白銀鬼譚 -星見の巫女姫は愛をほどく-

「……でも、あの子を見捨てることはできませんでした」
 天也は黙り込んだ。当然怒られるだろう、指示を破ったのだから。しかし天也は小さく息を吐くだけだった。
「次からは、俺に言え」
「え……」
「一人で飛び出さないでくれ」
 それは叱責だった。けれど、拒絶ではなかった。
 芹は胸の奥が熱くなるのを感じ、きゅっと唇を引き結んだ。
「……はい」
 杏樹が横からひょいと顔を出し、困ったように笑った。
「芹ちゃん、なかなか無茶するね」
「すみません……」
「いや、責めてないよ。ちょっと驚いただけ。そういうところもあるんだなって」
「そういうところ?」
「怖いのに、誰かのためなら動けるところ」
 その言葉に、芹は目を伏せる。
 自分では、そんな立派なものではないと思う。動かずにはいられなかっただけだ。
 杏樹はどこか眩しそうに芹を見ていた。
「……変わらないな」
 小さく呟かれたその声に、芹は静かに顔を上げた。
「今、何と?」
「何でもない」
 杏樹はすぐに笑った。
 またはぐらかされた気がするが、今の言葉は確かに耳に届いた。
(……やっぱり)
 杏樹は何かを知っている。それも芹自身のことを。問い詰めたい気持ちはあったが、天也がそばにいる今は胸の内に押し込んだ。
 天也は倒れた鬼をじっと見つめている。その横顔は険しい。
「……二体同時に昼の市へ出るのは異常だ」
「だよね」
 杏樹も真面目な顔になる。
「しかも、あれ。逃げてきた感じじゃなかった」
「誘導されたか」
「かもね」
 誘導――誰が鬼を操っているのか。
 芹の背筋を冷たい感覚が駆け抜けた。
 天也が静かに芹へと視線を向ける。
「今日はもう帰れ」
 有無を言わせない声だが、それは命令ではなく心配のようだ。
「送ろう」
「いえ、そんな」
「何かあってからでは遅いだろう」
 拒む余地はなさそうだ。
 うう、と困っていると、杏樹がにこにこと笑う。
「よかったね、芹ちゃん」
「杏樹さま」
「俺は後処理してくるよ。天也、ちゃんと送ってあげてね」
「分かっている」
「途中で無言になりすぎないようにね。寄り道なんてしちゃ駄目だよ。変なところに連れ込むのも駄目だからね」
「――杏樹」
「ははっ、面白い」
 杏樹は軽く手を振り、動かなくなった鬼の方へと戻っていった。

 芹は天也と二人で歩き始めた。
 都の喧騒が少しずつ戻ってくる中、芹の耳には自分の心臓の音だけが響いていた。二人きりだと意識した途端、どうしたらいいのか分からなくなるのだ。
 隣を歩く天也は何も言わず、ただ芹の歩幅に合わせて歩いている。そのことに気づいた瞬間、胸がまた高鳴るのを感じた。
(……歩く速度を合わせてくれている)
 最初は偶然かと思ったが、違った。芹が足を止めれば天也も止まり、歩き出せばまた静かに並んで歩く。言葉もなく、それが当たり前のように。
「……神威様」
「何だ」
「怒っておられますか」
「そうだな。だが、助けようとしたことは責めない」
 芹は顔を上げた。
 天也は前を見据えたまま口を開いた。
「命を救おうとすることは、間違いではない」
「……はい」
「だが、お前が死んでは意味がないだろう」
 お前が死ねば――その言葉が妙に深く突き刺さる。
 天也は知らない。芹が一度死んだことを。それでも、その言葉はあまりにも痛かった。
「……気をつけます」
「そうしてくれ」
 沈黙が落ちる。けれど、不思議と苦しくはなかった。
 茶屋で向かい合っていた時とは違い、 今は天也の横にいて、少し前を歩く背中を見ている。その距離が、妙に安心をくれた。
(……怖いのに)
 この人のそばにいると安心する――その矛盾が胸を締めつける。
「芹。お前はなぜ、鬼のことを知りたがる」
 芹は足を止め、開きかけた唇を閉ざした。答えなければならない。けれど、どこまで言えるだろう。
「……失いたくないものがあるからです」
「失いたくないもの」
「はい」
 母のぶんまで目いっぱいの愛情を注いでくれた父。一番の理解者であり兄のようでもある愁。五百年の歴史を持つ家。そして、まだ名前のつかないこの感情。
「何も知らないままでは、きっと守れないと思うのです」
 天也は黙って耳を傾けていた。
「私は非力です。鬼を斬ることもできません。星見の力も使えません。けれど、知らないままでいることだけは、もう嫌なのです」
 言葉にした瞬間、胸が少し震えた。
 それは天也への答えであり、同時に自分自身への答えでもあった。
 天也はしばらく黙っていたが、やがて静かに口を開いた。
「弱いからと、何もできないわけではない。大事なのは、それでも己にできることを知っているかだ」
 天也は前を向く。
「お前は今日、子どもを助けただろう」
「でも、神威様がいなければ」
「それでも、動いたのはお前だ」
 胸の奥がじんわりと熱くなっていくのを感じる。天也の声は相変わらず淡々としていたが、その言葉は何よりも嬉しかった。
「……ありがとうございます」
 天也は何も答えなかった。

