夜が明けても、芹の胸の内は晴れなかった。
障子越しに差し込む朝の光は、いつもと変わらず柔らかい。庭では鳥が鳴き、春の風が桜の枝を揺らしている。けれど、その穏やかさが今は少しだけ遠く感じられた。
昨夜、愁の口から零れた言葉が、耳の奥にこびりついて離れない。
──かえせ。
あれは本当に愁の声だったのだろうか。それとも、愁の中にいる“何か”の声だったのだろうか。
(……愁)
芹は膝の上で手を握りしめる。
愁は大切な人だ。だからこそ、今ここにいる愁を疑うことが、芹は何より苦しかった。
けれど、目を逸らすこともできない。
袖を掴んだ手。行かないでください、と縋る声。そして、あの言葉。
(……私ひとりでは、分からない)
どれだけ考えても、同じところを巡るばかりだ。
愁を信じたいけれど、あの異変を見過ごすことはできない。
誰かに相談しなければならない。そう思った時、真っ先に浮かんだのは天也の顔だった。
(……神威様なら)
信じてくれるだろうか。こんな荒唐無稽な話を。愁の中に何かがいるかもしれない、などと。
芹自身でさえ、口にするのが怖い話を。
けれど、天也は鬼の異常も、祠で聞いた声も、頭から否定しなかった。星見の力についても、使えないのではなく知らないだけだと言ってくれた。
あの人なら、きっと。
「姫様」
襖の向こうから声がして、芹の肩が小さく跳ねる。
声の主は愁だ。
「朝餉をお持ちしました」
「……ありがとう」
芹の声が少し硬いことに、愁は気づいただろうか。
静かに襖が開く。盆を手にした愁が、いつものようにそこに立っていた。
「おはようございます」
「おはよう、愁」
愁は穏やかに微笑んでいる。昨夜のことなど、何もなかったように。
芹はその顔を見て胸が痛んだ。
本当に覚えていないのだろうか。それとも、覚えていて隠しているのだろうか。
「お加減はいかがですか」
「……大丈夫よ」
愁は盆を置き、椀の蓋を取る。
いつもの朝餉。いつもの愁。それなのに、芹の胸は落ち着かない。
「姫様」
愁がふいに顔を上げた。
「本日も、都へ行かれますか」
問われると分かっていたのに、息が詰まった。
芹は箸を取る前に、小さく頷いた。
「ええ」
愁の表情は変わらなかったけれど、膝の上に置かれた指先が、ほんのわずかに動いていた。
「そうですか」
「……愁。昨日のこと、覚えている?」
思い切って尋ねてみると、愁は不思議そうに瞬きをした。
「昨日、ですか」
「私が帰ってきた時のことよ」
「姫様がお疲れのご様子だったので、お休みになるよう申し上げました」
「その前は?」
「その前……」
愁は少し考えるように目を伏せた。その横顔に嘘は見えない。少なくとも、芹にはそう見えた。
「申し訳ありません。少し記憶が曖昧で」
「曖昧?」
「ええ。近頃、時折ぼんやりすることがありまして」
芹の胸が冷えた。
「いつから?」
「……いつからでしょう」
愁は困ったように笑った。
「大したことではありません。季節の変わり目ですし、少し疲れているのでしょう」
「薬師に診てもらった方がいいわ」
「その必要は」
「愁」
芹は思わず強い声を上げていた。
愁が目を瞬かせている。
はっとして、芹は慌てて声を落とした。
「心配なの」
愁はしばらく芹を見つめていた。やがて、柔らかに笑う。
「姫様に心配していただけるとは、私は果報者ですね」
「冗談ではなくて」
「分かっております」
愁は頭を下げる。
「ですが、本当に大事ありません」
その言葉を、芹は信じたかった。
けれどもう、無邪気に頷くことはできなかった。
朝餉を済ませ、身支度を整える。
今日はいつもより少し地味な小袖を選んだ。目立たぬように、動きやすいように。髪を結いながら、鏡の中の自分を見てみると、顔色が悪かった。
天也にもそう言われるだろうか。
(……話さなければ)
愁のことを。昨夜のことを。けれど、話せば何かが変わってしまう気がする。愁を守りたいのに、愁を疑うことになる。その矛盾が胸を締めつけてくる。
門を出る時、愁はいつものように見送ってくれた。
「お気をつけて」
「ええ」
「夕暮れ前には」
「戻るわ」
芹が先に言うと、愁は少しだけ目を丸くした。それから、嬉しそうに微笑む。
「はい」
その笑みが優しくて、芹は泣きそうになった。
この人を疑いたくない。
どうか、何でもありませんように。ただ疲れているだけでありますように。
