白銀鬼譚 -星見の巫女姫は愛をほどく-

「神威様!」
 腰に剣を佩いた男が転がるように駆け込んでくる。
「南の市で鬼が出ました! 子どもが逃げ遅れたとの報せが!」
 辺りの空気は一変し、天也がすぐに姿を現した。
「杏樹」
「分かってるよ」
 二人は目を見合わせ、それから動き出す。
 芹は思わず一歩踏み出した。
「私も――」
「駄目だ。ここにいろ」
「でも」
「危険だ」
 分かっていた。それでも足は止まらない。
 逃げ遅れた子ども――その言葉が胸に突き刺さる。
 芹は一度、何もできずに死んだ。今だってきっと何もできないだろうけれど、目をそらしたままではいられないのだ。
「……お願いします。邪魔はいたしません。指示には従います。だから、連れて行ってください」
「なぜそこまで……」
「分かりません。でも、行かなければならない気がするのです」
 天也はしばらく芹をじっと見つめていた。その目は鋭く、真っ直ぐで、逃げ場を与えない。やがて、ぽつりと言葉を発した。
「俺から離れるな」
 胸が、大きく鳴る。
「はい」
 芹はしゃんと顔を上げ、駆け出した天也と杏樹の後に続いた。

 南の市へ向かう道は、人の流れに逆らっていた。逃げ惑う人々の間を、天也と杏樹が駆け抜け、芹も必死にその背中を追う。息が上がり、足ももつれそうになるが、それでも止まらない。
 角を曲がった瞬間、悲鳴が響いた。市の一角は壊れ、籠や野菜が散乱している。その中心に、黒い影が立っていた。
 鬼だ。昨日のものよりさらに大きく、背は曲がり、腕は異様に長く、爪で地面を引っかいている。その足元には、小さな子どもが蹲っていた。
(……っ)
 芹は息を呑む。
 鬼が子どもに顔を向け、天也が駆け出す。だがその瞬間、別の方向からもう一つの影が飛び出した。
「二体か」
「天也、そっちは任せたよ」
 杏樹が一体を引きつけ、天也が子どもの方へ向かう。
 芹はその場に立ち尽くした。恐怖で足が動かないのだ。
 だがしかし、目の先では子どもが泣いている。小さな手が、必死に地面を掴んでいる。
(……動いて)
 自分に言い聞かせる。
(動いて、お願い)
 天也が鬼の爪を受け止め、火花が散った。その隙に、子どもがこちらへ必死に這って逃げようとしている。だが足を怪我しているのか、動きがぎこちない。
 気づけば芹は走り出していた。
「芹!」
 天也の声が聞こえたが、止まれなかった。子どもの元へ駆け寄り、震える小さな身体を抱き起こす。
「大丈夫、立てる?」
「う、うえ……」
「大丈夫よ。こっちへ」
 自分の声は情けないくらい震えていたが、子どもを抱える腕に力を込めた。
 その瞬間、背後で唸り声がした。
 振り返ると、鬼がこちらを見ていた。天也が別の鬼の攻撃を受け止めた隙を突いたのだろう。
 黒い影が、芹へ向かってきている。
(……死ぬ)
 身体が凍りつき、あの夜の感覚が蘇る。
 逃げられない。しかも今度は腕の中に子どもがいる。守るべき存在は自分だけではないのだ。
 (嫌だ。この子を死なせたくない)
 芹は必死に子どもを抱きしめる。
 迫り来る爪を前に、ごくりと喉を鳴らした瞬間、翡翠色の光が視界を切り裂いた。天也が芹と鬼の間に割って入り、刀で爪を弾いたのだ。
「下がれと言っただろう」
 亜麻色の髪が、芹の頬をかすめるほどの距離で揺れている。
 天也の声は地を這うような低さで、怒っているも同然だったが、その怒りは芹を責めるものではなかった。失うことを恐れているような響きだった。
「ご、ごめんなさい」
「謝るのは後だ」
 天也は鬼を押し返し、さらに一歩前へ出る。
「その子を連れて離れろ」
「はい」
 芹は子どもを抱えて必死に後ろへ下がった。足が震えているが、それでも今度は動いた。
 近くの店先に子どもを預けると、店主らしい男が泣きながら礼を言う。返事の代わりに子どもの頭を撫で、後ろを振り返った。
 天也は鬼と刃を交え、杏樹は術式で応戦しているようだ。目にも留まらぬ速さで次々と剣技を繰り出す天也の姿は美しく、揺るがず退かず、鬼の動きの芯を断っていく。二人の動きは対照的なのに、不思議と噛み合っていた。
「杏樹」
「はいよ」
 杏樹が鬼の足を止める。天也が踏み込み、翡翠の刀が春の光を浴びて煌めいた。
 一閃、鬼の身体が崩れ落ちる。続けて杏樹の術がもう一体を仕留め、黒い血が石畳に散った。辺りには静寂が戻り、芹はその場で座り込みそうになるのを必死で堪えた。
 怖かった。本当に怖かった。でも、子どもは無事だ。それだけで膝から力が抜けそうになった。
「芹」
 天也の声が聞こえ、芹はふらりと顔を上げる。
 天也がゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。翡翠色の瞳が、まっすぐに芹を見つめていた。
「怪我はないか」
 芹は首を振った。
「ありません」
 天也は芹の顔を見つめ、それから腕や肩に視線を落とした。傷がないことを確かめているのだと分かる。その丁寧さに、胸が詰まった。
「……すみませんでした。勝手に動いて」
「危険だった。一歩間違えれば、死んでいたかもしれない」
 その言葉に、思わず息が止まった。
 ――死。
 あまりにも身近に感じる響きだ。けれど芹はもう、それを知っていた。