僕らの好きは幽霊だってぶっ飛ばす!

 翌朝、晴香は大いに悩んでいた。
 その悩みというのは、今日着ていく私服についてである。
 今日はこれから、朱音の家で幽霊退治を行う。もちろん鳴海と一緒に。
 つまり晴香からすると、高校に入って初めてできた女友達、そして生まれて初めてできた恋人と私服で会う日、ということになる。
 普段からとくにオシャレに気を使っているわけでも、ファッションセンスがいいわけでもない晴香からすれば、こんなに緊張する日は無いのだ。

「うわー、何着よう。こっち……いや、やっぱりこっちの方が……」

 ブツブツと独り言を呟きながら、とりあえず持っている中で一番気に入っている組み合わせを選ぶことにした。
 ピーコックブルーの無地のTシャツに、クリーム色のスウェット。アクセントにブラックの小さなバッグを肩からかける。
 落ち着いた色合いのいわゆるノームコアファッションを身にまとった晴香は、すでに緊張している心をなんとか落ち着かせ、家を出た。
 鳴海との待ち合わせ場所は最寄りの駅で、徒歩で十分ぐらいのところにあった。
 休日なだけあり、それなりに人混みができている。カップルや家族連れ、休日出勤なのかスーツのサラリーマンなどが周囲に見える。
 そしてもちろん【幽霊】の姿もある。人が多いと生きている人間なのか【彼ら】なのか見分けが付きにくいので、晴香はあまり人混みが得意ではない。

「……!」

 そんな人混みの中、晴香はすぐに鳴海を見つけることができた。
 カーマインのややぶかぶかなパーカーに、反してぴっちりとしたブラックのスキニージーンズ。スマホをいじる指にはいくつかシルバーリングがはめられており、耳にもピアスがついている。学校では禁止されているからいつもは外しているということなのだろう。
 柱に背を預け、もたれかかっているその姿だけでわかる。彼がモテる男だということが。
 実際、晴香が遠巻きに見ている現在も、絶賛ナンパされ中だ。
 二人組の女性からきゃあきゃあと声をかけられているが、鳴海は彼女たちを一瞥しただけで、すぐにスマホをいじり始めていた。
 自分には一生縁の無さそうな光景だなぁと思っていたら、こちらの視線に気付いたのか、鳴海が顔を上げて晴香の方を見る。
 途端に鳴海の目は輝き、ナンパしてきていた女性たちを無視して通り過ぎ、一目散に晴香の元へとやって来た。

「おはようございます」
「おはよう鳴海くん」

 駆け寄ってきた鳴海を、晴香は改めてまじまじと眺めた。
 本当に、上から下までカッコいい。さっきは見えなかったが、スニーカーもたぶんどこかのブランドもので、彼がファッションに敏いことがよくわかる。

「鳴海くん、私服かっこいいね」
「晴香さんにそう言われると凄く嬉しいです」

 鳴海が、わかりやすいほど機嫌良く言うものだから、晴香もつられて笑ってしまう。

「晴香さんの私服も、とても似合ってます」
「あはは、ありがとう。これぐらいしか着るものないぐらい、全然服が無くてさぁ。焦っちゃった」
「じゃあ今度、一緒に買い物にでも行きますか?」
「え……それって……」

 晴香の言葉に、こくこくと鳴海が頷く。
 つまりそれはデートのお誘いということだ。
 あまりにも自然な流れでデートに誘われてしまい、晴香はさすがモテる男は違うなと思った。しかしよく見ると鳴海の耳が赤く色づいており、彼なりに勇気を出した上での提案だったことがわかる。
 その勇気と行動力を尊敬すると同時に、晴香は胸の奥にぬくもりが宿るのを感じた。

「……うん。行こっか」
「ホントですか?」
「もちろん。僕、ファッションセンス無いから、色々教えてよ」
「……はい!」

 鳴海が、嬉しそうに返事をした。
 そんな彼を見ていると、また頭を撫でてやりたくなる。そんな衝動、生まれて初めてだ。
 だがさすがに往来で、しかも朱音の家に行くという予定がある中、それをするのはまずいだろうと思い、晴香は思いとどまる。
 その代わり、機会があればまた撫でてあげようと思いながら、晴香は鳴海と共に駅へ向かうのだった。




