僕らの好きは幽霊だってぶっ飛ばす!

 初めは、確かに祝福されていたのだと思う。
 大地主の呉服商の家に、男児の第一子として生を授かったその時、周りにいるあらゆる人間が私のことを大切に扱ってくれた。
 祖父と父は跡継ぎが生まれたと鼻息を荒くしていたし、祖母と母は使命を全うしたように安堵していた。
 何十もの使用人たちが私に仕え、全ての世話をしてくれた。代わりに自由は無かったが、それでも、これもまた一つの愛の形だった。
 その愛が壊れ、失われたのはいつ頃からだっただろうか。
 私の結核が判明した時か。父が愛人の元へ通うようになった時か。母が私にきつく当たるようになった時か。
 結局家の跡取りは父がお気に入りの愛人の子となり、私は離れに隔離され、ただ独りで日々を過ごした。
 傍に在るのはいつも孤独だけだった。
 窓から見える空も、塀の向こうから聞こえる同学年の子たちの声も、どれも遠くに感じた。
 畳の上が血反吐で汚れる回数も増えてくる。
 死が近いのを嫌でも感じ取った。
 恐い。
 死ぬのがではない。
 今にも私を押し潰しそうなこの孤独が恐い。
 けれど私は最期まで孤独だった。
 父も、母も、使用人も。この離れに滅多に足を運ばなくなった。
 だから私は独りで死んだ。
 それからどれぐらい時が立っただろう。
 私の家も取り壊され、様々な人が土地に関わり、家が建ち、取り壊し、最終的に子供たちの通う通学路となった。
 私はただその端に立ち、来る日も来る日も孤独と共にそこで過ごしていた。
 自分の一生とはなんだったのだろうかと考える。考えたところで答えは出ない。話す相手もいない。
 友人一人作れなかった私は、永遠に答えの出ない自問自答を繰り返す。
 それだけの―――はずだった。

『大丈夫ですか?』

 まだ幼い声だった。
 そちらを見下ろすと、そこにはランドセルを背負った小学生の姿があった。
 下校中だろう彼は、【幽霊】である私をハッキリと認識し、声をかけている。
 私は目を見開き驚いた。
 他者から声をかけられるなど、一体何十年振りだろうか。

『顔が、青いです。大丈夫ですか?』

 果たして、それは自分が【死者】だからではないだろうかと思ったが――なんだか彼がとても可愛らしくて、私はしゃがみ、目線を合わせてその頭を撫でてあげた。

『大丈夫だよ。ありがとう』
『それなら良かったです』

 たどたどしい口調でそう告げる彼に、私は微笑み返す。
 笑う、なんて生きている内でも数えるぐらいしかしたことがなかったというのに。
 何故だか私は彼とまだ話したいと思い、今度はこちらから話しかけてみた。

『優しい子だね。いつもこうして誰かに声をかけてあげているのかい?』
『ううん。ただ……』
『ん?』
『お兄さんが、泣きそうだった気がしたから』
『………』

 彼のその一言に、私は本当に泣いてしまいそうだった。
 なんて聡明で、そして優しい子なのだろうと思った。
 親切な彼の言葉は、私の頑なに凍り付いていた感情を溶かし、春の到来のように心身を温めてくれる。
 愛しいと、思った。
 生まれて初めて、心から愛しいと思える相手。
 それは確かに恋慕であり、情愛だった。

『君のお陰で泣きたい気持ちも無くなったよ』
『本当?』
『ああ、本当だよ』

 顔を綻ばせる君が好きだ。
 一生懸命話そうとする君が好きだ。
 私を労わる優しい君が好きだ。
 好きという感情は、こんなにも心を動かし、幸福な気持ちにさせてくれるものだったのか。

『お兄さんはどうしてここにいるんですか?』
『私は……なんだかんだこの場所に愛着があってね。それでずっと此処にいるんだ』
『あいちゃく?』
『ふふ。此処以外に行くところが無いんだ』
『じゃあ一緒にあっち行きましょう。夕日が綺麗ですよ』