 都の門を出る頃には、日が少し傾き始めていた。
 春の夕暮れが、道を淡い金色に染めている。風が吹き、芹の髪を揺らした。
 その時、足元の石に躓きかけた。
「あっ」
 身体が前へ傾いたその瞬間、転倒すると思った刹那に腕を取られた。温もりのある手と確かな力強さが伝わる。天也が芹の身体をしっかりと支えていた。
「大丈夫か」
「は、はい」
 近い。想像していたよりも、はるかに近い距離だった。見上げれば、翡翠色の瞳がすぐ目の前にある。
 息が詰まる。手首に触れる指先の熱が、異様なほど鮮明に伝わってくる。
 あの夜、手の甲に口づけられた瞬間が、不意に脳裏をよぎった。
 幾久しく、よろしく頼む――低く響く声。柔らかな温もり。胸の鼓動は、抑えようもなく高鳴っていた。
(……だめ)
 芹は慌てて手を引いた。
「す、すみません」
「足元を見ろ」
「はい……」
 叱られているのに、胸がうるさい。天也の手の感触がまだ残っている。
 怖い。怖いはずなのに、どうして、こんなにも。
 家の近くまで来たところで、天也は足を止めた。鬼狩りの人たちはその職務柄、都の地理に詳しいのだろうが――芹の家の場所を知っていたとは。
「ここでいいか」
「はい。ありがとうございました」
 芹は深く頭を下げる。
「神威様」
「何だ」
 芹はほんの少し迷ったが、結局口にせずにはいられなかった。
「今日、私……少しだけ分かりました」
「何をだ?」
「怖くても、足を止めなければいいという意味を」
 天也の瞳が、わずかに揺れた気がした。
「まだ怖いです。鬼も……他にも、色々と」
 ――あなたのことも。その言葉は胸の奥にしまった。
「でも、見たいと思いました。知りたいと思いました」
「そうか」
 芹は顔を上げる。
「だから、また都へ行きます」
 天也はしばらく沈黙を保っていたが、ふっと肩を落とすと口を開いた。
「ならば、明日も詰所へ来い」
「よろしいのですか?」
「俺の目の届かない場所を勝手に歩かれ、鬼に襲われるよりはいい」
 それは実務的な理由に過ぎなかった。にもかかわらず、芹の胸には確かな喜びが広がっていた。
「ありがとうございます」
 天也は頷き、背を向ける。その背中を見送りながら、芹は胸元をそっと押さえた。
 疑いは消えていない。あの夜の恐怖も、まだ残っている。けれど今日、確かに何かが変わった。
 神威天也は、人を守る人だ。その手は、奪うためだけにあるわけではない。その刀は、殺すためだけに振るわれるわけではない。
(……私は)
 この人を疑うなら、同じだけこの人を知らなければならないと、そう思った。
 夕暮れの風が吹く。
 芹は天也の背中が見えなくなるまで、ずっとそこに立っていた。