都へ着く頃には、芹はその違和感を胸の奥へ押し込めていた。
詰所の門前には杏樹が立っている。今からどこかへ行こうとしていたのだろうか。
「おはよう、芹ちゃん」
「おはようございます」
「今日もいい感じに可愛いね」
「いい感じとは何でしょうか」
「うーん、子兎みたいな感じかな。追い立てて捕まえたくなっちゃう」
杏樹はくつくつと笑いながら、わあ、と両手を上げてみせる。
ここはきゃあ、と可愛らしい声を上げて逃げ出すのが正解なのだろうが、杏樹はふざけるのが好きな人だ。真面目に相手をするな、と呆れる天也の姿が思い浮かんだ芹は、風呂敷の中からおむすびを取り出し、杏樹を目掛けて投げつけた。
食べ物を投げるのは好きではないが、相手は杏樹だ。反射的に受け止め、喜んで食べてくれるに違いない。
杏樹を置いて詰所へ入ると、天也は庭にいた。年若い鬼狩りたちに稽古をつけているらしく、木刀を手に立っている。
芹は足を止め、柱の後ろに隠れるようにして、その光景を眺めた。
天也の動きは、やはり美しかった。木刀であっても、刃を持っている時と同じように無駄がない。相手の動きを読み、ほんの少し身を引き、次の瞬間には相手の首筋へ木刀の先を当てている。
若い鬼狩りが悔しそうに息を吐く。
「踏み込みが浅い。恐れて下がるなら、最初から前に出るな」
「はい!」
「恐れるなとは言わない。だが、恐れに足を取られるな」
その言葉に、芹は胸を押さえた。
(……神威様は)
きっと、ずっとそうやって戦ってきたのだ。
恐れを知らないのではない。恐れを抱えたまま、それでも前へ出る。その強さは眩しかった。
稽古が終わると、天也がこちらへ気づいた。
翡翠の瞳が芹を見る。ただそれだけで、心臓が跳ねる。
「来たか」
「はい」
芹は頭を下げてから、手に持っていた風呂敷包みを前に突き出した。
「今日は差し入れを持ってきたのです。神威様に」
「……俺に?」
「とは言っても、おむすびなのですが」
天也は木刀を立て掛け、芹から風呂敷を受け取る。器用に結び目をほどき、竹の葉に包まれたおむすびを一つ手に取ると、ふっと口元を緩めた。
「有難く頂こう。……ありがとう、芹」
やわらかな声音に、芹は思わず顔を上げる。
天也の顔には初めて見る表情が浮かんでいたが、すぐにいつもの無表情に戻ってしまった。
(……今の顔)
もっと見たいと思った。
それに気づいた芹は、慌てて目をそらした。
詰所の奥で、芹は今日も記録を見せてもらっていた。
赤い印はさらに増えている。昨夜、都の外れでも鬼が出たという。幸い死者は出なかったが、家畜が何頭か襲われたらしい。
「……どんどん近づいていますね」
芹が呟くと、天也は頷いた。
「都を囲むように出ている」
「何かを探しているのでしょうか」
「あるいは、何かに呼ばれている」
呼ばれている。その声に、芹はぞくりと身震いした。
鬼を呼ぶ存在。一体それは何なのだろうか。
「芹?」
天也の声で我に返る。
「顔色が悪いが、大丈夫か」
「少し、嫌な感じがしただけです」
「嫌な感じ?」
「説明はできないのですが……体の芯が、冷えるような」
天也の目がほんの少し鋭さを帯びる。
「いつからだ」
「今、呼ばれていると聞いた時に」
天也は少し黙った。
「縹家に伝わるという、星見の力と関係があるのか?」
「分かりません。私はその力を使えないので」
「使えないと決まったわけではないだろう」
思いがけない一言に、芹は天也に目を向けた。
「ですが、今の世に使い方を知る者はいないのです」
「縹家の力は、直系の姫に宿ると聞く。ならばお前は使い方を知らないだけだ。ないことにはならないだろう」
芹は言葉を失った。
ずっと、自分は何もできないのだと思っていた。偉大な巫女姫の末裔である縹家に生まれながら、その役目を果たせない娘なのだと。
けれど天也は使えないとは言わなかった。知らないだけだと言った。
「……神威様は」
「何だ?」
「不思議なことを仰いますね」
「そうか」
「はい」
芹は少しだけ笑った。
「でも、嬉しいです」
天也は何も言わず、ほんの少し視線を逸らした。その様子が照れているように見えて、芹の胸はまた高鳴った。
