白銀鬼譚 -星見の巫女姫は愛をほどく-

 昼過ぎ、三人は都の外れへ向かった。
 梅林はすでに花の盛りを過ぎている。枝にはわずかに残った花があり、地面には白い花びらが散っていた。人通りは少なく、都の賑わいが遠くに感じられる。
 古い祠は梅林の奥にあった。小さな石造りの祠は苔に覆われ、半ば土に埋もれている。
 近づくと、身体の内側に冷たい指でなぞられたような感覚が走った。
「……なんだか嫌な感じがします」
 顔を顰める芹を庇うように、天也が前に進み出る。
「そこを動くな」
 天也は短く吐き捨てると、刀の柄に手をかけた。
 祠の裏手から低い唸り声が響く。
 天也がすっと動いた。それに合わせるように、杏樹も扇を片手に芹の前へと進み出る。ふたりの背中が、自然と芹を覆う形になった。
 次の瞬間、黒い影が、木々の奥からにじみ出るように現れた。
 ――鬼。
 その姿を認めた途端、空気が重く沈む。けれど、どこかがおかしかった。
 鬼は低く唸りながらも、その身体が細かく震えているのだ。牙を剥き、今にも飛びかかってきそうな姿をしているのに、どこか怯えているようにも見えた。
 まるで、ここにいる“何か”を恐れているかのように。
 濁った目が、ゆっくりと祠へ向く。次に、その視線がじわりと芹へと移った。
 その瞬間――芹の胸に、鋭い痛みが走った。
(……なに)
 痛い。心臓を内側から強く掴まれたような痛みだった。息が詰まり、思わず胸元を押さえる。
 そのまま動けなくなっていると、耳の奥で何かが軋むような音がした。それは風の音でも、誰かの声でもない。けれど、確かに“言葉”だった。
 ――かえせ。
 低く、掠れた声が、直接頭の奥へと落ちてくる。
 芹は息を呑んだ。
「今……」
「芹!」
 天也の声が鋭く落ちる。その声と同時に、鬼が地を蹴った。
 黒い影が一気に間合いを詰めてくるのを、天也が正面から受け止める。刃と爪がぶつかり、甲高い音が空気を裂いた。その衝撃が走るすぐ後ろで、杏樹が芹の腕を掴む。迷いのない力で引き寄せられ、身体が後ろへと引かれた。
「芹ちゃん、下がって」
「今、声が」
「声? 何が聞こえたの?」
「かえせ、と」
 その瞬間、杏樹の顔から表情が消えた。
 天也が鬼を押し返し、そのまま刀を抜き放つ。
 刃は陽光を受けて鋭く光っていた。
 鬼は苦しむように叫び、なおも食らいつくように襲いかかってくる。それを、天也の一閃が断ち切った。振り抜かれた刃が鬼の腕を斬り落とし、黒い血がはらはらと舞う梅の花びらに散った。
 芹は思わず息を止める。
 鬼が痛みに呻いた。けれど――逃げない。それどころか、祠へ向かって、這って進もうとしている。
「……祠に、近づこうとしていませんか」
 天也が鬼の前に立つ。
「杏樹」
「分かってる」
 杏樹が横へ回り込む。
 二人の動きは、息を合わせたように速かった。
 天也が鬼の進路を断ち、その間に杏樹が足を止める。逃げ場を奪われた鬼へ、天也の刀が振り下ろされた。
 鬼の身体が崩れ落ちる。黒い血が、ゆっくりと地面へ広がっていった。
 梅林に、静寂が戻る。けれど――芹の胸の痛みだけは、消えなかった。
「……かえせ」
 芹は小さく呟いた。その声に、天也が振り返る。
「そう聞こえたのか」
「はい」
「鬼の声か」
「分かりません。でも、確かに」
 杏樹は黙って鬼の亡骸を見下ろしている。
 芹はたまらなく不安になって呼んだ。
「杏樹さま。今のは何なのですか」
 杏樹はしばらく答えなかった。やがて、ゆっくりと笑う。
 いつものように。けれどその笑みは触れたら割れてしまいそうな、薄いものだった。
「さあね」
「……またですか」
「うん。また」
 その言葉に、胸がわずかにざらついた。
 芹は拳を握る。
「杏樹さまは、何か知っていますよね」
「どうしてそう思うの?」
「知らない顔ではありません」
 声が震えた。恐怖ではなく、もどかしさで。
「私だけが何も知らないのです。神威様も、杏樹さまも、何かを見ているのに、私は何も」
「天也は知らないよ」
 杏樹は静かに言った。その言葉に、芹ははっと目を見開く。
 天也も僅かに視線を向けていた。
「だからさ、芹ちゃん。天也を責めないであげて」
「それは、どういう……」
「杏樹」
 天也の声が低くなる。その空気を受け流すように、杏樹は肩をすくめた。
「ごめんごめん。言いすぎた」
 杏樹はまたいつもの軽い調子に戻る。けれど、その奥にあるものを、芹は見逃さなかった。
 杏樹は知っている。この世界の、何かを。もしかしたら、芹が死に戻ったことさえも。
「……私は何を知らないのですか」
 芹の震える声に、杏樹は返事をしなかった。
 その沈黙を遮るように、天也が一歩前へ出る。
「詰所に戻るぞ」
「神威様」
「ここは危険だ」
 確かに、祠の周囲の空気はどこかおかしかった。
 肌に触れる気配が、ひどく冷たい。
 これ以上、ここにいるべきではない。そう思うのに――胸の奥の疑問は、消えるどころか膨らむばかりだった。