そう願いながら、芹は都へ向かった。
障子越しに差し込む朝の光は、いつもと変わらず柔らかい。庭では鳥が鳴き、春の風が桜の枝を揺らしている。けれど、その穏やかさが今は少しだけ遠く感じられた。
昨夜、愁の口から零れた言葉が、耳の奥にこびりついて離れない。
──かえせ。
あれは本当に愁の声だったのだろうか。それとも、愁の中にいる“何か”の声だったのだろうか。
(……愁)
芹は膝の上で手を握りしめる。
愁は大切な人だ。だからこそ、今ここにいる愁を疑うことが、芹は何より苦しかった。
けれど、目を逸らすこともできない。
袖を掴んだ手。行かないでください、と縋る声。そして、あの言葉。
(……私ひとりでは、分からない)
どれだけ考えても、同じところを巡るばかりだ。
愁を信じたいけれど、あの異変を見過ごすことはできない。
誰かに相談しなければならない。そう思った時、真っ先に浮かんだのは天也の顔だった。
(……神威様なら)
信じてくれるだろうか。こんな荒唐無稽な話を。愁の中に何かがいるかもしれない、などと。
芹自身でさえ、口にするのが怖い話を。
けれど、天也は鬼の異常も、祠で聞いた声も、頭から否定しなかった。星見の力についても、使えないのではなく知らないだけだと言ってくれた。
あの人なら、きっと。
「姫様」
襖の向こうから声がして、芹の肩が小さく跳ねる。
声の主は愁だ。
「朝餉をお持ちしました」
「……ありがとう」
芹の声が少し硬いことに、愁は気づいただろうか。
静かに襖が開く。盆を手にした愁が、いつものようにそこに立っていた。
「おはようございます」
「おはよう、愁」
愁は穏やかに微笑んでいる。昨夜のことなど、何もなかったように。
芹はその顔を見て胸が痛んだ。
本当に覚えていないのだろうか。それとも、覚えていて隠しているのだろうか。
「お加減はいかがですか」
「……大丈夫よ」
愁は盆を置き、椀の蓋を取る。
いつもの朝餉。いつもの愁。それなのに、芹の胸は落ち着かない。
「姫様」
愁がふいに顔を上げた。
「本日も、都へ行かれますか」
問われると分かっていたのに、息が詰まった。
芹は箸を取る前に、小さく頷いた。
「ええ」
愁の表情は変わらなかったけれど、膝の上に置かれた指先が、ほんのわずかに動いていた。
「そうですか」
「……愁。昨日のこと、覚えている?」
思い切って尋ねてみると、愁は不思議そうに瞬きをした。
「昨日、ですか」
「私が帰ってきた時のことよ」
「姫様がお疲れのご様子だったので、お休みになるよう申し上げました」
「その前は?」
「その前……」
愁は少し考えるように目を伏せた。その横顔に嘘は見えない。少なくとも、芹にはそう見えた。
「申し訳ありません。少し記憶が曖昧で」
「曖昧?」
「ええ。近頃、時折ぼんやりすることがありまして」
芹の胸が冷えた。
「いつから?」
「……いつからでしょう」
愁は困ったように笑った。
「大したことではありません。季節の変わり目ですし、少し疲れているのでしょう」
「薬師に診てもらった方がいいわ」
「その必要は」
「愁」
芹は思わず強い声を上げていた。
愁が目を瞬かせている。
はっとして、芹は慌てて声を落とした。
「心配なの」
愁はしばらく芹を見つめていた。やがて、柔らかに笑う。
「姫様に心配していただけるとは、私は果報者ですね」
「冗談ではなくて」
「分かっております」
愁は頭を下げる。
「ですが、本当に大事ありません」
その言葉を、芹は信じたかった。
けれどもう、無邪気に頷くことはできなかった。
朝餉を済ませ、身支度を整える。
今日はいつもより少し地味な小袖を選んだ。目立たぬように、動きやすいように。髪を結いながら、鏡の中の自分を見てみると、顔色が悪かった。
天也にもそう言われるだろうか。
(……話さなければ)
愁のことを。昨夜のことを。けれど、話せば何かが変わってしまう気がする。愁を守りたいのに、愁を疑うことになる。その矛盾が胸を締めつけてくる。
門を出る時、愁はいつものように見送ってくれた。
「お気をつけて」
「ええ」
「夕暮れ前には」
「戻るわ」
芹が先に言うと、愁は少しだけ目を丸くした。それから、嬉しそうに微笑む。
「はい」
その笑みが優しくて、芹は泣きそうになった。
この人を疑いたくない。
どうか、何でもありませんように。ただ疲れているだけでありますように。
そう願いながら、芹は都へ向かった。

