短いようで長い一週間を終え、迎えた休日。晴香は今、都心の駅の待ち合わせ場所にいた。
駅の中にも外にも備えられた様々な店。恰好の違う人々。イベントでもやっているのかと思うほどの行列に人の数。
地元の駅よりもずっと人が多く、果たしてこの中から鳴海のことを探し出せるのか――と晴香は不安に思ったが、こちらへ向かってくる鳴海にすぐに気が付いた。
「鳴海くん!」
「晴香さん。お待たせしました」
まだ待ち合わせの五分前だというのに頭を下げてくる鳴海に、晴香はそんなことないよと声をかける。
今日、二人は念願のデートの日であった。
都心でウィンドウショッピングをし、しばらくぶらついた後、鳴海の家に行く……そんなデートコースになっている。
二人はこの日を待ち望んで、今週の日々の授業を頑張って乗り越えたと言っても過言ではない。
「晴香さん、今日の服似合ってますよ」
「そう? ありがとう」
「けっこう青緑系が好きなんですね」
言われて晴香は、自分の服を見る。
ターコイズブルーのサイズが大きめのパーカーに、黒いタイトなジーンズ。
割と無自覚だったが、言われて確かに青緑系を選びがちだ。先日、朱音の家に行った時もピーコックブルーを選んでいたし。
「プレゼントをする時の参考にさせてもらいますね」
「えっ、そんな……あ、ありがとう」
いい情報を手に入れたと、嬉しそうに鳴海が言うものなので、晴香はお言葉に甘えることにした。
「そう言う鳴海くんも、黒とか赤系が好きなんだね」
今日の鳴海のスタイルは、赤いラインの入った黒が基調のセットアップというスポーツミックス系の服装だった。
その色合いは彼の髪色とよく合っているし、所々で光るシルバーアクセが良いアクセントになっている。
やっぱりオシャレな人は小物の使い方も上手だなぁ、と晴香はしばし見惚れていた。
「晴香さん……そんなに見つめられるとさすがに照れます」
「あ、あはは、ごめん」
「じゃあいくつか洋服屋を見て回りましょうか」
「うん!」
言って、鳴海は腕を曲げて差し出してくる。
それは海外で見る、男性がパートナーをエスコートする時の動きに似ていて――実際にその通りなのだろう――晴香は照れながらもその腕に手を絡めた。
「手繋ぎの方が良かったですか?」
「う、ううん。今日はこっちで……」
手を繋ぐのとはまた違う、腕を組んでいるならではの距離感。
なんだかそれが甘酸っぱくて、晴香は鳴海の腕に甘えた。
それにしても鳴海のエスコートは完璧だった。
都心なだけあって、店は選びたい放題だ。しかし鳴海は迷いなく、晴香の足取りを気にしながら進んで行く。
その先には、晴香が好むタイプの服屋があるのだから驚きだ。
おそらく朱音の家に行く際に見た私服だけで、晴香の好みを推測し、店の場所をリサーチしてくれたのだろう。
「今更だけど……鳴海くんってモテるでしょ」
「……なんでですか?」
「えっ、いや……エスコート上手いし、相手のこと思いやってくれるし」
「それは晴香さんに対してだけなんで」
なんてことではないように鳴海は言う。言いながら、この服も似合いますよとラックにかかっている服を晴香の体に押し当てた。
こんなにも素敵な恋人を独り占めしていいものだろうか。愛され過ぎて困ってしまう。
……などという実に贅沢な悩みが晴香の頭の中に浮かんだ。
「晴香さんこそ……」
「ん?」
「【幽霊】に……モテますよね」
鳴海が、何かを思案しながらそう呟く。
最初は皮肉かと思ったが、その横顔がどこか真剣なものだから、晴香は首を傾げた。
「そ、そう? モテるっていうか、まとわりつかれてるだけって感じだけど」
「誰か……特定の【幽霊】と交流した思い出とかないですか?」
「交流? うーん、覚えている限りだと……ああ。小学生の時、下校途中で見かけた【男の幽霊】のことを普通の人間だと思って、相談に乗ったことはあるよ。前にお昼の時話したと思うけど」
「その【幽霊】って、どんな服着てました?」
「え、服!? 服かぁ……さすがに覚えてないなぁ」
「そうですか……」
「でもなんか優しい人だったのは覚えてるよ。【幽霊】だけど恐くなかったっていうか、ありがとうって言いながら頭も撫でてくれたし」
「………」
気付くと、鳴海がジト目でこちらを見ているものだから、晴香は何事かとパチパチ瞬きを繰り返す。
「……いえ。俺が先に話題を振ったわけですけど」
「うん?」
「他の男の話を楽しそうにされるの、けっこうきますね。頭に」
「ええッ!?」
「安心してください。晴香さんに対して苛立ってるわけじゃないんです。なんていうか……つまり嫉妬です」
グルルル、と唸り声を上げる鳴海を前に、晴香は苦笑する。
彼はあまり感情を面に出さないのだが、その実、様々なことを考え、色々なことを思い、その感情を常に胸の奥底で煮えたぎらせていると晴香は思った。そしてその感情の出所が自分だと思うと、なんともこそばゆい気持ちにさせられる。
だから晴香は、店員やお客さんがこちらを気にしていないのを見計らい、鳴海の頭を撫でてあげた。
「大好きだよ、鳴海くん」
「……はい。俺もです」
機嫌が直ったのか、口端を持ち上げ、鳴海は再び晴香に似合いそうなカットソーをあてていく。
しかしそれにしても、どうして鳴海が『特定の【幽霊】と交流した思い出』などを訊いてきたのだろうか。しかもその【幽霊】の特徴について、詳細に知りたがっていたような気もする。
そのことについて言及しようかとも思ったが……
「これ、晴香さんに凄く似合います。買ってもいいですか?」
「いやいやいや、僕がちゃんと買うって」
この幸せな時間に水を差したくないと思い、晴香は鳴海との時間に浸るのだった。
***
いくつかの洋服店をはしごした後、人気の紅茶屋さんでおすすめフレーバーのアイスティーをそれぞれテイクアウトした。
そのまま電車に乗り、地元の駅まで帰って来た二人は、夕日を背に鳴海の家へと向かう。