 思いがけない提案に、私は目を丸くしてしまった。
 こんな表情、生きていた時だってしたことが無かったのに。

『こっちです』

 言って、君は私に手を差し伸べてくれた。
 ずっと此処で、時が止まったように立ち尽くしていた―――そんな私に。

『………』

 一歩、私は踏み出した。
 君の手を掴み、もう一歩、踏み出した。
 そこで私は知った。
 もう、私は自由であるということに。

『此処は建物が無くて、夕日が綺麗に見えるんです』

 建物と建物の合間で、地平線に溶ける夕日。
 少し歩いた先で見たその夕日は、確かに美しかった。
 けれどそれ以上に、夕日を眺める君の横顔はもっと美しかった。

『私は―――私の名前は幸孝。君の名前は?』
『御影晴香です』
『御影、晴香くん……』

 手に入れた名前を、宝物のようにそっと呟いた。
 それだけで胸の内が熱くなる。
 ああ―――この子を、この出会いを、この想いを大切にしよう。
 生きる時には見つけるこのできなかったこの感情を、私が今此処に存在する糧としよう。

『晴香くん。ありがとう。願わくば……これからも君をずっと見守り続けるよ』

 そっと、晴香くんの頬に手を添えた。
 心が満たされる。
 だからこそ私は線引きをした。
 どこまでいっても私は【死者】だ。必要以上の晴香くんへの関与は許されない。
 ただ、見守る。彼を見守り続ける。
 それが私なりの愛だ。
 晴香くんの成長を眺める日々は幸せだった。
 他の【幽霊】に困らされることだけは看過できず、晴香くんにバレないようにしながらたまに追い払うこともしたが……それでも関わり過ぎないように気を付けた。
 晴香くんの笑顔が在ればそれで良かった。
 良かった、はずなのに。

 それなのに―――

 私の心は、あの男の存在を許すことができなかった。




   ***




「ん……」

 小さな声を上げ、晴香はうっすらと目を開けた。
 目を開けているのに目の前には闇が広がっており、ぼやけた頭では本当に目を開けているのかどうか疑わしくなった。
 そして思い出す。
 確か自分はいつものように学校へ登校し……その時、階段奥の物陰に佇む【紫色の着物を着た男】の姿に気付き、そして目が合った。
 そこからの記憶は無く、今に至る。

「目が覚めたかい?」
「っ!」

 思考する脳内に、突如割って入った澄んだ声。
 驚きと共に晴香が体を置き上がると、傍に、一人の【男】が正座をしてそこに居た。
 透き通るほどの白い肌に、肩辺りで一つに結わかれた腰まである艶のある黒髪。繊細さを感じさせる切れ長の瞳。そして【男】を象徴する京紫色の手織りの着物。
 線が細く、儚げな印象を受けるその【男】は、優しげな表情で晴香を見つめている。

「あ、の……此処は……」

 不安げな表情でそう訊ねてみれば、【男】は品のある仕草で晴香の頬を撫でた。
 ふわり、と白檀の香りが鼻孔をくすぐる。

「恐がる必要は無い。此処は私と君だけの場所だ」
「それは、どういう……」
「君は私を忘れてしまったかな?」

 やや苦笑を浮かべながら、それでも【男】は怒った様子も無く、穏やかな口調でそう訊ねてきた。
 晴香は、思考を張り巡らせる。
 そうして今になって、ここ最近見た夢のことや、それに連なるこの【男】との思い出が―――小学生の頃、【幽霊】だと思わずに話しかけた、あの【男】との記憶が、ハッキリとよみがえった。

「あ……幸孝、さん?」

 そこで【男】は―――幸孝は、実にうっとりとした、幸福に満ちた微笑みを浮かべる。

「晴香くん。久しぶりだね。……と言っても、私はずっと君を見守っていたけどね」
「ずっと、見守る……?」
「そうだよ。君と出会ったその日から、ずっと、ずぅっと君を見守ってきた」
「どうして、そんな……」
「君を、愛しているから」

