その日の昼過ぎ、天也は巡回へ出ることになった。
芹は詰所に残るはずだったが、天也が許す範囲で同行することになった。
「いいか。俺の前には絶対に出るな」
「はい」
「それが守れないのなら、同行は許可できない」
「守ります。必ず」
真剣に答えると、天也は少し黙り、視線をそらした。
「……ならいい」
杏樹はまた何かを企んでいるのか、天也の隣でにやにやと笑っている。
「天也、過保護だなあ」
「黙れ」
「はいはい」
三人で都の東側を歩く。
市の賑わいから少し離れると、古い屋敷や神社が増えてくる。石畳の道には桜の花びらが散り、風が吹くたびに薄桃色の波のように揺れた。
芹は歩きながら、天也の姿をそっと見る。
天也は周囲の気配に注意を払っているのだろう。視線は静かだが、油断はない。その横顔は、やはり美しい。
だが今は、美しさよりも別のものが気になった。
この人は、どれだけのものを背負っているのだろう。鬼を狩り、人を守り、当代一と呼ばれ、期待される。
それは誇らしいことなのかもしれない。けれど、重くはないのだろうか。
「神威様」
「何だ」
「鬼狩りになられたのは、いつ頃なのですか」
「幼い頃から剣は学んでいた。正式に鬼狩りとなったのは十五の時だ」
「十五……」
神威家は鬼狩りを最も多く輩出している家だ。筆頭の名に恥じないよう、一門に生まれた者は皆鬼狩りとなるのが定めなのだと天也は語る。
「怖くはありませんでしたか」
また同じようなことを聞いてしまったと思ったが、天也は答えてくれた。
「怖かった。初めて鬼を斬った夜は、手が震えた」
芹は息を呑んだ。天也の手が震えるところなど、想像もできなかった。
「でも、逃げなかったのですね」
「逃げたら、後ろにいた者が死んでいた」
天也はいつも誰かの前に立っている。逃げたくても、逃げられない場所に。
「……強いのですね」
「違う。強いから前に立つのではない。前に立つしかないから、立っているだけだ」
その言葉に、芹は胸を打たれた。
強いからではない。立つしかないから。その静かな覚悟が、天也という人を形作っているのだと思った。
(……やっぱり)
この人を、もっと知りたい。そう思った時だった。
ふと、道の先に見覚えのある人影があった。
「……愁?」
芹は足を止めた。少し離れた鳥居の下に、愁が立っていた。
都へ来るとは聞いていない。愁もこちらに気づいたのか、ゆっくりと顔を上げる。
「姫様」
いつもの柔らかな声。けれど、なぜか芹の胸をざわつかせた。
「どうしてここに?」
「お使いです。旦那様に頼まれた品がありまして」
「あ……そうだったの」
偶然。そう思えば、それまでだ。
けれど愁の視線が、芹の隣にいる天也へ向いた瞬間、空気が少し冷えた気がした。
「お噂の神威様ですね」
愁はやわらかに微笑みながら、丁寧に頭を下げる。
「姫様がいつもお世話になっております」
「神威天也だ」
二人の間に静けさが漂う。
いつもなら軽口を飛ばすはずの杏樹は、じっとふたりを眺めている。
芹は不安になり、愁を見やった。
愁は微笑んでいる。いつものように優しい表情で。けれどその瞳の奥は笑っていないように見えた。
「姫様は好奇心が旺盛で、昔から無茶をなさるお方でしたが、今度は鬼狩りに興味を持たれるとは。まさかとは思いますが、姫様を危険な目に遭わせたりは」
「愁。私は自分で望んで――」
「分かっております」
愁は芹を見る。
「ですが、心配なのです」
その言葉は優しいのに、なぜか胸が詰まる。
まるで柔らかな布に包まれて、そっと動きを封じられているような感覚だ。
「愁、私は大丈夫よ」
「昨日も、そう仰いました」
「え?」
「一昨日も、その前も」
芹は息を止めた。
愁の声が、ほんの少しだけ低いのだ。
「姫様はいつも大丈夫と仰います。そして私の知らないところへ行ってしまわれる」
「愁……?」
愁はすぐに微笑んだ。
「失礼しました。少し、心配が過ぎたようです」
その変化があまりにも早くて、芹は何も言えなくなった。
天也は黙って愁を見ていた。杏樹も笑っていない。
「夕暮れ前にはお戻りください」
愁はそう言って、頭を下げた。
「旦那様も心配なさいます」
「……ええ」
「必ず」
その言葉が、朝と同じように強く胸に響く。
愁は芹に笑みを向け、通りの向こうへ歩き去った。
芹はその背中を目で追う。胸の奥が、落ち着かずざわめいている。
「……芹ちゃん。今の人は家の人?」
「はい。愁です。兄のような人で……」
そう言いながら、芹は言葉に詰まる。
兄のような人。いつも優しくて、あたたかくて、誰よりも芹を理解してくれていた人。そのはずなのに。
今の愁は、少し違って見えた。
「……何か、変でしたか」
恐る恐る問いかけると、杏樹はほんの一瞬だけ天也を見た。
天也は黙ったままだ。
やがて杏樹は、いつも通りにふっと笑った。
「心配性なんだね」
「……そう、ですよね」
「うん」
その返事は優しかったが、どこかはぐらかすようでもあった。
「無理に話す必要はない」
天也が静かに口を開く。
「え?」
「気になるなら、確かめればいいだろう」
その言葉に、芹は胸を押さえた。
確かめる。それは何度も自分に言い聞かせてきたことだ。
天也のことも。杏樹のことも。そして今度は、愁のことも。
(……愁を疑うなんて)
胸が痛む。けれど、違和感は消えてくれない。
