都の門をくぐると、朝の賑わいが広がっていたが、芹は詰所へ急いだ。
いつもなら門の前に杏樹がいることが多い。けれど今日は、そこに立っていたのは天也だった。
鬼狩りの隊服である黒い装束。風に靡く亜麻色の髪。うつくしい翡翠の瞳。その姿を見た瞬間、胸の奥がふっと緩んだ。
(……会えた)
そう思ってしまった自分に、芹は少しだけ戸惑う。
天也は芹に気づくと、静かにこちらへ歩いてきた。
「遅かったな」
「すみません」
「責めてはいない」
短く言ってから、天也は芹の顔を見た。
「眠れていない顔だ」
やっぱり言われ、芹は小さく苦笑する。
「……少しだけ」
「何かあったのか」
問いは静かだった。無理に踏み込まず、逃げ道を塞がない距離感だ。
「神威様。お話ししたいことがあります」
天也の瞳がわずかに細められる。
「中へ」
通されたのは、詰所の奥にある小さな部屋だった。記録の間とは違い、人の出入りが少ない。窓から淡い光が入り、部屋の中には古い紙と墨の匂いがした。
芹は天也と向かい合うように座り、膝の上で手を握りしめる。
何から話せばいいのか分からない。愁の顔を思い出すだけで、胸が痛むのだ。
「……昨日、家に帰ってから……愁の様子が、おかしかったのです」
「縹家の男か」
「兄のように慕っている人です。優しくて、昔からずっと私のそばにいてくれて……本当なら、疑いたくなどないのですが」
声が震える。
天也は黙って耳を傾けている。その沈黙に促されるように、芹は続けた。
「愁が、言ったのです」
「何と?」
「……かえせ、と」
天也の表情が変わった。ほんのわずかだけれど、確かに。
「梅林で聞いた声と、同じ言葉でした」
言ってしまった。その瞬間、胸の奥が痛んだ。
愁を裏切ったような気がしたのだ。
「声は同じだったか」
「分かりません。ただ、同じ冷たさでした」
「その男は覚えているのか」
「いいえ。今朝聞いたら、記憶が曖昧だと」
「様子がおかしいのはいつからだ?」
「……私が戻ってきてからです」
──戻ってきてから。そう口にして、芹ははっとした。
天也は静かな眼差しで芹を見つめている。
「戻ってきてから?」
「あ……」
しまった、と思った。けれどもう遅い。
美しい翡翠の瞳が、真っ直ぐに芹を見つめている。
「芹。──お前は、何を隠している?」
芹は唇を噛んだ。
いつか話さなければならないと思っていた。
けれど、それは今なのだろうか。自分が一度死んだことを。彼との婚姻の夜に殺されたことを。今も疑っている──だけれど、同じくらい信じたいという気持ちもあることを。
「……今はまだ、全てを話せません」
天也は黙っている。
芹は逃げるように顔を伏せた。
「ごめんなさい」
ふたりの間に長い沈黙が横たわった。それから何を話せばよいのか分からず、芹は床の木目を見つめたまま唇を噛む。
どうしたものかと迷っていると、天也が静かに息を吐く音がこぼれた。
「ならば、話せることだけ……話してくれるか」
芹は顔を跳ね上げた。
「……よろしいのですか?」
「無理に聞き出しても意味がないだろう。危険に関わることなら黙っていてほしくはないが」
胸が、じんと熱くなる。
この人は、決して無理に踏み込まない。けれど、見捨てもしない。
「……ありがとうございます」
芹ははにかむように笑って、それから愁の変化をできるだけ詳しく話した。話しているうちに、愁のことを悪く言っているようで辛かったけれど、天也は最後まで黙って聞いていてくれた。
「……愁は、私を大切にしてくれています。だから、彼自身が悪いのではないと思いたいのです」
「決めつける必要はないだろう。本人の意志とは限らない」
息を呑む芹に、天也は力強く頷いてみせた。
「まずは確かめるべきだ。疑うことと、断じることは違うからな」
天也の真っ直ぐな言葉に、芹の目に涙が滲んだ。
天也の言葉は、芹が一番欲しかった言葉だった。愁を疑うしかない自分を責めていたけれど、疑うことは、愁を見捨てることではない。確かめるために、目を逸らさなければいいのだと天也は言ってくれたのだ。
芹が小さく頷くと、天也は小窓の向こうへ視線を移した。
「今は、その男を一人にしすぎるな」
「愁を?」
「ああ。本人に記憶の欠落があるなら、何が起きているか分かっていない可能性がある。危険なのはお前だけではないということだ」
「愁自身も……」
「そうだ」
胸が痛む。
愁は苦しんでいるのかもしれない。自分の中にある何かに、気づかないまま。
「神威様」
「何だ」
「私、愁を助けたいです」
「ならば、そのために動け」
迷いのない言葉に、芹は強く頷き返した。
まずは何をするべきか、何からするべきか。考え出したその時、見計らったかのように襖が開いた。そこからひょっこり顔を出したのは杏樹だった。