 この世のたった一つの正解を口にしたような、そんな、自信と情熱に溢れた物言いだった。
 真正面から愛の告白を受けた晴香は、驚き、そして戸惑いを見せる。

「愛……? え……?」
「驚かせてごめんね。でも、私はずっとずっと君を見守り続けていたし、心から愛していたんだ。……あの男よりも、ずっと前から」

 幸孝の声音が低いものへと変化した。
 彼が口にした『あの男』について、晴香は最初誰のことかわからなかった。しかし少し考え、それが鳴海のことであると気付く。
 そこで初めて晴香は、この幸孝という男が鳴海に対し、嫉妬の炎を燃やしていると理解した。

「本当は、今までと同じように見守り続けようと思ったんだ。変わっていく君を、私は変わらずに見守ろうと、そう、思っていた……だけど」
「………」
「だけど、何故かな。あの鳴海という男が現れてから、私の心にぽっかりと穴が空き始めたんだ。最初は小さな穴だった。気付かなかったことにしようと思った。でも……いつしかその穴は広がり、見過ごせないものになっていった」
「幸孝さん……それは」
「晴香くん。あの男が、私から君を奪っていくんだ」

 晴香の言葉を遮り、幸孝はそう告げる。
 怒りの色が浮かぶその顔は、それでもとても美しい。
 晴香は、何も言うことができなかった。
 幸孝のことはよく知らないが―――それでも、その佇まいや、自分を見守ろうとしてくれていたことから、悪い人間ではないことが伺える。
 しかし今、その幸孝は、鳴海に対し明確な憎悪を向けていた。
 どうすればいいのか、何を言えばいいのか、わからない。
 そんな困惑する晴香の頬を、幸孝は再度、優しく撫でた。

「ああ。そんな困った顔をしないで。君にはいつだって笑っていてほしいんだ」

 心からそう願う顔だった。
 しかしその表情は、次第に崩れていく。

「笑って……いて、ほしい。けれど……けれどね? その笑顔をあの男に向けるのは嫌なんだ」
「っ……」
「あの男だけじゃない。私は知ってしまった。君の笑顔を自分だけのものにしたいと。本当は君の笑顔を……いいや、君を独り占めしたかったのだということに、気付いてしまった」
「そ、そんなこと……」
「わかっている。わかっているんだよ。だけど抑えきれないんだ。もしも私が【幽霊】でなければ……死んでいなければ、生きていればっ……君と想い合えたのかもしれないと思うと、どうしても納得できないんだ……っ」
「それ、は……」
「晴香くん。好きだ。愛している。本当に……ずっとずっと、君を想い続けてきた」

 熱情に浮かされながらも、幸孝のその表情は悲しみに暮れていた。
 今にも泣きそうな彼を前に、晴香は無関心ではいられなかった。
 かといって、どうすればいいのかもわからない。

「幸孝さんは……僕をどうする気ですか……?」

 震える声で訊ねた。
 この暗闇の世界に閉じ込めているのは幸孝だ。
 果たして彼の最終的な願望を知るべきだと、晴香は思った。

「……どうする気、か」

 落ち着いた声音で、幸孝は呟く。
 その怜悧な瞳はあまりにも暗く輝いている。

「ずっと此処で君と一緒に居たいと言ったら?」
「え……」
「それがいけないことなのは、わかっている。だが……私は、生まれてからずっと、我慢し続けてきた。両親から望まれた生き方を何一つできず、常に病に蝕まれ、友達を作ることも許されず、外へ出歩くことすらできなかった」
「………」
「そんな私に、自由を―――人を愛すことを、その喜びを教えてくれたのは、晴香くん、君だった。幸福とはこういうものなのだと、君は、私に教えてくれた」
「………」
「幸せになりたい。私だって幸せを願いたい。そしてその幸せには……晴香くんが傍に居てくれなくちゃいけないんだ。だから……君を此処に閉じ込めた」
「幸孝さん、でも僕は……」