詰所の門前には杏樹が立っている。今からどこかへ行こうとしていたのだろうか。
「おはよう、芹ちゃん」
「おはようございます」
「今日もいい感じに可愛いね」
「いい感じとは何でしょうか」
「うーん、子兎みたいな感じかな。追い立てて捕まえたくなっちゃう」
杏樹はくつくつと笑いながら、わあ、と両手を上げてみせる。
ここはきゃあ、と可愛らしい声を上げて逃げ出すのが正解なのだろうが、杏樹はふざけるのが好きな人だ。真面目に相手をするな、と呆れる天也の姿が思い浮かんだ芹は、風呂敷の中からおむすびを取り出し、杏樹を目掛けて投げつけた。
食べ物を投げるのは好きではないが、相手は杏樹だ。反射的に受け止め、喜んで食べてくれるに違いない。
杏樹を置いて詰所へ入ると、天也は庭にいた。年若い鬼狩りたちに稽古をつけているらしく、木刀を手に立っている。
芹は足を止め、柱の後ろに隠れるようにして、その光景を眺めた。
天也の動きは、やはり美しかった。木刀であっても、刃を持っている時と同じように無駄がない。相手の動きを読み、ほんの少し身を引き、次の瞬間には相手の首筋へ木刀の先を当てている。
若い鬼狩りが悔しそうに息を吐く。
「踏み込みが浅い。恐れて下がるなら、最初から前に出るな」
「はい!」
「恐れるなとは言わない。だが、恐れに足を取られるな」
その言葉に、芹は胸を押さえた。
(……神威様は)
きっと、ずっとそうやって戦ってきたのだ。
恐れを知らないのではない。恐れを抱えたまま、それでも前へ出る。その強さは眩しかった。
稽古が終わると、天也がこちらへ気づいた。
翡翠の瞳が芹を見る。ただそれだけで、心臓が跳ねる。
「来たか」
「はい」
芹は頭を下げてから、手に持っていた風呂敷包みを前に突き出した。
「今日は差し入れを持ってきたのです。神威様に」
「……俺に?」
「とは言っても、おむすびなのですが」
天也は木刀を立て掛け、芹から風呂敷を受け取る。器用に結び目をほどき、竹の葉に包まれたおむすびを一つ手に取ると、ふっと口元を緩めた。
「有難く頂こう。……ありがとう、芹」
やわらかな声音に、芹は思わず顔を上げる。
天也の顔には初めて見る表情が浮かんでいたが、すぐにいつもの無表情に戻ってしまった。
(……今の顔)
もっと見たいと思った。
それに気づいた芹は、慌てて目をそらした。
詰所の奥で、芹は今日も記録を見せてもらっていた。
赤い印はさらに増えている。昨夜、都の外れでも鬼が出たという。幸い死者は出なかったが、家畜が何頭か襲われたらしい。
「……どんどん近づいていますね」
芹が呟くと、天也は頷いた。
「都を囲むように出ている」
「何かを探しているのでしょうか」
「あるいは、何かに呼ばれている」
呼ばれている。その声に、芹はぞくりと身震いした。
鬼を呼ぶ存在。一体それは何なのだろうか。
「芹?」
天也の声で我に返る。
「顔色が悪いが、大丈夫か」
「少し、嫌な感じがしただけです」
「嫌な感じ?」
「説明はできないのですが……体の芯が、冷えるような」
天也の目がほんの少し鋭さを帯びる。
「いつからだ」
「今、呼ばれていると聞いた時に」
天也は少し黙った。
「縹家に伝わるという、星見の力と関係があるのか?」
「分かりません。私はその力を使えないので」
「使えないと決まったわけではないだろう」
思いがけない一言に、芹は天也に目を向けた。
「ですが、今の世に使い方を知る者はいないのです」
「縹家の力は、直系の姫に宿ると聞く。ならばお前は使い方を知らないだけだ。ないことにはならないだろう」
芹は言葉を失った。
ずっと、自分は何もできないのだと思っていた。偉大な巫女姫の末裔である縹家に生まれながら、その役目を果たせない娘なのだと。
けれど天也は使えないとは言わなかった。知らないだけだと言った。
「……神威様は」
「何だ?」
「不思議なことを仰いますね」
「そうか」
「はい」
芹は少しだけ笑った。
「でも、嬉しいです」
天也は何も言わず、ほんの少し視線を逸らした。その様子が照れているように見えて、芹の胸はまた高鳴った。