いつもなら門の前に杏樹がいることが多い。けれど今日は、そこに立っていたのは天也だった。
鬼狩りの隊服である黒い装束。風に靡く亜麻色の髪。うつくしい翡翠の瞳。その姿を見た瞬間、胸の奥がふっと緩んだ。
(……会えた)
そう思ってしまった自分に、芹は少しだけ戸惑う。
天也は芹に気づくと、静かにこちらへ歩いてきた。
「遅かったな」
「すみません」
「責めてはいない」
短く言ってから、天也は芹の顔を見た。
「眠れていない顔だ」
やっぱり言われ、芹は小さく苦笑する。
「……少しだけ」
「何かあったのか」
問いは静かだった。無理に踏み込まず、逃げ道を塞がない距離感だ。
「神威様。お話ししたいことがあります」
天也の瞳がわずかに細められる。
「中へ」
通されたのは、詰所の奥にある小さな部屋だった。記録の間とは違い、人の出入りが少ない。窓から淡い光が入り、部屋の中には古い紙と墨の匂いがした。
芹は天也と向かい合うように座り、膝の上で手を握りしめる。
何から話せばいいのか分からない。愁の顔を思い出すだけで、胸が痛むのだ。
「……昨日、家に帰ってから……愁の様子が、おかしかったのです」
「縹家の男か」
「兄のように慕っている人です。優しくて、昔からずっと私のそばにいてくれて……本当なら、疑いたくなどないのですが」
声が震える。
天也は黙って耳を傾けている。その沈黙に促されるように、芹は続けた。
「愁が、言ったのです」
「何と?」
「……かえせ、と」
天也の表情が変わった。ほんのわずかだけれど、確かに。
「梅林で聞いた声と、同じ言葉でした」
言ってしまった。その瞬間、胸の奥が痛んだ。
愁を裏切ったような気がしたのだ。
「声は同じだったか」
「分かりません。ただ、同じ冷たさでした」
「その男は覚えているのか」
「いいえ。今朝聞いたら、記憶が曖昧だと」
「様子がおかしいのはいつからだ?」
「……私が戻ってきてからです」
──戻ってきてから。そう口にして、芹ははっとした。
天也は静かな眼差しで芹を見つめている。
「戻ってきてから?」
「あ……」
しまった、と思った。けれどもう遅い。
美しい翡翠の瞳が、真っ直ぐに芹を見つめている。
「芹。──お前は、何を隠している?」
芹は唇を噛んだ。
いつか話さなければならないと思っていた。
けれど、それは今なのだろうか。自分が一度死んだことを。彼との婚姻の夜に殺されたことを。今も疑っている──だけれど、同じくらい信じたいという気持ちもあることを。
「……今はまだ、全てを話せません」
天也は黙っている。
芹は逃げるように顔を伏せた。
「ごめんなさい」
ふたりの間に長い沈黙が横たわった。それから何を話せばよいのか分からず、芹は床の木目を見つめたまま唇を噛む。
どうしたものかと迷っていると、天也が静かに息を吐く音がこぼれた。
「ならば、話せることだけ……話してくれるか」
芹は顔を跳ね上げた。
「……よろしいのですか?」
「無理に聞き出しても意味がないだろう。危険に関わることなら黙っていてほしくはないが」
胸が、じんと熱くなる。
この人は、決して無理に踏み込まない。けれど、見捨てもしない。
「……ありがとうございます」
芹ははにかむように笑って、それから愁の変化をできるだけ詳しく話した。話しているうちに、愁のことを悪く言っているようで辛かったけれど、天也は最後まで黙って聞いていてくれた。
「……愁は、私を大切にしてくれています。だから、彼自身が悪いのではないと思いたいのです」
「決めつける必要はないだろう。本人の意志とは限らない」
息を呑む芹に、天也は力強く頷いてみせた。
「まずは確かめるべきだ。疑うことと、断じることは違うからな」
天也の真っ直ぐな言葉に、芹の目に涙が滲んだ。
天也の言葉は、芹が一番欲しかった言葉だった。愁を疑うしかない自分を責めていたけれど、疑うことは、愁を見捨てることではない。確かめるために、目を逸らさなければいいのだと天也は言ってくれたのだ。
芹が小さく頷くと、天也は小窓の向こうへ視線を移した。
「今は、その男を一人にしすぎるな」
「愁を?」
「ああ。本人に記憶の欠落があるなら、何が起きているか分かっていない可能性がある。危険なのはお前だけではないということだ」
「愁自身も……」
「そうだ」
胸が痛む。
愁は苦しんでいるのかもしれない。自分の中にある何かに、気づかないまま。
「神威様」
「何だ」
「私、愁を助けたいです」
「ならば、そのために動け」
迷いのない言葉に、芹は強く頷き返した。
まずは何をするべきか、何からするべきか。考え出したその時、見計らったかのように襖が開いた。そこからひょっこり顔を出したのは杏樹だった。

