。苦しそうに。それから、諦めたように目を伏せる。
「……承知しました」
蔵は屋敷の奥にあった。
古びた木の扉を開けると、乾いた埃の匂いが流れ出てくる。中は薄暗く、棚には古い箱や巻物、使われなくなった祭具が並んでいた。
芹はこほこほと咳き込みながら、辺りを見回した。
「大丈夫か」
「はい」
杏樹が扇子を片手に奥を覗き込む。
「これはすごいね。見ちゃいけないものが出てきそうだなぁ」
芹は棚を見上げる。
ここには芹たちが知りたい情報が眠っているだろうか。
ふと後ろを振り返ると、愁が入り口近くに立っていた。
「愁?」
「私は外におります」
「手伝ってくれないの?」
「……古いものは、少し苦手で」
愁は笑っていた。けれど、その顔色はひどく悪い。
天也が黙ったまま愁を見ている。その視線を追って、芹もはっとした。
愁は――蔵へ入りたがっていない。それは怯えにも似ていて、どこか拒むようにも見えた。
――なぜ?
胸の奥が、ざわりと揺れる。
「……分かったわ。何かあったら呼ぶわね」
「はい」
扉が少し開いたまま、愁は外に立つ。
芹たちは中へ入り、古い箱を一つずつ開けていった。祭具。古い衣。読めないほど褪せた書付。
芹は埃を払いながら、胸の奥のざわめきに耳を澄ませていた。
何かに呼ばれているような感覚があった。けれど、それは梅林の祠で感じた冷たさとは違う。
もっと静かで、もっと深い。まるで、暗い水の底から、そっと手を伸ばされているような――そんな感覚だった。
芹は自然と視線を巡らせる。奥の棚、その下段に、小さな木箱が置かれていた。
古びた箱だった。けれど、なぜか目が離せない。まるで、あれが自分を呼んでいるようだった。
「……これ」
芹はそっと手を伸ばす。すると、天也が静かにそばへ来た。その気配が、すぐ隣に落ちる。
「それが気になるのか」
「はい」
木箱を開けると、中には一巻の古い巻物が入っていた。紐は色褪せ、紙はところどころ傷んでいる。
けれど、触れた瞬間。
芹の胸の奥で、何かがほどけるような感覚があった。
「……っ」
息を呑んだ、その瞬間。
視界が、ふいに白く揺らぐ。
舞い散る桜。翡翠の光。白い髪。そして――真っ赤な椿の花の絨毯。
断片のような光景が、一瞬で脳裏を駆け抜けていく。
耳の奥で、誰かの声がした。
――ほどいて。
(……っ)
芹の指から、巻物が滑り落ちそうになる。けれど、天也の手がすぐにそれを支えた。
「芹」
「今、何か」
「見えたのか」
「分かりません。でも、声が」
杏樹は何も言わず、黙ったまま二人を見ていた。
芹は震える指先で、そっと巻物を開く。
古い文字が並んでいる。本来なら、読めるはずのない文字だった。けれど――不思議と、その一部だけが目に飛び込んでくる。
まるで、そこだけ淡く光を帯びているかのように。
視線が、吸い寄せられる。胸の奥が、静かに脈打った。
「……白銀」
芹は呟いた。その瞬間、蔵の外で何かが落ちる音がした。
振り返ると、扉の隙間から見える愁の顔が真っ青になっていた。
愁はどんな顔をするだろうか。天也を連れて帰った芹を見て、またあの暗い目をするだろうか。
門の前では昨日と同じように愁が立っていた。まるで芹が帰ってくる頃合いを知っていたかのようである。
「姫様」
愁は芹の姿を見つけると、柔らかに微笑んだ。しかしすぐに、芹の後ろにいる天也と杏樹に気づき、顔を隠すように頭を下げた。
「これはこれは、神威様。百舌鳥様」
声は穏やかだった。だが芹は空気が冷えていくのを感じ、慌てて天也と杏樹の前に立った。
「ただいま、愁。これから蔵の古い記録を見たいの。神威様たちにも手伝っていただくわ」