   ***




 到着したそこには、ベージュの壁にブラウンの差し色が入った、二階建てタイプのメゾネットアパートが待っていた。
 おそらくリノベーションしたばかりなのだろう。周囲の建物の年季に比べ、このアパートだけとても小奇麗だ。
 駅から数分。駅前には商店街やスーパーが並び、一方でこの辺りは閑静な住宅地となっている。
 実にいい立地じゃないかと晴香は思いながら、教えられていた部屋のチャイムを、緊張した面持ちで慣らした。

『はーい』
「あ、あの、御影です」
『やっほー! 今開けるねー』

 インターフォン越しでもわかるほど、朱音は明るく対応してくれた。
 少しの間を置き、ガチャリと扉が開く。

「来てくれてありがとうー」

 そう言いながら出てきた朱音の姿は実に可愛らしかった。
 落ち着いた色合いのローズピンクのマキシ丈ワンピースには、白い小花柄が散っている。いつもは肩に付いているミディアムボブは、シュシュで一括りにされていた。
 その快活で元気なイメージからなんとなくパンツスタイルをイメージしていたが、実際はガーリー系を好むようだった。
 同年代の女子の私服をちゃんと目の当たりにしたことがなかった晴香は、しばらく鳴海に対するものとは別の意味で、朱音に見惚れてしまっていた。

「さ! 上がって上がって」
「あ、こ、これ、良ければどうぞ」

 朱音の言葉で我に返り、来る途中で鳴海と一緒に買った手土産を朱音へ渡す。
 彼女の好みがわからなかったので、卵がたっぷり使われているらしいプリンと焼き菓子の組み合わせである。
 なんとなく袋に書かれている店名からその中身を察したのだろう。朱音は明るい表情を更に輝かせた。

「えー、いいの? ありがとう、みんなで食べよう!」

 心から喜んでくれているのが伝わってくる。
 いつも笑顔でいてほしい人だな、と晴香は思った。そう相手に思わせる魅力が朱音にはあった。
 だから今回の幽霊退治も、できることがあれば積極的に協力したいと思えた。
 そんなことを考えながら、晴香は鳴海を伴って朱音の部屋へと入る。
 部屋の中は綺麗に片付いており、大きな窓から入る日の光がとても心地よかった。
 晴香と鳴海は用意されていたカラフルな座布団にそれぞれ座り、朱音はキッチンでさっき受け取ったお土産を食べる準備に取り掛かっていた。

「すごく、あの……可愛い部屋だね」

 どうやら彼女は、服だけでなく小物や家具などの身の回りに置くものも可愛い系統で揃えているようだった。
 座布団の色合いもそうだし、カーペットの色やソファの色も、温かみを感じさせる可愛い色合いだ。こちらへとやって来た朱音が用意してくれたコップやお皿も、花柄があしらわれている。

「ありがとうー。お花の柄が好きでさー、自然とそうなっちゃうんだよね」

 嬉しそうに言いながら、朱音も座布団の上に座る。
 こうして改めて、三人は向き合うこととなった。
 この中で両者とも知り合いなのは晴香なので、必然的に口を開くこととなる。

「えっと、鳴海くん。こちら、うちのクラス委員長の槙原朱音さん」
「よろしくお願いします」
「それで、槙原さん。こちらが僕の……」

 そこで言葉が途切れる。
 顔を赤くしつつ、晴香は斜め向かいから受ける鳴海からの熱い視線に圧され、なんとか言葉を続けた。

「僕の、こ、恋人のっ……本郷鳴海くん」
「よろしくー!」

 晴香をニヤニヤと見守りながら、朱音は鳴海に向けてペコリと頭を下げた。

「御影くんもだけど、本郷くんも、いきなり呼びつけちゃってごめんね」
「いえ。先輩の力になれるなら何よりです」
「その先輩ってのは私? それとも御影くん?」
「……どっちもです」

 からかう朱音に対し、鳴海は眉間にしわを寄せ、目を逸らしながらそう答えた。
 それを見て朱音は大いに笑った。

「いやごめんごめん。正直に言っちゃうけどさ、本郷くんって入学早々3年の先輩とやり合ったとか、他校の不良からも一目置かれてるとか、そういう噂がけっこうあるから恐い子なのかなと思ってて」
「そうだったんだ……」

