白銀鬼譚 -星見の巫女姫は愛をほどく-

 翌朝、芹はなかなか部屋から出られずにいた。
 障子の外からはやわらかな春の光が差している。庭では鳥が鳴き、風が桜の枝を揺らしていた。いつもと変わらない朝のはずなのに、芹の胸の奥には昨夜の影がまだ残っている。
(……気のせいよ)
 何度もそう思おうとした。
 あの日の愁は疲れていて、芹を心配してくれていただけなのだと。
(……どうして)
 袖を掴まれた感触が、まだ残っているような気がする。
 柔らかく、けれど逃がさないような力。あの瞬間だけ、愁の優しさが別のものに変わったように感じた。
 守ろうとしていたのではなく、繋ぎ止めようとしていたのだと、その違いに気づいてしまった自分が嫌だった。
「姫様」
 襖の向こうから声が聞こえ、芹は思わず肩を震わせる。
 それは愁の声だった。
「お目覚めでしょうか」
「……ええ」
 返事をすると、少し間を置いて襖が開いた。
 愁が朝餉を載せた盆を手に立っている。いつものように穏やかな顔だった。
「おはようございます」
「おはよう、愁」
 声が少し硬くなった。
 愁は気づいただろうか。けれど彼は何も言わず、いつものように膳を置いた。
「昨夜は、よく眠れましたか」
「……あまり」
 正直に答えると、愁は眉を下げた。
「申し訳ありません。私が余計なことを申し上げたせいでしょう」
 愁は膝を揃え、深く頭を下げる。
「昨日は失礼いたしました。姫様を困らせるつもりはなかったのです。ただ、心配で」
 その声は、いつもの愁のものだった。優しくて、少し困ったようで、芹を大切にしてくれる人の声。
「分かっているわ」
 そう言うと、愁はゆっくりと顔を上げた。
「本当ですか」
「ええ。あなたが私を心配してくれていることは、ちゃんと分かっている」
 愁の表情がわずかに和らぐ。けれどその瞬間、芹の胸にまた小さな違和感が落ちた。
 安堵。それは確かに安堵だった。だが、愁の目に浮かんだそれは、許された者の安堵ではなく、何かを取り戻した者のように見えた。
「……姫様」
「なあに」
「本日も、都へ?」
 芹は箸を持つ手を止めた。
 聞かれると思っていた。そして、答えなければならないことも分かっていた。
「行くわ」
 愁の指が、膝の上で微かに動いた。
「そうですか」
「止めないの?」
「止めれば、姫様はお困りになるでしょう」
「……愁」
「ですが、どうか夕暮れ前にはお戻りください」
「ええ」
「必ずです」
 昨日と同じ言葉。けれど今日は、そこに無理に押し込めたような静けさがあった。
「必ず帰るわ」
 芹が頷くと、愁はいつものように微笑んだ。
 けれど芹は、その姿を見ても完全には安心できなかった。
 朝餉を済ませ、身支度を整える。
 今日は動きやすい小袖を選んだ。髪を結い、帯を締める。鏡の中の自分は、昨日よりも少し大人びて見えた。
 いや、違う。疲れているだけかもしれない。
(……行かなくては)
 怖いからこそ、不安だからこそ、見なければならない。
 芹は小さく息を吸い、家を出た。
 門の前で振り返ると、愁が立っていた。
「いってらっしゃいませ」
 穏やかな声だ。
 芹は微笑みながら「行ってきます」と返し、歩き出した。
 背中に視線を感じ、振り返りたい衝動に駆られたが、芹は前を見据えたまま都へ続く道を進んだ。

 都へ着く頃には、朝の不安は少しだけ落ち着いていた。
 いつもの賑わいが、芹を現実へ引き戻してくれる。けれど、都の空気は以前よりも確かに緊張していた。
 通りの端には鬼狩りの姿が増え、商人たちの声にもどこか張り詰めたものがある。子どもたちは走り回っているが、親たちが何度もその姿を目で追っているのが分かった。
 鬼の異常発生。それはもう、噂では済まなくなっていた。
「芹ちゃん」
 声がして振り返ると、杏樹がいつものように手を振っていた。
「おはよう」
「おはようございます」
「今日は少し遅かったね」
「……そうでしょうか」
「うん。天也、門のところ三回くらい見てたよ」
「え」
 思わず声を上げてしまった。
 杏樹は口元をゆるめ、にやりと笑った。
「心配してたんじゃない?」
「そ、そんなこと」
「あるかもよ?」
 からかうような声に、芹は頬が熱くなるのを感じた。
 天也が心配してくれた。そう思うだけで胸が温かくなる。けれど同時に、昨夜の愁の言葉が蘇った。
 ――姫様は、神威様の話をする時、微笑まれます。
 芹は無意識に口元へ手を当てた。
「どうしたの? 芹ちゃん」
 杏樹が首を傾げている。
「……いえ」
「顔、暗いよ」
 軽い口調だったが、目はよく見ていた。
 芹は少し迷った末に、そっと口を開いた。
「杏樹さま」
「うん?」
「大切な人が、急に少し変わって見えることはありますか」
 杏樹の笑みが、ほんの少しだけ止まった。
「大切な人?」
「はい」
「たとえば?」
「兄のように慕っている人、とか」
 愁の名は出さなかったが、勘のいい杏樹はそれだけで察したのか、口元に手を当てながら考え込んだ。
「その人が、怖い?」
 怖い、のだろうか。その言葉を、自分ではまだはっきり認めていなかった。
「……分かりません」
「そっか」
「心配してくれているだけだと思います。私を大切にしてくれているから。なのに、時々……」
「息苦しい?」
 芹は顔を上げた。
 杏樹は笑みを浮かべていない。穏やかだが、どこか遠くを見つめるような目をしていた。
「大切にされてるはずなのに、逃げたくなる時がある」
「……杏樹さま」
「あるよ」
 杏樹は軽く言った。けれどその声は、いつものようには軽くなかった。
「大切な人ほど、時々いちばん怖いものになる」
「それは……どういう意味ですか」
「そのままだよ」
 杏樹が歩き出したので、芹は慌てて後を追った。
「愛ってさ、綺麗なものだけじゃないでしょ」
 杏樹は通りを眺めながら言う。
「守りたいとか、幸せでいてほしいとか、そばにいたいとか。そういう気持ちって、少し向きを間違えると、相手を閉じ込めるものになるじゃん?」
 芹は何も言えなかった。
 愁の袖を握る手。行かないで、と訴える声。その奥に見えた感情は、確かに芹を大切に思う心から来ているようだった。
 けれど同時に、それは芹の歩みを止めようとしていた。
「……杏樹さまは、そういう経験があるのですか」
 杏樹は一瞬足を止めたが、いつものように笑った。
「さあね」
「またそのようなことを」
「便利だから」
 軽く受け流された。でも今回は、深く問い詰めることができなかった。
 杏樹の横顔が、あまりにも寂しげだったから。