晴香も鳴海も、お互いに似合うと言われた服を買ったので、それぞれの店のショッパーを手にしている。最初は全ての荷物を鳴海が持つと言い出したが、晴香はそれをたしなめ、自分の荷物は自分で持つことに。
「鳴海くんのお母さん、経営コンサルタントしてるんだ。詳しくは知らないけど凄いね」
鳴海から家のことを色々訊ねる流れで、母親の話になった。
母子家庭で、母一人子一人でやってきたという鳴海の話に、晴香は静かに聞き入っていた。鳴海はあまり自分か自分のことを話さないタイプなのだ。だから彼のことを知ることができ、なんだか嬉しくなった。
「朝早く出かけて夜遅く帰って来るんで、あんまり顔合わせること無いんですけどね。今日も休日だけど出社してるんで、家には誰もいません」
さらり、とそう告げられ、しかし晴香はその言葉を少しだけ意識してしまった。
だって恋人の家に今から行くのだ。そして親はいないと言われたのだ。
それを意識しないほど、晴香は鳴海への気持ちに鈍感ではない。
「あ、あの……」
「安心してください」
「え?」
「前も言いましたが、あんなことやそんなことは、ちゃんと順序立てて、晴香さんの気持ちが追い付いてからしますから」
「うっ……」
考えていたことがバレていた恥ずかしさで、晴香はつい目を逸らす。
そんな晴香を横目に、鳴海は薄く笑った。
「まあ……晴香さんが可愛すぎて襲ってしまったらすみません」
「ちょっ!?」
「冗談です」
本当に冗談なのか怪しいし、何よりさっきから手の平の上で転がされている気がして、晴香は拗ねるように口を尖らせた。
鳴海はますます楽しそうに、そして嬉しそうに笑う。あまりにもその笑顔が幸せそうだから、なんだかんだ晴香もつられて笑ってしまうのだった。
そうこうしている内に鳴海の家へと到着する。
晴香をで迎えたのは、ナチュラルカラーで彩られたオシャレな外観の一軒家だった。
「とくに何も無いですけど、どうぞ」
鳴海に促され、家の中へとお邪魔する。
そのままリビングへと通された晴香は、黒いL字型のソファに腰かけた。
「広くてオシャレな家だね」
「母親いわく、投資用だか節税用だかで買ったとか何とか」
「へえー、なるほど」
なるほどとは言いつつも、その辺りのことは全然わからないので適当な相槌となった。
どちらにせよ、鳴海の母親がかなりやり手だということだけはわかる。いつか会えるものなら会ってみたいな、とも思った。
そんな晴香の隣に、鳴海も腰を下ろす。自宅なのもあってか、いつもよりオフモードでいるような気がした。
そこで晴香は、思い出したように家から持ってきていた袋を漁り、テーブルの上にそれらを――いくつかのマドレーヌを広げた。
虚を突かれたように、鳴海は目を丸くして首を傾げる。
「あの……実はマドレーヌを焼いてきたんだ。良ければ食べて?」
照れながらそう言うと、鳴海が獲物を見つけた肉食獣のような勢いでこちらを見てきたので、晴香は顔を引き攣らせた。
「あ……い、いらなければ別に……」
「何言ってるんですか。有難く頂戴しますよ」
物凄く真剣な表情でそんなことを言ってくるものだから、晴香は引き攣った表情から笑顔へと戻った。
鳴海は簡易フィルムで包装されたマドレーヌを、一つ一つ丁寧に手にしては、愛おしそうに眺めている。
その横顔があまりにも嬉しそうなものだから、晴香は顔を赤らめながら口を開いた。
「お、お菓子言葉っていうのがあってね?」
「お菓子言葉?」
「うん。贈り物をする上での隠れたメッセージみたいなものなんだけど……」
晴香が、物言いたげに鳴海を上目遣いで見つめる。
誘われるように、鳴海は問いかけた。
「マドレーヌはどういう意味なんですか……?」
「……『親密になりたい』」
か細い声ではあったが、晴香の言葉は、しっかりと鳴海の元へと届いていた。
考える暇も惜しいぐらいの行動力の速さで、鳴海は身を乗り出す。
そうして、晴香へと口付けた。
「んっ……」
唇だけを重ねるキス。
だけど今はそれだけでは物足りないのか、鳴海はハムハムと晴香の唇を甘噛みする。
それがくすぐったくて思わず笑ってしまった晴香の口内に、鳴海の舌が侵入した。
「っ……!」
今までしてこなかった一歩進んだそのキスに、晴香は思わず肩をビクリと震わせた。
しかし、鳴海のキスはどこまでも優しく、いつの間にかその身を委ねている自分がいた。
もしかしたらマドレーヌよりも甘いかもしれない。
そんなロマンチックなことを考えながら、晴香は鳴海と舌を絡め合った。
「鳴海、く……」
酸欠なのもあり、トントンと鳴海の胸板を叩くと、彼はゆっくりと唇を離してくれた。
潤んだ瞳で酸素を求める晴香を前に、鳴海はもう一度だけ唇を重ねると、どこか悔しそうに呟いた。
「やっぱり襲っちまってもいいですか?」
「鳴海くん!?」
「……冗談です」
たぶん冗談ではないのだろうが、彼はそう言って我慢を見せる。そして自分の中で込み上げる欲情を押さえつけるように、鳴海は改めてマドレーヌを手にした。
「いただきます」
先程まで晴香の唇を塞いでいたその口で、マドレーヌを咀嚼する。
いまだキスの余韻に浸っている晴香は、その様子をぼんやりとした表情で眺めていた。
「……美味しいです、晴香さん」
「そっか。それなら良かった」
鳴海の心からの賛辞に、晴香は穏やかに笑う。
見つめ合う二人の間に流れる空気は、実に柔らかく、甘美なものだった。
もう一度、キスをしてしまおうか。
お互いにそんなことを考えた――その時だった。
ドタドタドタと、誰かが廊下を走る音が鳴り響く。
「っ!」
思わず晴香は勢いよくそちらを見たが、そこには誰もいなかった。
「どうしました?」
「あ……いや。鳴海くん、家に誰かいる……わけないよね?」
「いませんしペットも飼ってないです」
「だよね。じゃあ……」
「【幽霊】、いましたか?」