 朱音から聞く新情報に晴香が目を丸くすれば、鳴海はますます目を逸らした。

「でも、実際こうやって会ってみると思ったより恐くないし……御影くんのことホントに好きなんだなって伝わってくる」
「え!?」

 声を上げたのは晴香の方だ。
 朱音は晴香の方を見て、ニッと口端を持ち上げた。

「御影くん気付いてないの? 彼、もうずーっと御影くんのこと見ながら、私のことをちょっと警戒してるんだよ」
「け、警戒? なんで?」
「そりゃあ嫉妬……」

 そこで言葉が途切れたのは、鳴海からガッツリと睨まれたからだ。
 まるで、なつかない猫のそれと同じような態度なものだから、朱音はますます笑ってしまう。

「御影くん。恋人がご機嫌斜めのようですよ」
「ぅえ!?」
「機嫌をなだめて差し上げて?」

 いきなり白羽の矢が立ち、晴香はうろたえる。
 鳴海の方を見ると、彼は口角を下げたまま、ジッと晴香を見ていた。何かをねだるように。
 だから晴香が恐る恐る手を伸ばすと、鳴海は自ら頭を下げてきた……ので、よしよしと頭を撫でてやる。

「おおー!」

 鳴海の頭を撫でてやる晴香。その光景を前に、朱音は感心したように拍手をした。
 完全に動物園の飼育員気分だと、晴香はひそかに思った。

「本郷くんって、いつから御影くんのこと好きだったの?」

 単刀直入に朱音はそう訊ねる。
 鳴海は気持ち良さそうに頭を撫でらながら、ゆっくりと口を開いた。

「中学の時、俺を助けてくれた時からですね」
「へえー。何があったか知らないけど、御影くんやるねー」
「あの出会いは俺にとって運命的なものだったと今でも思っています」
「おお……熱い」

 言いながら朱音は、思い出し笑いをするように微笑んだ。

「運命的、かぁ。わかるなー。私もね、中学の時にある女の先輩との運命的な出会いがあってさ。それで勢いのまま高校調べて、今のとこに通ってるし」
「わかります。俺も晴香さんを追いかけてあの高校に来たので」
「話わかるねー、本郷くん!」

 気付けば、鳴海と朱音の精神的な距離が近付いていることに晴香は気付いた。
 からかうように相手をつついて反応を見つつ、共感を交えながら自分のことを打ち明け、距離を詰める。
 意図的なのか無意識なのかはわからないが、朱音はこうやって多くの人と仲良くなってきたのだろう。晴香は心の中で感心した。

「で、こうして一人暮らししてるわけなんだけど……」

 その言葉の途中だった。
 突然、テレビがパッと点き、お昼のワイドショーが流れた。
 あまりにも突然のことで、鳴海も撫でられている頭をゆっくりと上げる。
 朱音だけが、肩を落とし、文字通り頭を抱えていた。

「はあ。こんなことになってんだよね」
「これが……槙原さんが悩まされてるっていう、霊障?」
「言っておくけど、テレビ買い換えたばかりなんだよ?」

 朱音を嘲笑うように、テレビは点いたり消えたりを繰り返したり、いきなり消音になったかと思えば耳を塞ぎたくなるほどうるさくなったりした。
 朱音は盛大に舌打ちをし、テレビのコンセントを抜いてしまう。
 しかしその瞬間、廊下から玄関の方へ向かうドタドタという足音が響き渡った。
 しばしの緊張を孕んだ沈黙。
 それを破ったのは朱音のため息だ。

「……非通知の電話とかもしょっちゅうでさ。ホント嫌になる」

うんざりとした表情を浮かべた朱音は、ちらりと晴香の方を見る。

「で、どう? いる?」

 それはもちろん【幽霊】のことだ。
 晴香は改めて室内を見渡した。

「いや……見える範囲にはいない、かな。ちょっと他の部屋とかお風呂場を見てみても平気?」
「いいよいいよー」

 そう言って晴香が立ち上がると、同じように鳴海も立ち上がった。
 一緒に部屋の散策に向かうということなのだろう。
 あくまで一人暮らしの部屋の広さなので、そこで三人も固まっては動きにくくなると思い、朱音は座って二人を待つことにした。

