白銀鬼譚 -星見の巫女姫は愛をほどく-

 翌朝、芹はいつもより早く目を覚ました。
 布団の中でしばらく天井を見つめていたが、眠気は戻ってこなかった。
(……また、お会いしてもよろしいですか)
 昨日、自分が口にした言葉を思い出して、芹は布団の中で顔を覆った。
 どうしてあんなことを言ってしまったのだろう。
 もちろん、理由はある。天也のことをもっと知りたいと思ったからだ。
 あの夜の真実を確かめるために。自分を殺した者が誰なのか見極めるために。そして、もう一度同じ結末へ辿り着かないために。
 けれど、それだけだっただろうか。
(……違う)
 芹は小さく息を吐く。
 怖い。それは今も変わらない。天也を見るたび、翡翠の刀が脳裏をよぎる。白い装束に散った血の色も、転がった視界も、首を落とされた瞬間の冷たさも、忘れられない。
 けれど同じくらい、昨日見た彼の姿も忘れられなかった。鬼の前に立つ背中。恐れても足を止めなければいい、と静かに告げた声。芹の恐怖を見抜いて、それでも無理に踏み込まなかった眼差し。
(……本当に、あの人が?) 
 最初はただ、疑いだった。
 けれど今は、違う。疑いたいのに、疑いきれない。信じたいのに、信じきれない。その間で、心が揺れている。
「姫様、お目覚めですか?」
 襖の向こうから声がした。聞き慣れた優しい声に、芹は身体を起こす。
「え、ええ」
 慌てて返事をすると、襖がすっと開いた。
 愁が盆を手に立っている。朝餉を運んできてくれたのだろう。湯気の立つ汁椀と、小さな焼き魚の香りが部屋に流れ込んできた。
「昨夜はよく眠れましたか」
「……ええ」
 嘘だった。何度も目が覚めた。夢の中で、翡翠の刀が何度も光った。けれど、その刃を握っていたのが誰だったのかは、最後まで見えなかった。
 愁は芹の顔をじっと見つめている。
「目の下に隈ができています」
「そう?」
「はい。あと、返事が遅い時は大抵何か隠しておられます」
「……愁は鋭いわね」
「姫様が分かりやすいのです」
 少し困ったように笑われて、芹は言葉に詰まった。
 このやり取りが、たまらなく懐かしい。一年前の世界では、もう二度と交わせないと思っていた言葉。それが今、当たり前のように目の前にある。
 嬉しい。けれど、同時に怖い。この時間も、また壊れてしまうのではないかと思ってしまうから。
「……今日も都へ?」
 芹は箸を取る手を止めた。 
「どうして分かるの」
「姫様のお顔に書いてあります」
「そんなに?」
「はい。行くと決めた時の顔です」
 愁は穏やかに言う。
 芹は少しだけ視線を落とした。
「……行きたいの」
「危険です」
「分かっているわ」
「分かっておられる方は、昨日のように朝餉も食べずに飛び出したりしません」
「それは……ごめんなさい」
 素直に謝ると、愁は小さく息を吐いた。怒っているというより、心配している顔だった。
「最近、都では鬼が昼にも出ると聞きます。ご用があるなら私が代わりに参ります」
「駄目」
 思ったより強い声が出た。愁が驚いたように目を瞬かせている。
「……駄目なの。これは、私が行かなければならないことだから」
「姫様」
「お願い、愁」
 芹は愁を見上げた。
「止めないで」
 愁はしばらく黙っていた。静かな眼差しで、芹を見ている。
 その目が、ふと翳ったように見えた。
「……姫様は私の知らないところへ、行ってしまわれるのですね」
「そんなこと……」
 ない、と言いかけて、言葉が止まる。本当にそう言い切れるだろうか。芹はもう、愁の知らないものを知っている。
 自分が一度死んだこと。天也と婚姻を結ぶ未来。愁が一度目の世界では死んでいたこと。そしてこの先、何かが起きるという予感。それらを何一つ告げられないまま、芹は都へ向かおうとしている。
「……ごめんなさい」
 小さく謝ると、愁は微笑んだ。
「謝ることはございません」
 その笑みは優しいけれど、どこか寂しげだった。
「ただ、どうかお気をつけて」
「ええ」
「そして、帰ってきてください」
 帰ってきて。その言葉が、胸の奥に深く沈んだ。
 一年前の世界では、愁が帰ってこなかった。今度は芹が帰る番なのだ。
「必ず帰るわ」
 芹はそう言って、できるだけ明るく笑った。
 愁はまだ少し心配そうだったが、それ以上は何も言わなかった。

 朝餉を済ませ、身支度を整える。
 今日は動きやすい小袖にした。裾を少し短く整え、髪も邪魔にならないように結う。鏡の中の自分は、昨日より強張った顔をしていた。
(……怖がっていても、足を止めなければいい)
 天也の言葉を胸の中で繰り返しながら、芹は小さく息を吸い、家を出た。