「なんか、【誰か】が廊下を走る音が聞こえて……」
そこまで言いかけ、晴香はハッと口を紡ぐ。
そして恐る恐る鳴海の方を見た。
「ご、ごめん……」
「何がです?」
「こんな、人の家で【幽霊】の話なんて……無神経だった」
言いながら、晴香の脳裏によぎるのは過去のことだ。
小学生ぐらいの時、クラスメイトの家へ行った際、誰かがいるという不気味なことをつい口走ってしまった。途端にクラスメイトは恐がり、それ以来、家に呼ばれるどころか一緒に遊ぶことも無くなった。
鳴海が理解のある人だからと油断していたが、理解があるからといって自分の家に【幽霊】の気配があるなんて言われ、良い思いはしないだろう。
そんな晴香の不安を煽るように、背後の廊下からはドタドタと足音が響いていた。
どうしてこんな、【幽霊】なんて見えてしまうのだろうか。
晴香は泣きそうな気持ちで顔を伏せた。
「晴香さん」
不意に名前を呼ばれ、同時に手を握られる。
その握られた手の温かさに誘われ、晴香はゆっくりと顔を上げた。
「晴香さんのお陰で【幽霊】が居るってわかって助かります」
「え……でも……」
「退治するんで、付いてきてもらっていいですか?」
「………」
鳴海の表情には、変な同情など一切浮かんでおらず、心の底からそう思っているのだと書かれている。
晴香は浮かんだ涙をこっそり拭い、鳴海と手を繋ぎながら廊下へと向かった。
廊下の暗がり――そこに【幽霊】はいた。
腰からぐにゃりとありえない方向へと曲がった、五歳児ぐらいの【女の子】は、ドタドタと廊下の床を鳴らしている。
しかし先陣を切って廊下へと訪れた鳴海に気付いた瞬間、【彼女】は動くのをやめた。
「おい。出てけ」
喉の奥底を響かせながら発された低い声。
子供にも鳴海は容赦が無かった。いや、いきなり手を出さないだけ優しい扱いではあるが。
しばし、眉間にしわを寄せた鳴海と【彼女】は見つめ合う。
緊迫した空気を感じていた晴香だったが、【女の子】がケラケラと笑い玄関の方へと走って行くのが見えた。
途端に室内に静寂が戻る。
なんだかあまりにもあっけなく、それでいて鳴海らしい退治方法だったので、晴香の表情から思わず笑顔がこぼれた。
「晴香さん」
「ん?」
「俺は晴香さんと色んなことを共有できて幸せなんです。それが、晴香さんが長年悩んでいた【幽霊】のことなら、なおさら」
「鳴海くん……」
「晴香さんこそ、俺のこともっともっと頼ってください」
それは以前、晴香自身が鳴海に向けた言葉だ。
頼ってほしい。同時に沸き起こる、頼りたいという気持ち。
それは自分一人で完結するものではなく、相手と一緒に循環するものなのだと晴香は改めて学んだ。
「うん、ありがとう。いっぱい……頼らせて」
「はい」
見つめ合った二人は、繋いだ手をギュッと握りしめ、お互いに笑顔を見せ合った。
そうしてしばらく穏やかな時間を過ごしていた二人の元に届いたのは雨の音だ。
最初はパラパラとした細やかな音も、数分経った今では土砂降りの豪雨へと早変わりしていた。
しかも風まで強く吹いているものだから、実質嵐のような勢いだった。
晴香は窓際に立ち、さてどうしたものかと暗い空を眺めていた。当然傘は折り畳みしか持っていない。これはずぶ濡れ確定だろう。
――と、晴香が覚悟を決めるのと同時に、何処かへ電話していた鳴海がいつの間にか背後に立っていた。
「晴香さん。今親に連絡したんですけど」
「うん?」
「雨、今日中に止まないっぽいんで泊まっていってください」
「えッ!?」
「親も帰れそうにないからホテルに泊まるみたいなんで、気を遣う必要無いです」
「い、いやでもそんな……」
悪いよ、と言う前に、一歩鳴海は前へ出て、晴香をその身長差で見下ろす。
物凄い圧があり、それだけで晴香は言葉を飲み込んだ。
「こんな雨の中、ずぶ濡れになるのが確定しているのに俺が晴香さんを帰すと思いますか? 逆の立場だったら帰るように言いますか?」
「そ、それは……まあ……言わないけど……」
「そういうことです。わかったら晴香さんも、泊まるって家に連絡入れてください」
「は、はい」
有無を言わせぬ圧力とはこの事か、と思いながら、晴香は素直に従った。
連絡を入れた母親も、最初は渋る感じではあったが、一応息子の身を案じてくれたのだろう、最終的には許可をくれた。
そのことを鳴海に伝えようとした頃にはもう、晴香のお泊りセットがそこに用意されていた。パジャマも歯ブラシもある。鳴海は狩りを終えた猫のように胸を張っていた。
「何か他に必要なものがあったら言って下さい。服は俺が普段着てるものですけどいいですか?」
「もちろんだよ。ありがとう」
そこで晴香は思いついたように告げる。
「あの……もしキッチンと材料を使っていいなら、僕が夕ご飯作るよ。お礼になるかわからないけど」
「ホントですか!?」
予想以上に鳴海が喰い付いてくれたので、どうやらお礼にはなるようだと安心できた。
嬉しそうにする鳴海が、すぐに黒いエプロンを持ってきてくれた。
「あるものなら何使っても構わないです」
「そっかぁ、ありがとう。嫌いな食べ物とかある?」
「そうですね……酸っぱいものが苦手です。酢の物とか」
「あー、僕もそんなに得意じゃないや」
クスクスと笑って共感しながら、晴香はエプロンを着用してキッチンに立つ。人の家の台所だと思うと少し緊張した。
と、何やらカウンターの向こうに立つ鳴海から熱視線を感じる。
晴香がそちらを向いて首を傾げると、鳴海はうっとりとした表情で口を開いた。
「晴香さん……凄くお嫁さん感あって素敵です」
「ははは……」
幸せそうにしている鳴海を横目に、晴香はパスタでも茹でるかと冷静に献立を考えるのだった。
***
ガタガタと窓が鳴っている。もはや嵐や台風と名付けられていないのが信じられないほど、天候は悪化し、豪雨と強風で荒れている。
今、晴香は二つの事情で目が冴えてしまっていた。