「えーと、ここがお風呂場で……」

 扉を開けると、女子特有のイイ匂いが広がったが、とくにこれといって変なところは無い。
 排水溝や換気扇までよく見てみるが、変わりは無い。
 と、その時、するりと腰に何かが巻き付いた。それは背後から抱き着いてきた鳴海の腕だった。

「ちょっ……鳴海くん!?」
「………」

 鳴海に抱き着かれ、お風呂場の扉を開けた姿勢のまま晴香は動けなくなる。
 その背中に顔をグリグリと顔を押し付ける鳴海の挙動は、完全に甘えてくる猫だ。

「ど、どうしたの……?」
「……なんか、上手く説明できないんですけど」
「う……うん?」
「槙原先輩がイイ先輩で安心してホッとしたのと、でも晴香さんが女の家にいるのがモヤっとするのと、お風呂場で無防備にしてる晴香さんにムラッとしました」
「それは……上手く説明できないね、うん」

 とにかく今、鳴海は様々な感情と闘っているということなのだろう。
 ムラッとしたという部分はスルーして、晴香はそういうことにした。

「晴香さん。買い物デートももちろんですけど、今度は俺の家に来てください」
「お、オッケー?」
「それで、俺の家でも今ぐらい無防備でいてください」
「そ……それは難しいかも……」
「何故です?」

 グッと腰に巻き付いた腕が強くなる。
 しかも耳元で鳴海が喋るものだから、晴香はなんとも言えない気分になった。
 その上で、その問いに小声で答える。

「だ、だって……」
「なんです?」
「だって、その……鳴海くんの家ってことは恋人の家ってことでしょ? 絶対緊張するから、今ぐらい無防備なんて無理だよ……って、うわぁ!?」

 言葉の途中で、体が持ち上がるほど晴香は強く抱きしめられた。
 背中に鳴海の厚い胸板を感じる。
 どうやら鳴海の心のツボを刺激したようで、彼はとても歓喜しているようだった。

「晴香さん……好きです」
「し、知ってる知ってる」
「何百回でも言いたいです」
「わ、わかったわかった」

 鳴海はスリスリと晴香の首元に頬擦りし、その華奢な体を味わっていた。
 相変わらず全身で好きを表してくれる熱烈な男だ……と思いつつ、しばらく晴香は好きなようにさせておいた。
 ――と、不意に、視界の端で何かが動くのが見えた。
 それは鏡だ。風呂場に設置された鏡に、晴香と鳴海以外の【もの】が映っている。

「……っ」

 京紫色の着物。そこから伸びた白い手が、上を指さしている。
 鳴海のことも忘れて勢いよく振り返ったが、そこには当然誰もいない。
 ただ、廊下から繋がる階段が目に映った。

「晴香さん?」
「ん……ちょっと、上も見ないと……」

 なんとなく言葉を濁しながら、晴香は二階へと向かう。
 階段をゆっくりと上がりつつ、先程目にした京紫色の着物の【誰か】について思いを馳せる。
 何か、記憶に引っ掛かるものがある。しかしその記憶の元が何だったかまだわからない。
 ふとちらつくのは夕日に照らされた道だ。そこに、【誰か】と並んで座り、喋っていた気がする。
 晴香は誰かに手招きされるような感覚を覚えながら、ぼんやりとした状態で二階の部屋に入った。
 小花柄で統一されたベッドや机の置かれた私室が目の前に広がる。

 ああ――いる。

 直感的に晴香にはわかった。
 どことなく焦点の合わない目付きのまま、左奥のクローゼットの方を見る。
 クローゼットの下からは、大量の長い髪の毛がはみ出ていた。
 蠢く虫のように、ざわざわと髪の毛は動いている。
 開けなければ。
 クローゼットを開けて、そして……

「晴香さん!」
「っ!」

 鋭い呼称にハッと我に返る。
 晴香はそこで初めて、自身が二階に上がり、そして朱音の自室のクローゼットを開けようとしていることに気が付いた。
 伸ばしかけた手は、鳴海に優しく掴まれている。

