白銀鬼譚 -星見の巫女姫は愛をほどく-

 詰所へ通うようになって、数日が経った。
 芹は朝餉を済ませると都へ向かい、日が傾く前には家へ戻る。そんな日々を繰り返していた。
 愁は最初こそ渋い顔をしていたが、芹が必ず夕暮れ前に帰ること、そして天也か杏樹のどちらかが途中まで送ってくれることを知ると、強くは止めなくなった。
 けれど、心配そうな顔だけは変わらない。
「姫様」
 その朝も、芹が草履を履こうとしていると、背後から愁に呼び止められた。
「本日も都へ?」
 芹は振り返って頷く。
「詰所へ行くわ。鬼の記録を見せていただく約束をしているの」
「……また、神威様のところへ」
 愁の声が、ほんの少し低くなった気がした。
「愁?」
「ああ、いえ」
 愁はすぐにいつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「何でもありません。ただ、毎日のように通っておられるので」
「迷惑ではないと仰ってくださったわ」
「神威様が?」
「ええ」
 そう答えた瞬間、胸の奥が小さく跳ねた。
 天也のことを話すだけで、少し落ち着かなくなるのだ。
 昨日も、彼は芹に地図を見せてくれた。都で鬼が出た場所を一つひとつ指し示し、どのような個体だったか、どんな被害があったかを説明してくれた。
 言葉は少ないけれど、芹が首を傾げれば、天也は少しだけ言葉を足してくれる。芹が記録を読み違えれば、静かに訂正してくれる。決して甘くはないが、突き放すこともない。その距離は心地よかった。
(……心地よい、だなんて)
 自分で思って、芹は少しだけ頬を熱くする。
 疑っている相手なのに。まだ、あの夜の真実は分かっていないのに。それでも、天也を知れば知るほど、彼があの夜の下手人だとは思えなくなっていく。
 それが嬉しくて、怖かった。
「姫様」
 愁の声で、芹は我に返った。
「神威様は、お優しい方なのですか」
「優しい、というより、誠実な方だと思うわ。口数は少ないし、厳しいところもあるけれど……でも、ちゃんと見てくださる方よ」
 言いながら、芹は昨日のことを思い出す。
 記録を読みすぎて目が疲れた時、天也は何も言わずに茶を置いてくれた。詰所の庭で足元がふらついた時、すぐに腕を支えてくれた。その出来事を思い返し、芹の唇がわずかに緩む。
「……姫様は、神威様に想いを寄せておられるのですか」
「そうじゃないわ」
「ではなぜ、鬼狩りなどに近づかれるのです」
「鬼狩りなど、だなんて言わないで。私は知りたいだけなの」
 愁は黙っていた。
 てっきり、いつものように微笑んで送り出してくれると思っていたのだ。
 ただ、静かに芹を見つめている。その眼差しは、いつもより暗く見えた。
「……愁?」
 呼びかけると、愁ははっとしたように瞬きをした。
「失礼しました」
「どうしたの。顔色が悪いわ」
「少し、寝不足なだけです」
「本当に?」
「ええ」
 愁は穏やかに笑う。けれど、その笑みはどこか薄かった。
 芹は胸の奥に小さな違和感を覚えた。しかしそれを口にする前に、愁はいつものように草履を揃え、芹の荷物を差し出す。
「お気をつけて」
「……ええ」
「夕暮れ前には、お戻りください」
「分かっているわ」
「必ずです」
 その言葉は、いつもより強く響いた。
 芹は少し驚いて愁を見る。
 愁は微笑んでいた。いつもの優しい顔で。けれどなぜか、胸の奥がひやりとした。
「……必ず帰るわ」
 そう答えると、愁はようやく安心したように目を細めた。
 都へ向かう道を歩きながら、芹は何度も愁の顔を思い出していた。
(……気のせい、よね)
 愁は昔から心配性だ。芹が木に登れば下で青い顔をして待ち、川辺で遊べば衣が濡れていないか何度も確かめた。母を早くに亡くした芹にとって、愁は兄のようで、時には母のようでもあった。
 だから、心配するのは当然だ。鬼が昼にも現れるようになった今、都へ通う芹を案じるのは当たり前のこと。そう思うのに、どこか引っかかる。
 あの目。ほんの一瞬、芹を見つめた愁の目。それは、心配というには少し暗すぎた。