一つは音だ。【幽霊】を見て、感じてしまう晴香にとって、突然の音というのは日常茶飯事であり、いまだに慣れない現象だった。
強風の所為なのか、それとも【幽霊】の仕業なのかわからない家鳴りに、晴香はビクビクと一人震えている。
そしてもう一つは、今自身が横たわるのが鳴海の部屋の、用意された布団の中だからだ。
最初はベッドを譲ると言われたがそれを阻止し、来客用の布団を使わせてもらうことにした。
それでも人様の――恋人の部屋で寝るという行為は、言葉にできない緊張感があるものだ。
果たしてそれは鳴海も同じだろうかと、隣のベッドの上へ晴香は視線をやる。高さの所為で鳴海の姿は背中ぐらいしか見えない。
「晴香さん」
「は、はい!?」
物凄いタイミングで声をかけられ、晴香はきょどった声を上げた。
ベッドの上の鳴海が寝返りを打って、晴香の方を見下ろす体勢へとなる。
「やっぱり起きてましたか」
「あはは。外の音、凄いから……」
「晴香さんってもしかして……音に敏感だったりします?」
ずばり言い当てられ、晴香は驚いた。
本当にこの鳴海という男は、自分のことをよく見て、考えてくれている……と、晴香はまた胸の奥が熱くなった。
「うん……。自然の音なのか、誰かが立てた音なのか、それとも【幽霊】の音なのかわからなくて、今日みたいな天気の日はとくに苦手なんだ」
「そうですか。代われるなら代わりたいです」
「あはは、その気持ちだけで十分だよ。ありがとう」
「……晴香さん」
「ん?」
「そっち行ってもいいですか?」
「えっ……」
予期せぬ言葉に聞き間違いかと晴香は思った。
しかし晴香が返答するよりも先に、鳴海が起き上がり、晴香の布団の中へと入ってくる。
「な、な、鳴海くん……!?」
全く展開についていけない晴香を、毛布の下で鳴海はギュッと抱きしめる。体格差の所為か、晴香の体は鳴海の腕の中にすっぽりと収まっていた。
お風呂上り特有の、鳴海の良い匂いが晴香の鼻孔をくすぐり、それが余計に晴香の心臓を早くさせた。
「すみません。嫌ですか?」
「い、嫌とかじゃ、ない、けど……」
「晴香さんとお付き合いできるようになって……そして【幽霊】のことを知って……少しも晴香さんと離れていたくないって思うんです。晴香さんが一人で【幽霊】に困らされているのが、嫌でしょうがないんです。俺も少しでも何かできればって、常にそういう気持ちなんです」
少しだけ腕に力を込め、より晴香と密着する。
背中に回された鳴海の腕や、目の前にある胸板から、彼の体温と鼓動を感じた。落ち着き払っているように見えて、体温は高いし鼓動も早い。
「晴香さん。紫色の着物を着た【男の幽霊】について、何か心当たりありませんか?」
唐突な鳴海からの質問。
晴香は少し考え……ぼんやりとした記憶を掘り返す。
「槙原さんの家や、この間四人で帰った時に、何かを知らせてくれる時に現れていた覚えがある。あと、ハッキリとは覚えてないけど……夢の中にも出てきたような気がする。でも、どうして?」
「俺の夢の中にも出てきたんです」
「え、何それ」
「『私の晴香くん』なんていう、聞き捨てならないことを言っていました」
低い声で、唸るように鳴海は告げる。
一方の晴香は首を傾げた。
「僕のことを知ってる【幽霊】ってこと? 誰だろう」
「ご先祖様ならいいんですけど。夢の中で首を絞められましたが」
「ええ!? そ、そんなご先祖様は嫌だなぁ」
「晴香さん。過去に【着物の男】と関わった覚えは無いんですか?」
「正直覚えてないんだよね。何せ【幽霊】は毎日、何十人も見えるから……」
「そうですか。どちらにせよ、少し警戒した方がいいかもしれません」
「うん。教えてくれてありがとね」
鳴海の腕の中に埋もれていた顔を上げ、晴香はお礼を口にする。
と、お互いの顔の距離の近さに恥ずかしさが込み上げた。
しばし二人は見つめ合う。
「……『晴香さんは俺の』って、もっと主張すべきですかね?」
「へ?」
「『私の晴香くん』なんて二度と言わせないぐらい、もっとハッキリ、『俺の晴香さん』だ、ってアピールしましょうか」
「え……どうやって……わっ」
するり、と鳴海が頭を下げた。
キスでもされるのかと思ったがそれは見当違いだった。
鳴海の唇は今、無防備な晴香の首元に置かれている。
「な、鳴海くん……?」
「失礼します」
そう言って鳴海は、舌先で一度晴香の肌を舐め、そのまま吸い付くように首元にキスをした。
「っん……」
まるで吸血行為のようなそれに、晴香は思わず声を漏らす。
一つの布団の中、抱き合う体勢で、首元の一点を鳴海に口吸いされている。
ドクドクと心音がやかましい。自然と呼吸も荒くなった。
「……ありがとうございます」
そう言って、鳴海はゆっくりと唇を首元から離す。
再び見つめ合う状態になったため、晴香は恐る恐る訊ねた。
「今、何を……」
「キスマークを付けました」
「ええっ!?」
平然と言ってのける鳴海に対し、晴香は一瞬にして顔を真っ赤にさせていた。
「き、キスマークって……なんで!?」
「『俺の晴香さん』って主張できるかと思いまして。虫よけ……いえ、【幽霊】よけです」
何故か彼は、自信満々にそう言い切った。
晴香は二の句が継げず、餌をねだる鯉のようにパクパクと口を開閉するばかりだ。
そんな晴香を、鳴海は愛おしそうに抱きしめる。
「晴香さんは、俺のことだけ考えててください。そうすれば何も恐くないです」
「……凄い自信」
ここまでくると、確かに逆に恐くなくなってくる。
気付けば物音も気にならなくなっていたし、何より……鳴海の腕の中が心地良くて、うとうととし始めていることに気が付いた。
「鳴海くん」
「はい」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
それぞれがそう伝え、ギュッと抱き合う。