「あ、あれ……僕……」
「大丈夫ですか? 二階に上がるあたりからなんだか様子がおかしくて……」
「今は大丈夫。ごめん、ありがとう」

 晴香がそう言うと、鳴海は緊張していた顔をゆるませた。
 そして、ちらりと鳴海の視線は床を……クローゼットの下からはみ出ている大量の長い髪の方へと向けられた。

「気色悪いですね」
「そう……だね」

 正直な鳴海の言葉に晴香は苦笑する。
 手を繋いだまま、鳴海はクローゼットを開けようとし、そこで晴香の方を振り返った。

「晴香さんは目を閉じていてください」
「え……」
「【恐いモノ】、わざわざ見る必要ないでしょう?」

 頼もしい鳴海の言葉。
 確かに、見なくていいなら【奴ら】を見たくない。人のカタチを保っている者もいれば、言葉にするのもはばかれるようなおぞましい姿の【奴ら】もいる。
 何度目を逸らし、目を閉じ、うずくまり、恐い思いをやり過ごしてきたか。
 だから……だから晴香は言った。

「ううん。鳴海くん……僕は鳴海くんがしてくれること、ちゃんと最後まで見届けるよ」

 ハッキリとそう告げた。
 意表を突かれたのか、鳴海は今まで見せたことの無い驚きの表情のまま固まっていた。それは目を見開いて固まる猫の姿にそっくりだった。

「僕のこと気にかけてくれてありがとう。確かに【幽霊】は見たくない。だけど、鳴海くんが……恋人が頑張ってくれている横で素知らぬふりなんて、そんな薄情なことはしたくない」
「晴香さん……」
「僕は役立たずだけど、でも……【幽霊】と闘うことは共有したい。鳴海くんだけにそれを押し付けたくないよ」

 晴香の表情は落ち着き払っており、それでいて闘いに備えた熱を宿していた。
 鳴海は、そんな晴香に痺れていた。惚れ直したと言っても過言ではない。
 今の晴香は、中学生の時に鳴海を助けてくれたあの時の姿と重なる。それぐらい勇敢で、それでいて慈愛に似た優しさに満ちている。
 やっぱりこの光が欲しい。自分だけの光であってほしい。
 鳴海は惚れ惚れとしながら、晴香に対しますますそういった陶酔の想いを抱くのだった。

「晴香さん……愛しています。好きです。本当にカッコいいです。この身に替えてお守りしますし、一生傍にいます。」

 想いが溢れてたまらない、といった感じで鳴海が賛辞を口にするものだから、段々と冷静になってきた晴香は顔を熱くさせた。

「あ、ありがとね。ほら、【幽霊】退治、がんばろ!」
「はい」

 二人は手を繋いだまま、クローゼットへと向き直る。
 鳴海が、クローゼットの扉に手をかけた。
 一瞬の間。
 そうしてクローゼットが開かれる。

「……!」

 視界に入り込んだのは、暖簾のように下がった大量の毛髪だった。
 その毛先から辿って視線を上げると、逆さになった頭がこちらを見下ろしていた。
 女とも男ともわからない【それ】は、血走った目で二人を睨みつけている。
 身の毛もよだつとはこのことか、と晴香は思った。
 先程、鳴海の前で啖呵を切ったはいいものの、晴香はこれ以上どうすればいいのかわからなくなる。下手をすればこのまま取り込まれてしまうのではないだろうか。そんな気さえした。
 だが―――横から伸びた鳴海の腕が、むんずっと垂れ下がった髪を掴む。

「偉そうに晴香さんを見下ろしてるんじゃねぇ!」

 そんな怒声を上げ、彼は思いっきり掴んだ髪の毛を引いた。
 途端に【幽霊】は、まるで引っこ抜かれるかのような動作でずるりと落ちてきて、思いっきり床に打ち付けられた。
 それにより霧散してしまい―――つまり退治が済んでしまったのだった。

「………」

 晴香は、パチパチと何度か瞬きを繰り返しながら鳴海の横顔を見る。
 この男に恐いモノはないのだろうかと、そんなことさえ思ってしまう。
 どちらにせよ諸悪の根源である【幽霊】を倒してくれたので、晴香は鳴海に笑顔を向けた。

