白銀鬼譚 -星見の巫女姫は愛をほどく-

 帰り道、三人はほとんど言葉を交わさなかった。
 杏樹はいつもより静かだった。天也もまた、どこか険しい表情を崩さない。
 芹は祠で聞いたあの声を、何度も思い返していた。
 ――かえせ。
 誰が、何を。
 あれは、本当に鬼の声だったのか。
 それとも――。
 考えかけたその時、ふいに天也が足を止めた。
「芹」
「はい」
「今日聞いた声のことは、誰にも話すな」
「……愁にもですか?」
 口にしてから、自分でも驚いた。なぜ今その名が出たのか、分からない。
 天也の切れ長の瞳が細められる。
「家の者にもだ」
「どうしてですか」
「確かなことが分かるまで、余計な不安を広げるべきではない」
 それは、正しい言葉だけれど、どこか引っかかる。
 愁には話してはいけない。そんなふうにも聞こえた。
「……分かりました」
 芹は小さく頷く。
 隣で杏樹が何か言いかけていたが、その口が開くことはなかった。
 
 その日の夕暮れに家へ戻ると、門の前にはやはり愁がいた。
「お帰りなさいませ、姫様」
「ただいま、愁」
 芹は微笑もうとした。けれど、うまく笑えていたかは自分でも分からない。
「何かあったのですか」
「少し、疲れただけよ」
 愁は芹をじっと見つめている。
 その目がまるで芹の奥まで覗き込もうとしているようで、胸の奥を何かがかすめた。
「姫様。今日は神威様とどちらへ?」
 声は穏やかだった。だがその穏やかさが、かえって芹の背筋を冷たく撫でた。
「詰所で記録を見て、それから少し調査に」
「どちらへ」
「……都の外れよ」
「梅林ですか」
 息が、止まった。
 芹はゆっくりと、愁を見上げる。
「どうして、それを」
「噂で聞いたのです。あの辺りで鬼が出たと」
「……そう」
 ――本当に?
 芹の胸が、ざわりと騒ぐ。
 愁は穏やかな顔のまま、言葉を続けた。
「危険な場所へ行かれたのですね」
「神威様と杏樹さまが一緒だったわ」
「それでも危険です」
「分かってる」
「分かっておられません」
 声が、すっと低くなる。
 芹の身体が強ばった。逃げ場を塞ぐように、愁が一歩近づいてくる。
「姫様は、私の言うことを聞いてくださらなくなりました。昔は何でも話してくださいましたのに」
「それは今も――」
「嘘です」
 その言葉に、胸の奥が凍りつく。
 愁の目が、どこか暗く沈んでいる。
「今日、何を見たのですか」
「……何も」
「嘘です」
 繰り返されるその声が、愁のものではないように聞こえた。
「姫様は隠しておられます。神威様には話して、私には話さない」
「違うわ」
「何が違うのです?」
 愁の手がゆっくりと伸びて、そのまま芹の肩に触れた。
 強い力ではない。むしろ、驚くほど穏やかな触れ方だった。なのにどうして、逃げられないのだろう。
 触れられたその瞬間、芹の胸の奥に、あの梅林の祠で感じたのと同じ冷たさが走った。
(……っ)
 息が詰まる。
 愁の手のはずなのに、違う。そう分かっているのに、確かに違っていた。
 何かが、重なっている。ひどく冷たく、暗く、底の見えない何かが――この手の奥に、潜んでいるような気がした。
「愁、痛いわ」
 そう言うと、愁は弾かれたように手を離した。
「……申し訳、ありません」
 愁の顔色がはっとするほど悪い。血の気が引き、どこか青ざめて見える。唇が小刻みに震えていた。
「私は、また」
「愁?」
「違うのです」
 愁は自分の手を見つめる。
「私は、こんなことをしたいわけでは」
「分かっているわ」
 芹はそっと言葉を落とした。
 そう思いたかった。愁が自分を傷つけようとしているはずがない。むしろ、苦しんでいるようにさえ見える。でも、その苦しみは、いったい何によるものなのだろうか。
「姫様」
 愁の声が震えている。
「お願いです」
「……」
「私を、置いていかないでください」
 その言葉に、芹の胸が痛んだ。
 置いていくつもりなんてない。けれど、愁にはそう見えているのだ。
 芹が天也のもとへ向かうたび。知らないものを知ろうとするたび。愁の手の届かない場所へ行ってしまうように。
「愁、私は」
 言いかけた時だった。
 愁の瞳が、ほんの一瞬だけ光を失った。
 そして。
「……かえせ」
 低い声が、ぽつりと零れた。
 その瞬間、芹の全身が凍りつく。胸の奥で、何かがはっきりと結びついた。
 ――梅林で聞いた声だ。あの鬼のそばで、確かに聞こえた声。
 同じ言葉。同じ響き。そして――同じ冷たさだった。
「愁……?」
 呼びかけると、愁は瞬きをした。
 今の自分の言葉を覚えていないのか、困惑した顔をしている。
「姫様、どうか……なさいましたか?」
 芹は思わず一歩後ずさった。
 心臓が胸を打ち破りそうなほど激しく鳴っている。
「今……あなた」
 言いかけた言葉が、喉の奥で止まる。
「私が、何か?」
 愁は本当に分かっていないような顔をしていた。その表情に、偽りは見えない。
 だからこそ――怖かった。
「……いいえ。何でもないわ」
 芹は震える声で答え、愁から目を逸らした。
 何でもなくなど、あるはずがない。
 愁はあの梅林で聞いた声と同じ言葉を口にしていたのだ。
 ――かえせ。それは、誰に向けて。何を求めていたのだろうか。
「姫様、顔色が……」
「少し疲れたの。部屋で休むわ」
「では、お茶を」
「……一人にして」
 思ったよりも強い声になった。
 愁が目を伏せる。傷ついたようなその表情に、胸が痛んだ。
 けれど――今は、そばにいられなかった。
「……承知しました」
 愁は静かに頭を下げ、そのまま音も立てずに部屋を出ていく。
 芹はすぐに襖を閉めた。その場に、力が抜けるように膝をつく。
 息が乱れている。指先が微かに震えていた。
(……愁が)
 あの梅林で聞いた声と、同じ言葉を口にした。
 偶然――? いや、そんなはずがない。
 祠。鬼。五百年前の封印。そして、愁の異変。
 ばらばらだったものが、少しずつ、繋がり始めている。
 愁は大切な人だ。一度は失ったと思った人だ。守りたい人なのに、疑うことになってしまうなんて。
 ――それでも。
(……確かめなくては)
 そう思った瞬間、堪えていた涙が、静かにこぼれた。
 天也を疑うよりも、杏樹を疑うよりも、愁を疑うことがいちばん苦しかった。

 その夜、部屋の外に愁の気配はなかった。けれど、芹は眠ることができなかった。
 耳の奥で、同じ声が繰り返される。
 ――かえせ。かえせ。かえせ。
 それが誰の声なのかは、まだ分からない。
 けれど、ひとつだけはっきりとしたことがある。
 愁の中に、何かがいる。
 それはもう――芹の知っている愁ではないのだ。