「ごめんね、突然。入ってもいい?」
天也が少しだけ眉を寄せながら、短いため息を吐く。
「杏樹。お前、聞いていただろう」
「聞こえちゃっただけ」
ふふ、と声を漏らす杏樹の顔にはいつもの笑顔が浮かんでいたが、目が笑っていなかった。
「芹ちゃん、大丈夫?」
「……はい」
「嘘っぽいなあ」
杏樹はそう言って、部屋の中へ入ってきた。芹の向かいではなく、少し斜めの位置に座る。
「その愁って人のこと、俺も気になってたんだよね」
「杏樹さまもですか?」
「昨日会った時、ちょっとね」
「何がですか」
芹が身を乗り出すと、杏樹は困ったように笑った。
「んーと、言葉にしにくいんだけど」
「また、はぐらかすのですか」
思わず強い声が出ていた。
杏樹が目を瞬かせている。その反応に、芹は慌てて膝の上で手を重ね合わせた。
「杏樹さまはいつも何かご存じのように振る舞います。それなのに、肝心なことは何も教えてくださらないので」
胸の奥に溜まっていたものが、言葉になってこぼれ出す。
「私は何も知らないのです。愁のことも、鬼のことも、星見の力のことも。自分がどうしてこんなところに立っているのかさえ、分からない」
最後の言葉に、天也の視線が動いた。けれど芹は止まれなかった。
「分からないまま、また誰かを失うのは嫌なのです」
部屋の中に、重たい沈黙が落ちた。
杏樹はしばらく黙ったまま、芹を見つめている。やがて、口元に浮かんでいた笑みが、ゆっくりと消えた。
「……ごめんね、意地悪で黙ってるわけじゃないんだ」
「では、どうして」
「可愛くて一生懸命で頑張り屋さんな芹ちゃんには何だってしてあげたいし、何でも教えてあげたいけど、それでも言えないこともあるんだよ。言ったら、きっと……変わってしまうから」
杏樹はゆったりと視線を落とした。
「言葉ひとつで道が変わることがある。そのせいで選べなくなることもある。知らなければ助かったものが、知ったせいで壊れることもある」
その言葉は、杏樹自身の傷のように聞こえた。
「杏樹さまは……それを知っているのですか」
杏樹は笑った。ひどく寂しい笑みだった。
「さあね」
また、その言葉。けれど今度は、芹も怒れなかった。
杏樹の「さあね」は、逃げではなく、痛みを隠す蓋なのかもしれないと、そう思ったから。
「だが、必要なことなら言うべきだ」
杏樹は天也を見る。
「天也はほんとに真っ直ぐだよね」
「茶化している場合か」
「茶化してないよ」
杏樹はふっと小さく息を吐いた。
「愁くんについては、ちゃんと調べた方がいい。たぶん、芹ちゃんの家とも関わりがあるんじゃないかと思う」
「縹家と、ですか?」
「鬼退治をした巫女姫の末裔だしね」
杏樹はいつもの調子に戻りきれないまま続ける。
「鬼に関する異常事態があちらこちらで起きてる今、それらが愁くんの身に起こっていることと無関係ではないはずだから。鬼に関する古い文献とか漁れたらいいんだけどね」
芹は胸の内で考えを巡らせる。
無駄に広い縹家の屋敷には古い蔵があった。そこには先祖代々の書物や祭具がしまわれている。ひょっとしたら、鬼に関するものもあるかもしれない。
「今日、帰ったら蔵を調べてみます」
「俺も行こう」
「え? でも……」
天也がすっと立ち上がった。芹の返事も待たずに、立て掛けていた刀の柄を持ち、慣れた手つきで脇に差している。
「危険があるかもしれないだろう」
「でも、縹家の蔵です。危険など」
「梅林の祠で声を聞いた。家の者には異変がある。関係があるとみるべきだ」
もっともだった。だが、天也を家へ連れて行くとなると、愁がどう思うだろうか。そう考えるだけで胸が重くなる。
「愁が……」
「俺をその男に会わせたくないなら、無理には行かないが」
天也は迷いなく言う。その声に、芹は顔を上げた。
「ただし、その場合は一人で蔵へ入るな」
「……心配してくださっているのですか」
思わず口にしてから、芹は自分の言葉に驚いた。
天也も一瞬だけ黙る。杏樹が隣でにやりと笑っていた。
「そりゃあ心配してるよねぇ」
「杏樹」
「はいはい、黙りますよーだ」
杏樹は全く黙る気のない顔で茶をすすった。
天也は少しだけ視線を逸らし、軽く肩を落とす。
「危険を避けるのは当然のことだ」
「……はい」
当然。そう言いながら、天也はいつも芹を見てくれる。危ない時には止め、震えている時には気づき、話せないことには無理に踏み込まない。その一つひとつが、芹の中に静かに積もっていく。
(……信じたい)
ふと、そう思った。
天也を。この人の言葉を。この人の刀が、人を守るために振るわれるのだということを。
けれど、信じたいと思うほど、あの夜の恐怖が蘇るのだ。
翡翠の刃。血に濡れた白い装束。自分を殺した誰か。
(……確かめる)
そのためにも、芹は見なければならない。
神威天也という、ひとりの男のことを知らなければならない。
