白銀鬼譚 -星見の巫女姫は愛をほどく-

(……この人は)
 やはり、ただ美しいだけの人ではない。
 鬼を狩る剣士なのだ。人の命を守るために、刃を振るう人。それを思った時、ふとあの夜の白い装束が蘇った。
 あの部屋へ来るはずだったのは天也だった。けれど、自分は顔を見ていない。
 見たのは、白い装束と翡翠の刀だけ。
(……もし)
 もし、あれが天也ではなかったとしたら。
 そんな考えが、初めてはっきりと胸に浮かんだ。
 けれど、すぐに打ち消す。違うと決まったわけではない。疑いを解くにはまだ早い。
 ──だけど。
(……本当に、この人が?)
 天也が人を殺すかどうかではなく、この人が自分を殺す理由があるのか、その答えが見つからないのだ。
 女将が新しい茶を注ぎに来て、場の空気が少し和らいだ。
 杏樹は何事もなかったかのように団子をもう一本頼み、天也は無言でそれを見ている。
「天也も食べる?」
「結構だ」
「一口も食べてないじゃん。食べないと強くなれないよ」
「この世で団子を食って強くなれるのはお前くらいだ」
「じゃあ、そう遠くないうちに俺が最強になっちゃうね」
 杏樹と天也のやり取りを見て、芹はまた少し笑ってしまった。さっきよりも自然に。それに気づいた天也が芹を見る。
 翡翠の瞳は、怖い。けれど目を逸らしたくない。
「……芹」
 不意に名を呼ばれ、芹は息を止めた。
「はい」
「都には、よく来るのか」
 思いがけない問いだった。
「……あまり、頻繁には」
 芹は少し考えながら答える。
「家の用で買い物に来ることはありますが、こうして茶屋に入ることは、あまりありません」
「そうか」
「……神威様は?」
「任務で来ることが多い」
「鬼狩りのお仕事、ですか」
「そうだ」
 短いやり取りだが、会話が続いている。それだけで、胸が少し落ち着かなくなる。
「危なくは、ないのですか」
 聞いてから、愚問だったと思った。鬼狩りが危なくないはずがない。
「危険はある」
「……怖くは」
 そこまで言って、芹は口を閉ざす。
 失礼だったかもしれない。けれど天也は、怒らなかった。
「怖くないわけではない」
 意外な答えに、芹は目を見開く。
「……そうなのですか」
「恐れを知らぬ者は早死にする」
 天也は淡々と言う。
「鬼を侮れば死ぬ。己の力を過信しても死ぬ。怖いと思う心は、捨てるものではない」
 静かな言葉だった。けれど、芹の胸に深く落ちた。
 怖いと思う心は、捨てるものではない。
(……怖くても、いいの)
 あの夜を思い出して震えることも、天也を見るたびに息が詰まることも、逃げたいと思うことも。それは、弱さではないのだろうか。
 そう思った瞬間、喉の奥が少し熱くなった。
「……そう、なのですね」
 天也は頷いた。
「恐れても、足を止めなければいい」
 その言葉に、胸が震えた。自分に向けられた言葉ではないのかもしれないけれど、今の芹には、どうしてもそう聞こえた。
 恐れてもいい。それでも、足を止めなければいい。
(……この人は)
 本当に、あの夜の人なのだろうか。
 杏樹は黙って二人を見ていた。先ほどまでの軽さが少しだけ影を潜めている。その目は、どこか懐かしいものを見るようでもあり、遠いものを見送るようでもあった。
「……いいこと言うねぇ、天也。俺、ちょっと感動しちゃったよ」
 杏樹は笑いながら最後の団子を口に入れる。その笑顔はほんの少しだけ寂しそうに見えた。
 その時だった。
 ひゅ、と。外で何かが風を裂く音がした。
 ぴたりと空気が変わる。それは本当に、瞬き一つの間だった。
 天也が顔を上げ、杏樹の視線も店の外の方へ向く。芹の背筋に、冷たいものが走る。
「……来るね」
 ぽつりと、杏樹が言った。軽い声だが、その響きはやけに重かった。
 次の瞬間、悲鳴が上がる。店の外からはっきりと。
 芹の心臓が強く跳ねた。この流れは、もう知っている。
(……また)
 天也はすでに立ち上がっていた。
 動きに迷いがない。杏樹も先ほどまでの気だるげな様子が嘘のように、するりと立つ。
「芹ちゃんは中にいて」
 杏樹が言う。だが芹はすぐには頷けなかった。
 中にいれば安全なのかもしれないが、何も見なければ、何も分からない。
(……足を止めなければいい)
 さっきの天也の言葉が、胸の奥で響いた。
 怖い。怖いに決まっている。それでも見なければ。
「……私も外へ行きます」
 杏樹が目を丸くさせ、天也も微かに驚いたように振り返る。
「危険だ」
「分かっています」
 芹はぎゅっと手を握った。
「でも、見たいのです」
 何を、とは言えなかった。
 鬼を、天也を、今起きている異変を。そして、自分が恐れているものの正体を。
 天也はしばらく芹を見つめていたが、何か感じるものがあったのか、店の外へと向かった。
「俺の後ろにいろ」
 その一言に、胸が大きく鳴る。
「……はい」
 暖簾をくぐると、外の空気は先ほどと全く違っていた。
 春の匂いに、血の匂いが混じっている。人々が逃げ惑う中で、黒い影が暴れていた。
 鬼だ。昼の都に、あり得ない存在がいる。煤けた肌と裂けた口、大きな牙に鋭い爪。その姿を見た瞬間、芹の足がすくんだ。
 身体が、あの夜を思い出す。肩を裂かれた痛み、喉の奥に広がった鉄の味、視界が転がる感覚。
 恐怖が足元から這い上がってくるようだ。