 そこで、幸孝の人差し指が晴香の唇に触れた。
 それ以上の発言は聞きたくないという意思を乗せて。

「一緒に居てくれ。永遠に傍に居てくれ」

 そっと、幸孝は晴香に顔を近付ける。
 真っ暗のその瞳に意識が吸い込まれてしまったように、晴香は動くことができなかった。

「晴香くん……愛してる」

 駄目だ。
 そう思っているのに動けない。
 同情しているのだろうか。
 迷っているのだろうか。
 そして晴香の唇に、幸孝の唇が触れ―――

「晴香さん!」

 その直前。
 第三者の―――鳴海の声が響き渡った。
 拘束が解けたように、晴香は慌てて辺りを見回す。
 しかし周囲は闇一色で、鳴海の姿は何処にも無い。

「晴香さん! 何処ですか!」

 それでも鳴海の声は確かに聞こえる。
 その声音から、彼がいかに必死に自分を探してくれているのかが伝わった。

「鳴海くん……」

 晴香は、そこでぽろぽろと涙を零した。
 ずっと、いつだって、鳴海は自分を守ってくれていた。
 そしてそんな鳴海のことを、自分は―――

「僕……僕は……あなたと一緒に居られない」
「晴香くん……」
「僕は、鳴海くんと生きていく」
「やめろ……やめてくれ……待っ……」
「だって……だって僕は、鳴海くんのことが好きだから!」

 そうして晴香は立ち上がり、鳴海の声のする方へ急いだ。
 闇の中、伸ばしたその先で―――手が、触れた。
 その瞬間、世界は崩壊する。

「晴香さん!」
「鳴海くん……っ!」

 晴香は、鳴海の胸に飛び込んだ。
 そして鳴海は、そんな晴香を抱きしめた。




   ***




 崩壊した世界の外は、小学生の頃の帰路―――幸孝と出会った場所だった。
 ひと気の無いその場所で抱き合う晴香と鳴海は、改めて幸孝と対峙する。
 夕日はもう、沈んでしまっていた。

「どうして……」

 降り始めの雨音のように小さな声だった。
 信じられないものを見ているように、幸孝は顔を歪ませる。

「晴香くん……どうして……どうしてその男を選ぶんだ……」
「………」
「どうして私を選んでくれないんだ……っ」

 その声音は、実に痛ましい。
 聞いているだけで思いを寄せてしまいそうなほど、切なく、そして苦しげだ。
 晴香は心が痛んだ。
 それでも―――と、晴香はハッキリと告げる。

「幸孝さん。僕のことを想ってくれて……ありがとうございます。だけど……僕は鳴海くんが好きなんです」
「……っ」

 幸孝の表情が苦痛で歪む。
 晴香へ向けるその視線には、もう、優しさも穏やかさも残されていなかった。

「嫌だ……そんなの認められない」
「幸孝さん……」
「私は、こんなにも君を愛しているのに……なのにどうして君はわかってくれないんだ」
「………」
「こっちへおいで。おいで、晴香くん。私と共に居てくれ」

 晴香は静かに首を横に振る。
 幸孝の瞳に、凶器めいた鋭さが宿った。

「君がその男を選ぶって言うなら、私は君を……君を……っ」
「晴香さんをどうする気だってんだ!」

 幸孝の言葉に被せ、怒声が割り込む。
 そして怒りに満ちたその声と共に、鳴海は幸孝を殴り付けた。

「っ……!」

 しばしの沈黙。
 殴られてもなお、幸孝は怯むことなく鳴海を睨みつける。

「……私と晴香くんが話しているんだ。おまえには関係無い」
「俺は晴香さんの恋人だ」
「黙れ」
「俺と晴香さんの間に割って入っているのはあんただろうが」
「黙れ黙れ黙れ!」
「自分の恋人に手を出されて黙っていられるか!」

