白銀鬼譚 -星見の巫女姫は愛をほどく-

(……動けない)
 鬼の濁った目が、こちらを向く。
 狙われている。そう思った瞬間、身体の奥が凍りついた。
 逃げなければ。けれど足が動かない。
 次の瞬間、鬼が地を蹴った。
「下がれ」
 天也が芹を庇うように立ち、視界のすべてを遮る。
 亜麻色の髪が風に靡き、翡翠の刃が光を切り裂く。
 天也の動きは速かった。けれど、ただ速いだけではない。振り下ろされる爪をするりと躱し、踏み込み、刃を返す。その一つ一つが無駄なく繋がっている。
 春の光を受けた刀身が、翡翠色にきらめいた。
(……あの色)
 自分を斬ったかもしれない色。けれど今、その刃は芹を守るために振るわれている。
 鬼が唸り声を上げ、再び襲いかかる。
 天也は退かない。一歩前へ出るその背中は、とても頼もしかった。
 怖いのに、疑っているのに、目が逸らせない。
「さてと、やりますか」
 芹の隣にいた杏樹も動き出した。懐から白い人型《ひとがた》の紙を取り出し、それを口元に当てながら何かを唱える。すると、鬼が金縛りに遭ったように動かなくなった。
「天也」
 杏樹の合図で天也が踏み込み、翡翠の刀を振り下ろす。その一閃で鬼の身体が大きく傾き、黒い血が地面に散る。どさりと重い音を立てて、鬼は崩れ落ちた。
 静寂が戻る。
 風が、遅れて通り抜けた。
 芹は天也の背中を見つめていた。
 息は浅く、足もまだ震えている。けれど、目は逸らさなかった。
(……この人は)
 本当に、芹を殺した人なのだろうか。
 天也が刀を払い、赤黒い雫が地面に落ちる。その仕草はあの夜の断片と重なりかけて、けれど決定的に違っていた。
 あの夜に感じたのは、圧倒的な死の気配だった。けれど今、目の前の彼から感じるのは――守るための静けさだ。
「怪我はないか」
 芹はゆっくりと首を振る。
「……ありません」
「そうか」
 天也は安堵したように頷くと、刀を鞘に収めた。その横から、杏樹がひょいと顔を出す。
「芹ちゃん、よく逃げなかったね」
「……足が、すくんだだけです」
「それでも、目を逸らしてなかった」
 杏樹の声が、少しだけ優しかった。
 芹は俯き、手のひらに滲んでいる汗を見つめる。
 怖かった。今も怖い。けれど、確かに見たのだ。
 天也が鬼を斬る姿を。杏樹が天也を支える姿を。翡翠の刀が、人を守るために振るわれるところを。
(……もっと、知りたい)
 胸の奥で、はっきりとその言葉が形になる。
 天也のことを。杏樹のことを。鬼のことを。星見のことを。そして、あの夜の真実を。
 逃げてはいけない。知らないままでは、また同じ場所へ辿り着いてしまう。
 春の風が吹いた。茶屋の暖簾が揺れ、その向こうから甘い団子の香りがまだ漂っていた。
 つい先ほどまで、三人で座っていた場所。穏やかで、少しだけ可笑しくて、ほんの少し胸が温かくなる時間。
 それが一瞬で壊れたのだ。鬼という悍ましい生き物の存在によって。
(……確かめなきゃ)
 天也がどういう人物なのか。杏樹が何を知っているのか。そして、自分が何のために戻ってきたのか。
 芹が顔を上げると、天也の翡翠の瞳と視線が交わった。
「……神威様」
「どうした」
 芹は小さく息を吸った。
 まだ、すべてを聞く勇気はない。
 あなたは私を殺しましたか、と問うことはできない。
 だけど──。
「また……お会いしたいのですが、いいでしょうか」
 言った瞬間、自分の言葉に驚いた。
 杏樹が目を丸くしている。天也も軽く目を見開いている。
 芹の胸が、どくどくと鳴る。
 拒まれたらどうしよう。不審に思われたらどうしよう。遅れてやってくる不安に、胸の奥がきゅっと縮こまる。
 けれど、目を逸らすことだけはできなかった。
 芹は息を詰めたまま、天也を見つめる。
 翡翠の瞳が、まっすぐにこちらを捉えていた。澄んでいるのに、奥行きがある。覗き込めば、底まで引きずり込まれてしまいそうで――それでも、目を離したくないと思ってしまう。
 天也はすぐには答えなかった。
 ただ、見ている。何かを測るように。あるいは確かめるように。その沈黙が、じわりと時間を引き延ばす。
 長いけれど、不思議と耐えられないものではなかった。
(……ああ)
 逃げていないのは、自分だけではないのだと。
 そんなふうに思った、次の瞬間だった。
「都に来るなら、一人で歩くな」
「え……」
「今日のようなことが、また起こるかもしれない」
 それは、答えになっているようで、なっていない。けれど芹には、拒絶ではないと分かった。
 胸の奥がふわりと温かくなっていく。
「……はい」
 小さく頷くと、杏樹が隣で嬉しそうに笑った。
「じゃあ、次もお茶だね」
「杏樹」
「いいじゃん。芹ちゃん、団子まだ一本しか食べてないし」
「そういう問題ではない」
「そういう問題だよ。食べられる時に食べておかないと。人生って、いつ何が起きるか分からないものだからさ」
 杏樹の最後の一言がなぜか胸に引っかかった。
 食べられる時に、食べておかないと。まるで、この先そんな当たり前の時間が失われることを知っているような口ぶりだ。
 杏樹は笑っていた。何も知らない顔で、何でも知っているような顔で。
(……この人も)
 何かを隠している。けれど今は、問いただせない。問いただしたところで、きっとはぐらかされるだけだろう。
 芹はもう一度天也を見た。彼は倒れた鬼へ視線を落とし、何かを考えているようだった。
 その横顔は美しいが、ただ美しいだけではない。傷つくことも、恐れることも知っている人の顔だ。
(……私は)
 まだ、この人を疑っている。それは変わらないが、同時にもっと知りたいと思っている。その気持ちも、もう否定できなかった。
 春の都に、少しずつ喧騒が戻ってくる。逃げていた人々が恐る恐る顔を出し、鬼が倒れているのを見て安堵の息を漏らす。
 天也の名を呼ぶ声がどこかから上がった。当代一の鬼狩り。都一の美丈夫。
 芹の中では、噂の中でしか知らなかった人で、未来で夫となるはずだった人で──芹を殺したかもしれない人。
 いくつもの顔が重なって、まだ一つにはならない。けれど今日、芹はひとつだけ知った。
 神威天也は、人を守る人だ。その事実だけは確かだった。
 だからこそ、真実を知らなければならない。
 あの夜、この人の屋敷で何が起きたのか。誰が、何のために芹を斬ったのか。そしてなぜ、自分は一年前へ戻ったのか。
 芹はそっと左肩に手を添える。
 そこに傷はない。けれど記憶がある。恐怖も、痛みも、まだ消えてはいない。
 でも今はそれだけではなかった。胸の奥に、小さな熱が灯っているのを感じる。恐れとも疑いとも違う、まだ名前のつかない、けれど確かにそこにある感情。
(……もっと、知りたい)
 その気持ちだけは、もう止められなかった。