天也が少しだけ眉を寄せながら、短いため息を吐く。
「杏樹。お前、聞いていただろう」
「聞こえちゃっただけ」
ふふ、と声を漏らす杏樹の顔にはいつもの笑顔が浮かんでいたが、目が笑っていなかった。
「芹ちゃん、大丈夫?」
「……はい」
「嘘っぽいなあ」
杏樹はそう言って、部屋の中へ入ってきた。芹の向かいではなく、少し斜めの位置に座る。
「その愁って人のこと、俺も気になってたんだよね」
「杏樹さまもですか?」
「昨日会った時、ちょっとね」
「何がですか」
芹が身を乗り出すと、杏樹は困ったように笑った。
「んーと、言葉にしにくいんだけど」
「また、はぐらかすのですか」
思わず強い声が出ていた。
杏樹が目を瞬かせている。その反応に、芹は慌てて膝の上で手を重ね合わせた。
「杏樹さまはいつも何かご存じのように振る舞います。それなのに、肝心なことは何も教えてくださらないので」
胸の奥に溜まっていたものが、言葉になってこぼれ出す。
「私は何も知らないのです。愁のことも、鬼のことも、星見の力のことも。自分がどうしてこんなところに立っているのかさえ、分からない」
最後の言葉に、天也の視線が動いた。けれど芹は止まれなかった。
「分からないまま、また誰かを失うのは嫌なのです」
部屋の中に、重たい沈黙が落ちた。
杏樹はしばらく黙ったまま、芹を見つめている。やがて、口元に浮かんでいた笑みが、ゆっくりと消えた。
「……ごめんね、意地悪で黙ってるわけじゃないんだ」
「では、どうして」
「可愛くて一生懸命で頑張り屋さんな芹ちゃんには何だってしてあげたいし、何でも教えてあげたいけど、それでも言えないこともあるんだよ。言ったら、きっと……変わってしまうから」
杏樹はゆったりと視線を落とした。
「言葉ひとつで道が変わることがある。そのせいで選べなくなることもある。知らなければ助かったものが、知ったせいで壊れることもある」
その言葉は、杏樹自身の傷のように聞こえた。
「杏樹さまは……それを知っているのですか」
杏樹は笑った。ひどく寂しい笑みだった。
「さあね」
また、その言葉。けれど今度は、芹も怒れなかった。
杏樹の「さあね」は、逃げではなく、痛みを隠す蓋なのかもしれないと、そう思ったから。
「だが、必要なことなら言うべきだ」
杏樹は天也を見る。
「天也はほんとに真っ直ぐだよね」
「茶化している場合か」
「茶化してないよ」
杏樹はふっと小さく息を吐いた。
「愁くんについては、ちゃんと調べた方がいい。たぶん、芹ちゃんの家とも関わりがあるんじゃないかと思う」
「縹家と、ですか?」
「鬼退治をした巫女姫の末裔だしね」
杏樹はいつもの調子に戻りきれないまま続ける。
「鬼に関する異常事態があちらこちらで起きてる今、それらが愁くんの身に起こっていることと無関係ではないはずだから。鬼に関する古い文献とか漁れたらいいんだけどね」
芹は胸の内で考えを巡らせる。
無駄に広い縹家の屋敷には古い蔵があった。そこには先祖代々の書物や祭具がしまわれている。ひょっとしたら、鬼に関するものもあるかもしれない。
「今日、帰ったら蔵を調べてみます」
「俺も行こう」
「え? でも……」
天也がすっと立ち上がった。芹の返事も待たずに、立て掛けていた刀の柄を持ち、慣れた手つきで脇に差している。
「危険があるかもしれないだろう」
「でも、縹家の蔵です。危険など」
「梅林の祠で声を聞いた。家の者には異変がある。関係があるとみるべきだ」
もっともだった。だが、天也を家へ連れて行くとなると、愁がどう思うだろうか。そう考えるだけで胸が重くなる。
「愁が……」
「俺をその男に会わせたくないなら、無理には行かないが」
天也は迷いなく言う。その声に、芹は顔を上げた。
「ただし、その場合は一人で蔵へ入るな」
「……心配してくださっているのですか」
思わず口にしてから、芹は自分の言葉に驚いた。
天也も一瞬だけ黙る。杏樹が隣でにやりと笑っていた。
「そりゃあ心配してるよねぇ」
「杏樹」
「はいはい、黙りますよーだ」
杏樹は全く黙る気のない顔で茶をすすった。
天也は少しだけ視線を逸らし、軽く肩を落とす。
「危険を避けるのは当然のことだ」
「……はい」
当然。そう言いながら、天也はいつも芹を見てくれる。危ない時には止め、震えている時には気づき、話せないことには無理に踏み込まない。その一つひとつが、芹の中に静かに積もっていく。
(……信じたい)
ふと、そう思った。
天也を。この人の言葉を。この人の刀が、人を守るために振るわれるのだということを。
けれど、信じたいと思うほど、あの夜の恐怖が蘇るのだ。
翡翠の刃。血に濡れた白い装束。自分を殺した誰か。
(……確かめる)
そのためにも、芹は見なければならない。
神威天也という、ひとりの男のことを知らなければならない。