外はまだ荒れているようだが、二人の耳に届くのは互いの鼓動だけだった。
駅の中にも外にも備えられた様々な店。恰好の違う人々。イベントでもやっているのかと思うほどの行列に人の数。
地元の駅よりもずっと人が多く、果たしてこの中から鳴海のことを探し出せるのか――と晴香は不安に思ったが、こちらへ向かってくる鳴海にすぐに気が付いた。
「鳴海くん!」
「晴香さん。お待たせしました」
まだ待ち合わせの五分前だというのに頭を下げてくる鳴海に、晴香はそんなことないよと声をかける。
今日、二人は念願のデートの日であった。
都心でウィンドウショッピングをし、しばらくぶらついた後、鳴海の家に行く……そんなデートコースになっている。
二人はこの日を待ち望んで、今週の日々の授業を頑張って乗り越えたと言っても過言ではない。
「晴香さん、今日の服似合ってますよ」
「そう? ありがとう」
「けっこう青緑系が好きなんですね」
言われて晴香は、自分の服を見る。
ターコイズブルーのサイズが大きめのパーカーに、黒いタイトなジーンズ。
割と無自覚だったが、言われて確かに青緑系を選びがちだ。先日、朱音の家に行った時もピーコックブルーを選んでいたし。
「プレゼントをする時の参考にさせてもらいますね」
「えっ、そんな……あ、ありがとう」
いい情報を手に入れたと、嬉しそうに鳴海が言うものなので、晴香はお言葉に甘えることにした。
「そう言う鳴海くんも、黒とか赤系が好きなんだね」
今日の鳴海のスタイルは、赤いラインの入った黒が基調のセットアップというスポーツミックス系の服装だった。
その色合いは彼の髪色とよく合っているし、所々で光るシルバーアクセが良いアクセントになっている。
やっぱりオシャレな人は小物の使い方も上手だなぁ、と晴香はしばし見惚れていた。
「晴香さん……そんなに見つめられるとさすがに照れます」
「あ、あはは、ごめん」
「じゃあいくつか洋服屋を見て回りましょうか」
「うん!」
言って、鳴海は腕を曲げて差し出してくる。
それは海外で見る、男性がパートナーをエスコートする時の動きに似ていて――実際にその通りなのだろう――晴香は照れながらもその腕に手を絡めた。
「手繋ぎの方が良かったですか?」
「う、ううん。今日はこっちで……」
手を繋ぐのとはまた違う、腕を組んでいるならではの距離感。
なんだかそれが甘酸っぱくて、晴香は鳴海の腕に甘えた。
それにしても鳴海のエスコートは完璧だった。
都心なだけあって、店は選びたい放題だ。しかし鳴海は迷いなく、晴香の足取りを気にしながら進んで行く。
その先には、晴香が好むタイプの服屋があるのだから驚きだ。
おそらく朱音の家に行く際に見た私服だけで、晴香の好みを推測し、店の場所をリサーチしてくれたのだろう。
「今更だけど……鳴海くんってモテるでしょ」
「……なんでですか?」
「えっ、いや……エスコート上手いし、相手のこと思いやってくれるし」
「それは晴香さんに対してだけなんで」
なんてことではないように鳴海は言う。言いながら、この服も似合いますよとラックにかかっている服を晴香の体に押し当てた。
こんなにも素敵な恋人を独り占めしていいものだろうか。愛され過ぎて困ってしまう。
……などという実に贅沢な悩みが晴香の頭の中に浮かんだ。
「晴香さんこそ……」
「ん?」
「【幽霊】に……モテますよね」
鳴海が、何かを思案しながらそう呟く。
最初は皮肉かと思ったが、その横顔がどこか真剣なものだから、晴香は首を傾げた。
「そ、そう? モテるっていうか、まとわりつかれてるだけって感じだけど」
「誰か……特定の【幽霊】と交流した思い出とかないですか?」
「交流? うーん、覚えている限りだと……ああ。小学生の時、下校途中で見かけた【男の幽霊】のことを普通の人間だと思って、相談に乗ったことはあるよ。前にお昼の時話したと思うけど」
「その【幽霊】って、どんな服着てました?」
「え、服!? 服かぁ……さすがに覚えてないなぁ」
「そうですか……」
「でもなんか優しい人だったのは覚えてるよ。【幽霊】だけど恐くなかったっていうか、ありがとうって言いながら頭も撫でてくれたし」
「………」
気付くと、鳴海がジト目でこちらを見ているものだから、晴香は何事かとパチパチ瞬きを繰り返す。
「……いえ。俺が先に話題を振ったわけですけど」
「うん?」
「他の男の話を楽しそうにされるの、けっこうきますね。頭に」
「ええッ!?」
「安心してください。晴香さんに対して苛立ってるわけじゃないんです。なんていうか……つまり嫉妬です」
グルルル、と唸り声を上げる鳴海を前に、晴香は苦笑する。
彼はあまり感情を面に出さないのだが、その実、様々なことを考え、色々なことを思い、その感情を常に胸の奥底で煮えたぎらせていると晴香は思った。そしてその感情の出所が自分だと思うと、なんともこそばゆい気持ちにさせられる。
だから晴香は、店員やお客さんがこちらを気にしていないのを見計らい、鳴海の頭を撫でてあげた。
「大好きだよ、鳴海くん」
「……はい。俺もです」
機嫌が直ったのか、口端を持ち上げ、鳴海は再び晴香に似合いそうなカットソーをあてていく。
しかしそれにしても、どうして鳴海が『特定の【幽霊】と交流した思い出』などを訊いてきたのだろうか。しかもその【幽霊】の特徴について、詳細に知りたがっていたような気もする。
そのことについて言及しようかとも思ったが……
「これ、晴香さんに凄く似合います。買ってもいいですか?」
「いやいやいや、僕がちゃんと買うって」
この幸せな時間に水を差したくないと思い、晴香は鳴海との時間に浸るのだった。
***
いくつかの洋服店をはしごした後、人気の紅茶屋さんでおすすめフレーバーのアイスティーをそれぞれテイクアウトした。
そのまま電車に乗り、地元の駅まで帰って来た二人は、夕日を背に鳴海の家へと向かう。
