「百舌鳥殿」
通りかかった男が杏樹に頭を下げる。
「神威殿なら奥です」
「ありがとー」
杏樹は慣れた様子で進んでいく。
芹はその後ろを歩きながら、周囲を見回した。
鬼狩り。彼らは皆、鬼と戦うためにここにいる。昨日まで、芹にとって鬼狩りとは遠い存在だった。
神威家。当代一の剣士。都の噂。それらはどこか物語の中のもののようで、自分の生活とは離れていた。
けれど今は違う。芹は鬼に襲われ、天也に救われた。
「天也」
杏樹が声をかけると、奥の部屋で書簡を読んでいた天也が顔を上げた。
詰所の中にいる天也は、茶屋にいた時よりも鋭く見えた。身にまとう静けさは変わらないが、その静けさの下に張り詰めたものがある。
「連れてきたよ」
杏樹が言うと、天也が芹に視線を移した。
「……来たのか」
芹は頭を下げた。
「お邪魔でなければ、少しだけ見学させていただきたくて」
「見ていて楽しいものではないが」
「楽しいものを見に来たわけではありません」
思ったよりもはっきりとした声が出た。
天也の瞳が、かすかに揺れる。
芹は手を握りしめた。
「私は、知らなければならないのです」
「……何をだ?」
芹は言葉に詰まる。自分が一度死んだこと、あの夜のこと、そしてあなたを疑っていること――そんなことは言えるはずがない。けれど、すべてを隠したままでは何も伝わらない。
「……鬼のことを。そして、今この国で何が起きているのかを」
天也は無言のまま、じっと芹を見据えていた。
重く長い沈黙が二人の間に流れる。
芹はその視線を受け止め、決して逸らそうとはしなかった。
胸の奥に恐怖が広がっていく。それでも、逃げるように視線を外すことはしたくなかった。
やがて天也は、深くも浅くもない、小さなため息を静かに吐き出した。
「奥の記録だけだ」
「え」
「現場には出ない。危険な場所には近づかない。俺か杏樹の指示には従うこと。それが守れないなら、帰れ」
厳しい言葉だった。けれど、その中には確かな心配が感じられた。
芹は深く頷いた。
「守ります」
天也はもう一度芹を見て、それから書簡を畳んだ。
「ならば来い」
案内されたのは、記録を保管する部屋だった。
棚には巻物や書付が並び、最近出現した鬼の場所や生態、被害の有無などが記されている。
天也が一枚の地図を広げた。都と周辺の村々が描かれているその上には、赤い印がいくつも付けられていた。
「これが、ここ十日の出現地点だ」
芹は息を呑んだ。赤い印が予想以上に多いのだ。
「……こんなに」
「以前は山際や森沿いが多かったが、近頃は人の多い場所へ出る。昼夜問わずな」
「夜だけではなく、昼にも」
「そうだ」
芹は地図を見つめた。赤い点が、まるで何かを囲むように散っている。
その中心にあるのは――。
「都……?」
呟くと、杏樹が目を細めた。
「鋭いね」
「いえ、ただ……そう見えただけで」
「そう見えるなら、たぶんそうなんだよ」
天也は地図から顔を上げない。
「原因はまだ分からない」
「鬼が、都へ集まっているということですか」
「あるいは、追われて逃げ出した先か」
「何に……?」
天也は口を開かなかった。答えられないのだろう。その沈黙が、何よりも不気味だった。
しばらくの間記録を見せてもらった後、芹は中庭へ出る。胸の奥が重い。知りたいと思って来たはずなのに、知れば知るほど分からないことばかりが増えていく。都に集まる鬼。昼間に現れる鬼。逃げるように暴れ回る鬼。その異変と、芹の死に戻りは関係しているのだろうか。
(……星見)
縹家に伝わる力。けれど芹は、その使い方を知らない。
何も知らない。知らないまま、一度死んだ。知らないままでは、きっとまた奪われる。
「芹ちゃん」
杏樹が隣に並んだ。
「疲れた?」
「……少し」
「だよね。最初から重いの見せられたし」
「杏樹さまは、平気なのですか」
「何が?」
「こういうものを見ることに」
杏樹はふと、空を見上げた。
「平気じゃないよ。でも、平気なふりは得意」
そう言って笑った。その笑顔は、やけに軽い。軽すぎて、むしろ痛々しい。
「……どうして」
「その方が楽だから」
「誰がですか?」
問いかけると、杏樹は芹を見た。一瞬だけ、笑みが消える。
「周りが」
それは簡潔な返答であった。
芹は言葉を失い、口を閉ざしたまま沈黙した。
しかし杏樹は間もなく穏やかな笑みを取り戻した。
「芹ちゃんはさ、天也のこと、怖い?」
「……怖い、です。けど、気になります」
「うん」
「知りたいと思います」
「うん」
「けれど、知ってはいけないような気もします」
「どうして?」
どうして。それは――知れば、疑えなくなるかもしれないからだ。
「……分かりません」
そう答えるしかなかった。
杏樹はしばらく黙っていたが、その後、静かに口を開いた。
「知った方がいいよ」
芹は顔を上げる。
杏樹は笑っていなかった。
「疑うなら、ちゃんと知った方がいい。信じたいなら、なおさらね」
その言葉に、胸がざわめいた。
まるで、芹の心の奥底をそのまま見透かされたようだった。
「杏樹さまは……」
「うん?」
「やっぱり、何かご存じなのではありませんか」
杏樹はぱちりと目を瞬かせ、それからおどけたように笑った。
「さあね」
「またそれですか」
「便利なんだよ、この言葉」
「ずるいです」
「よく言われる」
杏樹は肩をすくめた。けれどその横顔は、どこか寂しげだった。
その時、詰所の門の方が騒がしくなった。
