白銀鬼譚 -星見の巫女姫は愛をほどく-

 天也は芹を家の近くまで送ると言ったが、芹は途中で断った。
「今日は愁が心配していると思うので、早めに戻ります」
「そうか」
「また明日、詰所へ伺っても?」
「ああ」
 素っ気ない返事だが、それだけで胸がふわっと温まる。
 隣では杏樹が手を振っている。
「またね、芹ちゃん」
「はい。また」
 芹は二人と別れ、家へ向かった。
 夕暮れ前の道は、朝とは違う色をしている。長く伸びた影。淡い金色の光。風に揺れる草の音。
 いつもなら穏やかに感じる景色が、今は少し不安に見えた。
 家へ戻ると、愁が門の前に立っていた。まるで、ずっと待っていたかのように。
「お帰りなさいませ、姫様」
 愁は微笑んだ。それは、いつもと変わらない穏やかな笑みだった。
「待っていたの?」
「ええ。夕暮れ前にはお戻りになると仰っていましたから」
「まだ、日は暮れていないわ」
「ですが、心配だったのです」
 胸が締めつけられるように痛んだ。心配してくれているのは分かっているのに、どうしてこんなにも息苦しいのだろう。
「……ごめんなさい」
「謝らないでください。姫様がご無事なら、それでいいのです」
 その言葉に、少し安心しかけた。けれど次の瞬間、愁が一歩近づいてくる。
「ですが」
 声が、少し低くなった。
「明日は、都へ行かないでください」
 芹は目を見開いた。
「え?」
「危険です」
「それは分かっているけれど」
「ならば行くべきではありません」
 愁の言葉は静かでありながら、底知れない何かを秘めていた。その響きは芹の心を揺さぶり、戸惑いを誘っているようだ。
「愁、急にどうしたの」
「急ではありません」
 愁は微笑んでいる。けれど、その瞳の奥が暗い。
「姫様はあの方々に近づくべきではありません」
「あの方々って……神威様と杏樹さまのこと?」
「はい」
「どうして」
「姫様が遠くへ行ってしまいそうだからです」
 息が止まる。
 愁の声は静かだ。けれど、その言葉だけが妙に幼く、切実に響いた。
「私はどこにも行かないわ」
「行っています」
「愁」
「私の知らない顔をなさるようになりました」
 愁の手が、芹の袖に触れる。
 そっと。
 けれど、離さない。
「姫様は、神威様の話をする時、微笑まれます」
「……」
「私は、その顔を知りません」
 胸が、きゅっと痛んだ。
 愁の言葉は責めているようで、泣いているようでもあった。
「愁、私は」
「行かないでください」
 その声に、ぞくりと背筋が冷えた。
 低くて、愁の声なのに、どこか愁ではない気がした。
「……愁?」
 見上げると、愁の瞳が揺れていた。苦しそうに、何かを堪えるように。袖を掴む手に力がこもっている。
「姫様、お願いです。明日は、家にいてください」
「……どうして、そんなに」
「分かりません」
 愁は苦しげに眉を寄せた。
「ただ、嫌なのです」
「嫌?」
「姫様があの方のところへ行くのが」
 芹は何も言えなくなってしまった。
 愁は芹のことを大切に思ってくれている。それは分かるが、何か違うのではないだろうか。
 何かが、愁の中で膨らんでいる。そして愁自身も、それに戸惑っているように見えた。
「愁。手を、離して」
 愁の手がびくりと震え、すぐに袖から離れる。
「……申し訳ありません」
 愁は青ざめた顔のまま、深々と頭を下げた。
「私は、何を」
「愁?」
「少し、疲れているようです」
 そう言って、愁はいつものように笑った。
「今日はもう休みます。姫様も、早めにお休みください」
「待って、愁」
 呼び止めても、愁は振り返らなかった。

 屋敷の奥へ消えていく背中を、芹はただ見つめる。
 春の夕暮れ。美しいはずの景色が、ひどく不安に見える。
(……何なの)
 胸の奥がざわめいている。
 芹は愁に掴まれた場所に触れた。そこにはもう何の感触も残っていないはずなのに、まだ掴まれているような気がした。

 その夜、芹はなかなか眠れなかった。障子の向こうに揺れる月明かりを見つめながら、何度も愁の声を思い出す。
 行かないでください、というあの低い声を。あれは愁のものとは思えない、冷たい響きだった。
 それでも、そこにあった感情は確かだった。芹を失いたくないという思い。芹を遠ざけたくないという願い。けれど、それは本当に愁のものだったのだろうか。
(……愁)
 愁は大切な人だ。それなのに、怖いと思ってしまった。そのことが何よりも苦しい。
 ふと、廊下の方で小さな音がして、芹はゆっくりと体を起こした。
「……愁?」
 返事はない。けれど、誰かがいる気配がする。
 障子の向こう。細く差し込む月明かりの中に、人影があった。
 芹は息を呑んだ。
 影はしばらく動かなかった。ただ、そこに立っている。
「愁なの?」
 震える声で問いかけると、障子の向こうから声が聞こえてきた。
「……姫様」
 愁の声だった。だが酷く掠れている。
「どうしたの」
「いえ。……おやすみなさいませ」
 それだけ言って、気配は遠ざかっていった。
 心臓が早鐘を打っている。
 愁は何をしに来たのだろうか。ただ心配で様子を見に来ただけかもしれない。そう思いたいが、障子の向こうに立つ影を見た瞬間、背筋が冷えた。
 大切な人なのに。誰よりも安心できるはずの人なのに。
 芹は初めて、愁を怖いと感じた。
 布団に戻っても眠れず、月明かりの中でそっと左肩に触れる。
 傷はないのに、あの夜の痛みはまだ消えていない。
 そして今、胸の奥に新たな痛みが生まれていた。
 愛され、大切にされているはずなのに、どうしてこんなにも苦しいのだろう。
 芹は目を閉じる。ほどけかけた運命の糸が、音もなく絡まっていく気がした。