晴香も鳴海も、お互いに似合うと言われた服を買ったので、それぞれの店のショッパーを手にしている。最初は全ての荷物を鳴海が持つと言い出したが、晴香はそれをたしなめ、自分の荷物は自分で持つことに。
「鳴海くんのお母さん、経営コンサルタントしてるんだ。詳しくは知らないけど凄いね」
鳴海から家のことを色々訊ねる流れで、母親の話になった。
母子家庭で、母一人子一人でやってきたという鳴海の話に、晴香は静かに聞き入っていた。鳴海はあまり自分か自分のことを話さないタイプなのだ。だから彼のことを知ることができ、なんだか嬉しくなった。
「朝早く出かけて夜遅く帰って来るんで、あんまり顔合わせること無いんですけどね。今日も休日だけど出社してるんで、家には誰もいません」
さらり、とそう告げられ、しかし晴香はその言葉を少しだけ意識してしまった。
だって恋人の家に今から行くのだ。そして親はいないと言われたのだ。
それを意識しないほど、晴香は鳴海への気持ちに鈍感ではない。
「あ、あの……」
「安心してください」
「え?」
「前も言いましたが、あんなことやそんなことは、ちゃんと順序立てて、晴香さんの気持ちが追い付いてからしますから」
「うっ……」
考えていたことがバレていた恥ずかしさで、晴香はつい目を逸らす。
そんな晴香を横目に、鳴海は薄く笑った。
「まあ……晴香さんが可愛すぎて襲ってしまったらすみません」
「ちょっ!?」
「冗談です」
本当に冗談なのか怪しいし、何よりさっきから手の平の上で転がされている気がして、晴香は拗ねるように口を尖らせた。
鳴海はますます楽しそうに、そして嬉しそうに笑う。あまりにもその笑顔が幸せそうだから、なんだかんだ晴香もつられて笑ってしまうのだった。
そうこうしている内に鳴海の家へと到着する。
晴香をで迎えたのは、ナチュラルカラーで彩られたオシャレな外観の一軒家だった。
「とくに何も無いですけど、どうぞ」
鳴海に促され、家の中へとお邪魔する。
そのままリビングへと通された晴香は、黒いL字型のソファに腰かけた。
「広くてオシャレな家だね」
「母親いわく、投資用だか節税用だかで買ったとか何とか」
「へえー、なるほど」
なるほどとは言いつつも、その辺りのことは全然わからないので適当な相槌となった。
どちらにせよ、鳴海の母親がかなりやり手だということだけはわかる。いつか会えるものなら会ってみたいな、とも思った。
そんな晴香の隣に、鳴海も腰を下ろす。自宅なのもあってか、いつもよりオフモードでいるような気がした。
そこで晴香は、思い出したように家から持ってきていた袋を漁り、テーブルの上にそれらを――いくつかのマドレーヌを広げた。
虚を突かれたように、鳴海は目を丸くして首を傾げる。
「あの……実はマドレーヌを焼いてきたんだ。良ければ食べて?」
照れながらそう言うと、鳴海が獲物を見つけた肉食獣のような勢いでこちらを見てきたので、晴香は顔を引き攣らせた。
「あ……い、いらなければ別に……」
「何言ってるんですか。有難く頂戴しますよ」
物凄く真剣な表情でそんなことを言ってくるものだから、晴香は引き攣った表情から笑顔へと戻った。
鳴海は簡易フィルムで包装されたマドレーヌを、一つ一つ丁寧に手にしては、愛おしそうに眺めている。
その横顔があまりにも嬉しそうなものだから、晴香は顔を赤らめながら口を開いた。
「お、お菓子言葉っていうのがあってね?」
「お菓子言葉?」
「うん。贈り物をする上での隠れたメッセージみたいなものなんだけど……」
晴香が、物言いたげに鳴海を上目遣いで見つめる。
誘われるように、鳴海は問いかけた。
「マドレーヌはどういう意味なんですか……?」
「……『親密になりたい』」
か細い声ではあったが、晴香の言葉は、しっかりと鳴海の元へと届いていた。
考える暇も惜しいぐらいの行動力の速さで、鳴海は身を乗り出す。
そうして、晴香へと口付けた。
「んっ……」
唇だけを重ねるキス。
だけど今はそれだけでは物足りないのか、鳴海はハムハムと晴香の唇を甘噛みする。
それがくすぐったくて思わず笑ってしまった晴香の口内に、鳴海の舌が侵入した。
「っ……!」
今までしてこなかった一歩進んだそのキスに、晴香は思わず肩をビクリと震わせた。
しかし、鳴海のキスはどこまでも優しく、いつの間にかその身を委ねている自分がいた。
もしかしたらマドレーヌよりも甘いかもしれない。
そんなロマンチックなことを考えながら、晴香は鳴海と舌を絡め合った。
「鳴海、く……」
酸欠なのもあり、トントンと鳴海の胸板を叩くと、彼はゆっくりと唇を離してくれた。
潤んだ瞳で酸素を求める晴香を前に、鳴海はもう一度だけ唇を重ねると、どこか悔しそうに呟いた。
「やっぱり襲っちまってもいいですか?」
「鳴海くん!?」
「……冗談です」
たぶん冗談ではないのだろうが、彼はそう言って我慢を見せる。そして自分の中で込み上げる欲情を押さえつけるように、鳴海は改めてマドレーヌを手にした。
「いただきます」
先程まで晴香の唇を塞いでいたその口で、マドレーヌを咀嚼する。
いまだキスの余韻に浸っている晴香は、その様子をぼんやりとした表情で眺めていた。
「……美味しいです、晴香さん」
「そっか。それなら良かった」
鳴海の心からの賛辞に、晴香は穏やかに笑う。
見つめ合う二人の間に流れる空気は、実に柔らかく、甘美なものだった。
もう一度、キスをしてしまおうか。
お互いにそんなことを考えた――その時だった。
ドタドタドタと、誰かが廊下を走る音が鳴り響く。
「っ!」
思わず晴香は勢いよくそちらを見たが、そこには誰もいなかった。
「どうしました?」
「あ……いや。鳴海くん、家に誰かいる……わけないよね?」
「いませんしペットも飼ってないです」
「だよね。じゃあ……」
「【幽霊】、いましたか?」
「なんか、【誰か】が廊下を走る音が聞こえて……」