通りかかった男が杏樹に頭を下げる。
「神威殿なら奥です」
「ありがとー」
杏樹は慣れた様子で進んでいく。
芹はその後ろを歩きながら、周囲を見回した。
鬼狩り。彼らは皆、鬼と戦うためにここにいる。昨日まで、芹にとって鬼狩りとは遠い存在だった。
神威家。当代一の剣士。都の噂。それらはどこか物語の中のもののようで、自分の生活とは離れていた。
けれど今は違う。芹は鬼に襲われ、天也に救われた。
「天也」
杏樹が声をかけると、奥の部屋で書簡を読んでいた天也が顔を上げた。
詰所の中にいる天也は、茶屋にいた時よりも鋭く見えた。身にまとう静けさは変わらないが、その静けさの下に張り詰めたものがある。
「連れてきたよ」
杏樹が言うと、天也が芹に視線を移した。
「……来たのか」
芹は頭を下げた。
「お邪魔でなければ、少しだけ見学させていただきたくて」
「見ていて楽しいものではないが」
「楽しいものを見に来たわけではありません」
思ったよりもはっきりとした声が出た。
天也の瞳が、かすかに揺れる。
芹は手を握りしめた。
「私は、知らなければならないのです」
「……何をだ?」
芹は言葉に詰まる。自分が一度死んだこと、あの夜のこと、そしてあなたを疑っていること――そんなことは言えるはずがない。けれど、すべてを隠したままでは何も伝わらない。
「……鬼のことを。そして、今この国で何が起きているのかを」
天也は無言のまま、じっと芹を見据えていた。
重く長い沈黙が二人の間に流れる。
芹はその視線を受け止め、決して逸らそうとはしなかった。
胸の奥に恐怖が広がっていく。それでも、逃げるように視線を外すことはしたくなかった。
やがて天也は、深くも浅くもない、小さなため息を静かに吐き出した。
「奥の記録だけだ」
「え」
「現場には出ない。危険な場所には近づかない。俺か杏樹の指示には従うこと。それが守れないなら、帰れ」
厳しい言葉だった。けれど、その中には確かな心配が感じられた。
芹は深く頷いた。
「守ります」
天也はもう一度芹を見て、それから書簡を畳んだ。
「ならば来い」
案内されたのは、記録を保管する部屋だった。
棚には巻物や書付が並び、最近出現した鬼の場所や生態、被害の有無などが記されている。
天也が一枚の地図を広げた。都と周辺の村々が描かれているその上には、赤い印がいくつも付けられていた。
「これが、ここ十日の出現地点だ」
芹は息を呑んだ。赤い印が予想以上に多いのだ。
「……こんなに」
「以前は山際や森沿いが多かったが、近頃は人の多い場所へ出る。昼夜問わずな」
「夜だけではなく、昼にも」
「そうだ」
芹は地図を見つめた。赤い点が、まるで何かを囲むように散っている。
その中心にあるのは――。
「都……?」
呟くと、杏樹が目を細めた。
「鋭いね」
「いえ、ただ……そう見えただけで」
「そう見えるなら、たぶんそうなんだよ」
天也は地図から顔を上げない。
「原因はまだ分からない」
「鬼が、都へ集まっているということですか」
「あるいは、追われて逃げ出した先か」
「何に……?」
天也は口を開かなかった。答えられないのだろう。その沈黙が、何よりも不気味だった。
しばらくの間記録を見せてもらった後、芹は中庭へ出る。胸の奥が重い。知りたいと思って来たはずなのに、知れば知るほど分からないことばかりが増えていく。都に集まる鬼。昼間に現れる鬼。逃げるように暴れ回る鬼。その異変と、芹の死に戻りは関係しているのだろうか。
(……星見)
縹家に伝わる力。けれど芹は、その使い方を知らない。
何も知らない。知らないまま、一度死んだ。知らないままでは、きっとまた奪われる。
「芹ちゃん」
杏樹が隣に並んだ。
「疲れた?」
「……少し」
「だよね。最初から重いの見せられたし」
「杏樹さまは、平気なのですか」
「何が?」
「こういうものを見ることに」
杏樹はふと、空を見上げた。
「平気じゃないよ。でも、平気なふりは得意」
そう言って笑った。その笑顔は、やけに軽い。軽すぎて、むしろ痛々しい。
「……どうして」
「その方が楽だから」
「誰がですか?」
問いかけると、杏樹は芹を見た。一瞬だけ、笑みが消える。
「周りが」
それは簡潔な返答であった。
芹は言葉を失い、口を閉ざしたまま沈黙した。
しかし杏樹は間もなく穏やかな笑みを取り戻した。
「芹ちゃんはさ、天也のこと、怖い?」
「……怖い、です。けど、気になります」
「うん」
「知りたいと思います」
「うん」
「けれど、知ってはいけないような気もします」
「どうして?」
どうして。それは――知れば、疑えなくなるかもしれないからだ。
「……分かりません」
そう答えるしかなかった。
杏樹はしばらく黙っていたが、その後、静かに口を開いた。
「知った方がいいよ」
芹は顔を上げる。
杏樹は笑っていなかった。
「疑うなら、ちゃんと知った方がいい。信じたいなら、なおさらね」
その言葉に、胸がざわめいた。
まるで、芹の心の奥底をそのまま見透かされたようだった。
「杏樹さまは……」
「うん?」
「やっぱり、何かご存じなのではありませんか」
杏樹はぱちりと目を瞬かせ、それからおどけたように笑った。
「さあね」
「またそれですか」
「便利なんだよ、この言葉」
「ずるいです」
「よく言われる」
杏樹は肩をすくめた。けれどその横顔は、どこか寂しげだった。
その時、詰所の門の方が騒がしくなった。