「鳴海くん、凄いよ! ありがとう、これでたぶん槙原さん大丈夫だ」

 喜びと安堵に満ちた晴香は、握っていた鳴海の手に更にもう一方の手を重ねてギュッと握った。
 朱音がもう困らないこと、そして鳴海が無事で済んだことが嬉しくてたまらない。晴香の笑顔にはそう書かれていた。

「晴香さん……」

 その笑顔に吸い寄せられるように、鳴海は目を細め、そっと顔を近付ける。
 晴香が、あ、と思った瞬間にはもう、二人の唇は重ねられていた。
 甘く、柔らかい感触。
 何物にも代えられない甘美な時間が、二人の間を過ぎた。

「……ここ、槙原さんの家だよ」

 唇を解放された晴香は、上目遣いで物申した。その瞳は潤み、顔も蒸気し、酷く煽情的である。それが無自覚であるものだから、対面する鳴海からすればたまったものではなかった。
 だが彼は、その強面の下でなんとか自制し、口を開いた。

「すみません。晴香さんが可愛すぎて我慢できませんでした」
「正直だなぁ……」
「俺はいつでも晴香さんには正直でいますよ」

 そこに微塵の嘘も感じられない。
 晴香からすれば、そんなふうにどこまでも真っ直ぐな鳴海の方が可愛いと思えた。
 そうしてしばし二人は見つめ合った後、手を繋いで一階へ降りていった。




   ***




「いや~、もうほんっとぉーにありがとう!」

 起こったことを全て話し終えるや否や、朱音は拝むように何度も何度も頭を下げた。
 彼女は常に明るく振舞っていたが、実際は【幽霊】の起こす現象に酷く困らされていたのだろう。事の顛末を話し終えた際に見せた、彼女の安心しきった表情がそれらを物語っていた。

「もうなんてお礼したらいいか……っていうかなんかお礼したいんだけど何がいい?」
「いやいやいや。少なくとも僕はただの付き添いみたいな感じで……お礼なら鳴海くんにしてあげて」
「俺は晴香さんからお礼を頂くので大丈夫です」
「君たちラブラブかよ! 知ってたけどね!」

 あっはっは、と笑う朱音と、鳴海の隣で顔を赤くさせる晴香。
 ひとしきり笑った朱音は、改めて真っ直ぐ二人の顔を見て告げた。

「二人とも、本当にありがとう。私ができることなんてたかが知れてるけど、何かあったら全力で力になるよ」
「槙原さんにそう言ってもらえると心強いなぁ」
「困ったことがあったら気兼ねなく言ってね」
「うん。そうさせてもらう」

 そうして晴香と鳴海は数回言葉を交わし、朱音の家を後にした。
 朱音は二人の姿が見えなくなるまで手を振ってくれていた。

「……イイ先輩ですね」

 駅まで向かう途中、鳴海の方がそう切り出した。
 朱音のことを言っているのだろう。その意見に同意だし、だからこそ間接的に自分が褒められているような気になって、晴香は嬉しくなった。

「だよね。僕も今回の件があるまではクラスの委員長ぐらいの印象だったんだけど……本当にイイ人だなって思う」
「晴香さんの周りにイイ人がいて安心しました」
「あはは。そんな大げさな」
「だって……」

 鳴海は一度言葉を区切る。

「だって晴香さんは、常に【幽霊】っていう嫌なモノが周りにいるじゃないですか」
「それは……うん、そうだね」
「だから【幽霊】に負けないくらい……【幽霊】が気にならないぐらい、晴香さんがイイ人たちに囲まれていればいいなぁって、そう思うんです」
「………」

 鳴海の言葉は、温かく、そして優しいものだった。
 常に【幽霊】が見えている晴香は、それが当たり前になりすぎて、いつの間にか自分だけが耐えればいいと、そう思って過ごしてきていた。
 だけど本当は、【幽霊】が見えるなんて嫌だった。その嫌という気持ちを押し殺し続けてどれぐらいになるだろう。
 鳴海は、そんな押し殺し続けた晴香の気持ちを掬い上げてくれた。
 彼は、誰よりも自分を見てくれている。わかろうとしてくれている。