「蔵ですか。なぜ急に?」
「鬼について調べたいことがあるの」
愁は黙った。その瞳が、ほんの一瞬暗く沈む。
「……鬼、ですか」
低く、呟くような声だった。その響きに、芹の背筋がひやりと冷える。
けれど次の瞬間には、愁はいつものように微笑んでいた。
「蔵は埃っぽいです。私が必要なものをお持ちします」
「いいえ、私が見るわ」
「姫様」
「愁」
芹は愁を見つめた。怖い。けれど、目を逸らさなかった。
「お願い。通して」
愁の表情が揺れた。悲しそうに。苦しそうに。それから、諦めたように目を伏せる。
「……承知しました」
蔵は屋敷の奥にあった。
古びた木の扉を開けると、乾いた埃の匂いが流れ出てくる。中は薄暗く、棚には古い箱や巻物、使われなくなった祭具が並んでいた。
芹はこほこほと咳き込みながら、辺りを見回した。
「大丈夫か」
「はい」
杏樹が扇子を片手に奥を覗き込む。
「これはすごいね。見ちゃいけないものが出てきそうだなぁ」
芹は棚を見上げる。
ここには芹たちが知りたい情報が眠っているだろうか。
ふと後ろを振り返ると、愁が入り口近くに立っていた。
「愁?」
「私は外におります」
「手伝ってくれないの?」
「……古いものは、少し苦手で」
愁は笑っていた。けれど、その顔色はひどく悪い。
天也が黙ったまま愁を見ている。その視線を追って、芹もはっとした。
愁は――蔵へ入りたがっていない。それは怯えにも似ていて、どこか拒むようにも見えた。
――なぜ?
胸の奥が、ざわりと揺れる。
「……分かったわ。何かあったら呼ぶわね」
「はい」
扉が少し開いたまま、愁は外に立つ。
芹たちは中へ入り、古い箱を一つずつ開けていった。祭具。古い衣。読めないほど褪せた書付。
芹は埃を払いながら、胸の奥のざわめきに耳を澄ませていた。
何かに呼ばれているような感覚があった。けれど、それは梅林の祠で感じた冷たさとは違う。
もっと静かで、もっと深い。まるで、暗い水の底から、そっと手を伸ばされているような――そんな感覚だった。
芹は自然と視線を巡らせる。奥の棚、その下段に、小さな木箱が置かれていた。
古びた箱だった。けれど、なぜか目が離せない。まるで、あれが自分を呼んでいるようだった。
「……これ」
芹はそっと手を伸ばす。すると、天也が静かにそばへ来た。その気配が、すぐ隣に落ちる。
「それが気になるのか」
「はい」
木箱を開けると、中には一巻の古い巻物が入っていた。紐は色褪せ、紙はところどころ傷んでいる。
けれど、触れた瞬間。
芹の胸の奥で、何かがほどけるような感覚があった。
「……っ」
息を呑んだ、その瞬間。
視界が、ふいに白く揺らぐ。
舞い散る桜。翡翠の光。白い髪。そして――真っ赤な椿の花の絨毯。
断片のような光景が、一瞬で脳裏を駆け抜けていく。
耳の奥で、誰かの声がした。
――ほどいて。
(……っ)
芹の指から、巻物が滑り落ちそうになる。けれど、天也の手がすぐにそれを支えた。
「芹」
「今、何か」
「見えたのか」
「分かりません。でも、声が」
杏樹は何も言わず、黙ったまま二人を見ていた。
芹は震える指先で、そっと巻物を開く。
古い文字が並んでいる。本来なら、読めるはずのない文字だった。けれど――不思議と、その一部だけが目に飛び込んでくる。
まるで、そこだけ淡く光を帯びているかのように。
視線が、吸い寄せられる。胸の奥が、静かに脈打った。
「……白銀」
芹は呟いた。その瞬間、蔵の外で何かが落ちる音がした。
振り返ると、扉の隙間から見える愁の顔が真っ青になっていた。