その日の巡回は、何事もなく終わった。
芹は詰所に残るはずだったが、天也が許す範囲で同行することになった。
「いいか。俺の前には絶対に出るな」
「はい」
「それが守れないのなら、同行は許可できない」
「守ります。必ず」
真剣に答えると、天也は少し黙り、視線をそらした。
「……ならいい」
杏樹はまた何かを企んでいるのか、天也の隣でにやにやと笑っている。
「天也、過保護だなあ」
「黙れ」
「はいはい」
三人で都の東側を歩く。
市の賑わいから少し離れると、古い屋敷や神社が増えてくる。石畳の道には桜の花びらが散り、風が吹くたびに薄桃色の波のように揺れた。
芹は歩きながら、天也の姿をそっと見る。
天也は周囲の気配に注意を払っているのだろう。視線は静かだが、油断はない。その横顔は、やはり美しい。
だが今は、美しさよりも別のものが気になった。
この人は、どれだけのものを背負っているのだろう。鬼を狩り、人を守り、当代一と呼ばれ、期待される。
それは誇らしいことなのかもしれない。けれど、重くはないのだろうか。
「神威様」
「何だ」
「鬼狩りになられたのは、いつ頃なのですか」
「幼い頃から剣は学んでいた。正式に鬼狩りとなったのは十五の時だ」
「十五……」
神威家は鬼狩りを最も多く輩出している家だ。筆頭の名に恥じないよう、一門に生まれた者は皆鬼狩りとなるのが定めなのだと天也は語る。
「怖くはありませんでしたか」
また同じようなことを聞いてしまったと思ったが、天也は答えてくれた。
「怖かった。初めて鬼を斬った夜は、手が震えた」
芹は息を呑んだ。天也の手が震えるところなど、想像もできなかった。
「でも、逃げなかったのですね」
「逃げたら、後ろにいた者が死んでいた」
天也はいつも誰かの前に立っている。逃げたくても、逃げられない場所に。
「……強いのですね」
「違う。強いから前に立つのではない。前に立つしかないから、立っているだけだ」
その言葉に、芹は胸を打たれた。
強いからではない。立つしかないから。その静かな覚悟が、天也という人を形作っているのだと思った。
(……やっぱり)
この人を、もっと知りたい。そう思った時だった。
ふと、道の先に見覚えのある人影があった。
「……愁?」
芹は足を止めた。少し離れた鳥居の下に、愁が立っていた。
都へ来るとは聞いていない。愁もこちらに気づいたのか、ゆっくりと顔を上げる。
「姫様」
いつもの柔らかな声。けれど、なぜか芹の胸をざわつかせた。
「どうしてここに?」
「お使いです。旦那様に頼まれた品がありまして」
「あ……そうだったの」
偶然。そう思えば、それまでだ。
けれど愁の視線が、芹の隣にいる天也へ向いた瞬間、空気が少し冷えた気がした。
「お噂の神威様ですね」
愁はやわらかに微笑みながら、丁寧に頭を下げる。
「姫様がいつもお世話になっております」
「神威天也だ」
二人の間に静けさが漂う。
いつもなら軽口を飛ばすはずの杏樹は、じっとふたりを眺めている。
芹は不安になり、愁を見やった。
愁は微笑んでいる。いつものように優しい表情で。けれどその瞳の奥は笑っていないように見えた。
「姫様は好奇心が旺盛で、昔から無茶をなさるお方でしたが、今度は鬼狩りに興味を持たれるとは。まさかとは思いますが、姫様を危険な目に遭わせたりは」
「愁。私は自分で望んで――」
「分かっております」
愁は芹を見る。
「ですが、心配なのです」
その言葉は優しいのに、なぜか胸が詰まる。
まるで柔らかな布に包まれて、そっと動きを封じられているような感覚だ。
「愁、私は大丈夫よ」
「昨日も、そう仰いました」
「え?」
「一昨日も、その前も」
芹は息を止めた。
愁の声が、ほんの少しだけ低いのだ。
「姫様はいつも大丈夫と仰います。そして私の知らないところへ行ってしまわれる」
「愁……?」
愁はすぐに微笑んだ。
「失礼しました。少し、心配が過ぎたようです」
その変化があまりにも早くて、芹は何も言えなくなった。
天也は黙って愁を見ていた。杏樹も笑っていない。
「夕暮れ前にはお戻りください」
愁はそう言って、頭を下げた。
「旦那様も心配なさいます」
「……ええ」
「必ず」
その言葉が、朝と同じように強く胸に響く。
愁は芹に笑みを向け、通りの向こうへ歩き去った。
芹はその背中を目で追う。胸の奥が、落ち着かずざわめいている。
「……芹ちゃん。今の人は家の人?」
「はい。愁です。兄のような人で……」
そう言いながら、芹は言葉に詰まる。
兄のような人。いつも優しくて、あたたかくて、誰よりも芹を理解してくれていた人。そのはずなのに。
今の愁は、少し違って見えた。
「……何か、変でしたか」
恐る恐る問いかけると、杏樹はほんの一瞬だけ天也を見た。
天也は黙ったままだ。
やがて杏樹は、いつも通りにふっと笑った。
「心配性なんだね」
「……そう、ですよね」
「うん」
その返事は優しかったが、どこかはぐらかすようでもあった。
「無理に話す必要はない」
天也が静かに口を開く。
「え?」
「気になるなら、確かめればいいだろう」
その言葉に、芹は胸を押さえた。
確かめる。それは何度も自分に言い聞かせてきたことだ。
天也のことも。杏樹のことも。そして今度は、愁のことも。
(……愁を疑うなんて)
胸が痛む。けれど、違和感は消えてくれない。
その日の巡回は、何事もなく終わった。