 晴香は、ここまで怒っている鳴海を初めて見た。
 腹の底から出された声音は恐ろしく、それでいて誰よりも頼もしかった。

「私は、おまえなんかよりずっと前から晴香くんを見守っていたんだ。誰よりも傍に居たんだ」
「………」
「誰よりも晴香くんを愛している。心の底から、愛している。おまえなんかよりも、ずっとずっと愛している」
「だったら……」

 鳴海は、奥歯を噛み締め吐き捨てた。

「だったらどうして晴香さんを苦しめるんだ!」

 鳴海の瞳は、怒りの炎で燃え滾っている。
 それは晴香を心から愛しているからこその怒りだった。

「守る気持ちが攻撃する気持ちに変わった時点で、あんたは晴香さんに相応しい人間じゃなくなったんだ」
「……っ」
「自分の意に反していたって、愛している人の思いは絶対じゃねぇのかよ」
「それ、は……」
「晴香さんを愛しているなら、どうして晴香さんの気持ちを尊重してやれねぇんだ!」
「……!」

 言葉が途切れ、幸孝の瞳が大きく揺れる。
 その表情は、行き先を失ってしまった子供そのものだ。

「あ……あ……」

 膝から崩れ落ちた。
 わなわなと震える手を見つめながら、幸孝は苦悶の表情を浮かべる。
 長年の想いも、積年の愛も―――全てが歪み果てていることに気付かされた。
 ずっと見守り続けるだけで幸せだったのに。
 自分は【幽霊】だから……晴香くんとはどうやったって一緒になれないと自覚していたのに。
 だからこそ晴香くんの幸せを誰よりも願っていたのに。
 なのに―――!

「幸孝さん」

 気付けば、目の前にはしゃがんで目線を合わせてくれている晴香の姿があった。
 その隣には、晴香と手を繋ぐ鳴海の姿がある。彼のその目は警戒心に満ちているが、それでも晴香の意思を汲もうとただ黙っていた。
 そうして晴香が、落ち着いた声音で言葉をかけてくれる。

「幸孝さん。ずっと……ずっと見守っていてくれてたんですね」
「晴香くん……」
「幸孝さんに守られていることにも気付かず、呑気に幸せを享受していて……ごめんなさい」
「違う。違うんだ……私がただ、したくてしていただけなんだ……」

 それこそが本心であると、幸孝はここでようやく気付かされた。
 そう。誰に頼まれたわけでもない。
 死んでしまった自分だからこそ可能な守り方で、晴香を守りたいと、そう幸孝は思い、行動し続けてきたのだ。

「君がただ目の前で、幸せでいてくれることだけが私にとっての幸せだったんだ。それなのに私は、それを忘れて……」

 そこで幸孝の言葉は途切れた。
 気付いたその時には、額に、晴香からの口付けを受けていた。
 額へのキスは―――親愛と労わり。

「大丈夫。ちゃんと伝わってます」
「………」
「傍に居てくれて……こんなに僕のことを想ってくれて、嬉しかった」
「晴香、くん」
「ありがとう、幸孝さん」

 それは、感謝の言葉であり、別れの言葉でもあった。
 幸孝の瞳からは完全に戦意が喪失し、逆に穏やかな表情を浮かべている。
 彼はゆっくりと立ち上がり、鳴海の方を見た。

「私の歪んだ気持ちをぶっ飛ばしてくれてありがとう」
「………」
「絶対に晴香くんを幸せにしてくれ」
「言われなくても」
「晴香くんを愛しているから……だから……君に託すよ」

 伏せられたその瞳から涙を流す幸孝の姿からは、確かに迷いを感じなかった。
 京紫色の着物は、ゆっくりと、闇夜に溶けて消えていく。

「晴香くん。ずっと君を見守っているから」
「幸孝さん……」
「幸せで、いてね」

 そうして幸孝の姿は完全に消え去った。
 まるで全てが夢幻だったかのようで、少しだけ不安になる。
 けれど鳴海と繋がれたその手の感触が現実へと引き戻してくれて、晴香はホッと安堵するのだった。