そこまで言いかけ、晴香はハッと口を紡ぐ。
そして恐る恐る鳴海の方を見た。
「ご、ごめん……」
「何がです?」
「こんな、人の家で【幽霊】の話なんて……無神経だった」
言いながら、晴香の脳裏によぎるのは過去のことだ。
小学生ぐらいの時、クラスメイトの家へ行った際、誰かがいるという不気味なことをつい口走ってしまった。途端にクラスメイトは恐がり、それ以来、家に呼ばれるどころか一緒に遊ぶことも無くなった。
鳴海が理解のある人だからと油断していたが、理解があるからといって自分の家に【幽霊】の気配があるなんて言われ、良い思いはしないだろう。
そんな晴香の不安を煽るように、背後の廊下からはドタドタと足音が響いていた。
どうしてこんな、【幽霊】なんて見えてしまうのだろうか。
晴香は泣きそうな気持ちで顔を伏せた。
「晴香さん」
不意に名前を呼ばれ、同時に手を握られる。
その握られた手の温かさに誘われ、晴香はゆっくりと顔を上げた。
「晴香さんのお陰で【幽霊】が居るってわかって助かります」
「え……でも……」
「退治するんで、付いてきてもらっていいですか?」
「………」
鳴海の表情には、変な同情など一切浮かんでおらず、心の底からそう思っているのだと書かれている。
晴香は浮かんだ涙をこっそり拭い、鳴海と手を繋ぎながら廊下へと向かった。
廊下の暗がり――そこに【幽霊】はいた。
腰からぐにゃりとありえない方向へと曲がった、五歳児ぐらいの【女の子】は、ドタドタと廊下の床を鳴らしている。
しかし先陣を切って廊下へと訪れた鳴海に気付いた瞬間、【彼女】は動くのをやめた。
「おい。出てけ」
喉の奥底を響かせながら発された低い声。
子供にも鳴海は容赦が無かった。いや、いきなり手を出さないだけ優しい扱いではあるが。
しばし、眉間にしわを寄せた鳴海と【彼女】は見つめ合う。
緊迫した空気を感じていた晴香だったが、【女の子】がケラケラと笑い玄関の方へと走って行くのが見えた。
途端に室内に静寂が戻る。
なんだかあまりにもあっけなく、それでいて鳴海らしい退治方法だったので、晴香の表情から思わず笑顔がこぼれた。
「晴香さん」
「ん?」
「俺は晴香さんと色んなことを共有できて幸せなんです。それが、晴香さんが長年悩んでいた【幽霊】のことなら、なおさら」
「鳴海くん……」
「晴香さんこそ、俺のこともっともっと頼ってください」
それは以前、晴香自身が鳴海に向けた言葉だ。
頼ってほしい。同時に沸き起こる、頼りたいという気持ち。
それは自分一人で完結するものではなく、相手と一緒に循環するものなのだと晴香は改めて学んだ。
「うん、ありがとう。いっぱい……頼らせて」
「はい」
見つめ合った二人は、繋いだ手をギュッと握りしめ、お互いに笑顔を見せ合った。
そうしてしばらく穏やかな時間を過ごしていた二人の元に届いたのは雨の音だ。
最初はパラパラとした細やかな音も、数分経った今では土砂降りの豪雨へと早変わりしていた。
しかも風まで強く吹いているものだから、実質嵐のような勢いだった。
晴香は窓際に立ち、さてどうしたものかと暗い空を眺めていた。当然傘は折り畳みしか持っていない。これはずぶ濡れ確定だろう。
――と、晴香が覚悟を決めるのと同時に、何処かへ電話していた鳴海がいつの間にか背後に立っていた。
「晴香さん。今親に連絡したんですけど」
「うん?」
「雨、今日中に止まないっぽいんで泊まっていってください」
「えッ!?」
「親も帰れそうにないからホテルに泊まるみたいなんで、気を遣う必要無いです」
「い、いやでもそんな……」
悪いよ、と言う前に、一歩鳴海は前へ出て、晴香をその身長差で見下ろす。
物凄い圧があり、それだけで晴香は言葉を飲み込んだ。
「こんな雨の中、ずぶ濡れになるのが確定しているのに俺が晴香さんを帰すと思いますか? 逆の立場だったら帰るように言いますか?」
「そ、それは……まあ……言わないけど……」
「そういうことです。わかったら晴香さんも、泊まるって家に連絡入れてください」
「は、はい」
有無を言わせぬ圧力とはこの事か、と思いながら、晴香は素直に従った。
連絡を入れた母親も、最初は渋る感じではあったが、一応息子の身を案じてくれたのだろう、最終的には許可をくれた。
そのことを鳴海に伝えようとした頃にはもう、晴香のお泊りセットがそこに用意されていた。パジャマも歯ブラシもある。鳴海は狩りを終えた猫のように胸を張っていた。
「何か他に必要なものがあったら言って下さい。服は俺が普段着てるものですけどいいですか?」
「もちろんだよ。ありがとう」
そこで晴香は思いついたように告げる。
「あの……もしキッチンと材料を使っていいなら、僕が夕ご飯作るよ。お礼になるかわからないけど」
「ホントですか!?」
予想以上に鳴海が喰い付いてくれたので、どうやらお礼にはなるようだと安心できた。
嬉しそうにする鳴海が、すぐに黒いエプロンを持ってきてくれた。
「あるものなら何使っても構わないです」
「そっかぁ、ありがとう。嫌いな食べ物とかある?」
「そうですね……酸っぱいものが苦手です。酢の物とか」
「あー、僕もそんなに得意じゃないや」
クスクスと笑って共感しながら、晴香はエプロンを着用してキッチンに立つ。人の家の台所だと思うと少し緊張した。
と、何やらカウンターの向こうに立つ鳴海から熱視線を感じる。
晴香がそちらを向いて首を傾げると、鳴海はうっとりとした表情で口を開いた。
「晴香さん……凄くお嫁さん感あって素敵です」
「ははは……」
幸せそうにしている鳴海を横目に、晴香はパスタでも茹でるかと冷静に献立を考えるのだった。
***
ガタガタと窓が鳴っている。もはや嵐や台風と名付けられていないのが信じられないほど、天候は悪化し、豪雨と強風で荒れている。
今、晴香は二つの事情で目が冴えてしまっていた。
一つは音だ。【幽霊】を見て、感じてしまう晴香にとって、突然の音というのは日常茶飯事であり、いまだに慣れない現象だった。
強風の所為なのか、それとも【幽霊】の仕業なのかわからない家鳴りに、晴香はビクビクと一人震えている。
そしてもう一つは、今自身が横たわるのが鳴海の部屋の、用意された布団の中だからだ。
最初はベッドを譲ると言われたがそれを阻止し、来客用の布団を使わせてもらうことにした。
それでも人様の――恋人の部屋で寝るという行為は、言葉にできない緊張感があるものだ。
果たしてそれは鳴海も同じだろうかと、隣のベッドの上へ晴香は視線をやる。高さの所為で鳴海の姿は背中ぐらいしか見えない。
「晴香さん」
「は、はい!?」
物凄いタイミングで声をかけられ、晴香はきょどった声を上げた。
ベッドの上の鳴海が寝返りを打って、晴香の方を見下ろす体勢へとなる。
「やっぱり起きてましたか」
「あはは。外の音、凄いから……」
「晴香さんってもしかして……音に敏感だったりします?」
ずばり言い当てられ、晴香は驚いた。
本当にこの鳴海という男は、自分のことをよく見て、考えてくれている……と、晴香はまた胸の奥が熱くなった。
「うん……。自然の音なのか、誰かが立てた音なのか、それとも【幽霊】の音なのかわからなくて、今日みたいな天気の日はとくに苦手なんだ」
「そうですか。代われるなら代わりたいです」
「あはは、その気持ちだけで十分だよ。ありがとう」
「……晴香さん」
「ん?」
「そっち行ってもいいですか?」
「えっ……」
予期せぬ言葉に聞き間違いかと晴香は思った。
しかし晴香が返答するよりも先に、鳴海が起き上がり、晴香の布団の中へと入ってくる。
「な、な、鳴海くん……!?」
全く展開についていけない晴香を、毛布の下で鳴海はギュッと抱きしめる。体格差の所為か、晴香の体は鳴海の腕の中にすっぽりと収まっていた。
お風呂上り特有の、鳴海の良い匂いが晴香の鼻孔をくすぐり、それが余計に晴香の心臓を早くさせた。
「すみません。嫌ですか?」
「い、嫌とかじゃ、ない、けど……」
「晴香さんとお付き合いできるようになって……そして【幽霊】のことを知って……少しも晴香さんと離れていたくないって思うんです。晴香さんが一人で【幽霊】に困らされているのが、嫌でしょうがないんです。俺も少しでも何かできればって、常にそういう気持ちなんです」
少しだけ腕に力を込め、より晴香と密着する。
背中に回された鳴海の腕や、目の前にある胸板から、彼の体温と鼓動を感じた。落ち着き払っているように見えて、体温は高いし鼓動も早い。
「晴香さん。紫色の着物を着た【男の幽霊】について、何か心当たりありませんか?」
唐突な鳴海からの質問。
晴香は少し考え……ぼんやりとした記憶を掘り返す。
「槙原さんの家や、この間四人で帰った時に、何かを知らせてくれる時に現れていた覚えがある。あと、ハッキリとは覚えてないけど……夢の中にも出てきたような気がする。でも、どうして?」
「俺の夢の中にも出てきたんです」
「え、何それ」
「『私の晴香くん』なんていう、聞き捨てならないことを言っていました」
低い声で、唸るように鳴海は告げる。
一方の晴香は首を傾げた。
「僕のことを知ってる【幽霊】ってこと? 誰だろう」
「ご先祖様ならいいんですけど。夢の中で首を絞められましたが」
「ええ!? そ、そんなご先祖様は嫌だなぁ」
「晴香さん。過去に【着物の男】と関わった覚えは無いんですか?」
「正直覚えてないんだよね。何せ【幽霊】は毎日、何十人も見えるから……」
「そうですか。どちらにせよ、少し警戒した方がいいかもしれません」
「うん。教えてくれてありがとね」
鳴海の腕の中に埋もれていた顔を上げ、晴香はお礼を口にする。
と、お互いの顔の距離の近さに恥ずかしさが込み上げた。
しばし二人は見つめ合う。
「……『晴香さんは俺の』って、もっと主張すべきですかね?」
「へ?」
「『私の晴香くん』なんて二度と言わせないぐらい、もっとハッキリ、『俺の晴香さん』だ、ってアピールしましょうか」
「え……どうやって……わっ」
するり、と鳴海が頭を下げた。
キスでもされるのかと思ったがそれは見当違いだった。
鳴海の唇は今、無防備な晴香の首元に置かれている。
「な、鳴海くん……?」
「失礼します」
そう言って鳴海は、舌先で一度晴香の肌を舐め、そのまま吸い付くように首元にキスをした。
「っん……」
まるで吸血行為のようなそれに、晴香は思わず声を漏らす。
一つの布団の中、抱き合う体勢で、首元の一点を鳴海に口吸いされている。
ドクドクと心音がやかましい。自然と呼吸も荒くなった。
「……ありがとうございます」
そう言って、鳴海はゆっくりと唇を首元から離す。
再び見つめ合う状態になったため、晴香は恐る恐る訊ねた。
「今、何を……」
「キスマークを付けました」
「ええっ!?」
平然と言ってのける鳴海に対し、晴香は一瞬にして顔を真っ赤にさせていた。
「き、キスマークって……なんで!?」
「『俺の晴香さん』って主張できるかと思いまして。虫よけ……いえ、【幽霊】よけです」
何故か彼は、自信満々にそう言い切った。
晴香は二の句が継げず、餌をねだる鯉のようにパクパクと口を開閉するばかりだ。
そんな晴香を、鳴海は愛おしそうに抱きしめる。
「晴香さんは、俺のことだけ考えててください。そうすれば何も恐くないです」
「……凄い自信」
ここまでくると、確かに逆に恐くなくなってくる。
気付けば物音も気にならなくなっていたし、何より……鳴海の腕の中が心地良くて、うとうととし始めていることに気が付いた。
「鳴海くん」
「はい」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
それぞれがそう伝え、ギュッと抱き合う。
外はまだ荒れているようだが、二人の耳に届くのは互いの鼓動だけだった。