「晴香さん?」

 いつの間にか足を止めていた晴香を、鳴海は数歩行ったところで振り返り訊ねた。

「鳴海くん」
「はい」
「僕……鳴海くんのそういうところ、凄く好きだよ」
「………」
「僕のことを尊重してくれて、思いやってくれるところ。そこに救われてるって、僕、気付いたんだ」
「………」
「ありがとう鳴海くん。僕も……鳴海くんが好きだ」

 ゆっくりと、鳴海が目を見開いた。
 離れていた距離を埋めるよう、一歩一歩、晴香の方へ近付く。
 そして目前に迫った晴香を、鳴海は優しく抱きしめた。

「晴香さん……」
「うん……」
「大好きです。愛しています」
「僕も。いや、鳴海くんほど情熱的ではないかもしれないけど……でも僕も、好きだよ」

 愛情のこもった鳴海からの抱擁に、晴香はうっとりとした思いと共に身を任せた。

「あの……」

 しばらく抱き合っていると、鳴海から控えめな声が上がった。
 らしくない彼の様子に、晴香は何事かと見上げる。

「今日、あの二階に入った時の晴香さん……少し様子がおかしかったですよね」

 鳴海が言っているのは、朱音の家の二階に行き、吸い込まれるようにクローゼットを開けようとしたあの時のことだろう。
 確かに晴香もあの時は、何かに乗っ取られたように心身がぼんやりとしていた自覚がある。
 晴香自身でも不可解な現象だったのだから、それを傍目に見ていた鳴海からすれば異常な動きこの上なかっただろう。

「ああ。あの時は僕もなんだか変な感じで……。心配かけちゃってごめんね」
「無事ならいいんです。ただ、晴香さんが何処かへ行ってしまいそうで恐かったんです。だから……」
「うん?」
「お互いの位置がわかるアプリ、入れてもいいですか?」
「え!?」

 話が予想外な方向へ転がり、晴香は思わず声を上げた。

「アプリ……そんなのあるの?」
「はい。GPSみたいなものです。もちろん悪用しません。何かあった時の、万が一用です」

 鳴海は、実に真剣な面持ちで言葉を連ねる。
 しかもすでにスマホを取り出し、実際にアプリを見せてくるものだから、晴香は気圧されてしまった。

「う……うん。入れてもいい、けど……」
「ありがとうございます」

 やや言葉を被せ、鳴海はこくこくと嬉しそうに頷いた。
 なので晴香は思わずジト目で鳴海に視線を向ける。

「……本音を言うと?」
「………」
「……鳴海くん?」
「ちょっとだけ……独占欲も入っています」

 顔を背けてそう呟く鳴海の前で、晴香は盛大にため息をついた。
 まあそんなことだろうとも思っていたので、言われた通りアプリは入れておく。確かに万が一の時に便利かもしれないから。

「ほら、アプリ入れたよ。ホントに悪用は駄目だからね?」
「はい!」

 嬉しそうに返事をする鳴海から更に強く抱きしめられ、晴香は小さくうめき声を上げた。




   ***




「はー……無事に一件落着して良かったぁ」

 思いっきりベッドに飛び込み、枕を抱きながら晴香はそう口にする。
 一時はどうなるかと不安だったが、鳴海のお陰で解決することができた。朱音の安心した笑顔を見ることもできた。
 本当に良かったと、晴香も心から安堵することができた。
 と、そこで思い出したように鳴海へメッセージを送る。というのも、鳴海はわざわざ晴香の家の前まで送ってくれたからだ。

『鳴海くん、家に着いた?』
『はい、着きました』
『良かった。送ってくれてありがとね』
『いつでも送りますよ』
『今日のこと全部ひっくるめて、ありがとう』
『お役に立てて何よりです』

 そこでニッコリ笑った犬のスタンプを送れば、鳴海からは無表情でハートを飛ばす猫のスタンプが返ってきた。ふふふ、と思わず晴香は笑ってしまう。
 数日前は、鳴海のこんな一面など知りもしなかった。しかし一度知ってしまうと、彼の魅力がより伝わってくるし、もっともっと色んな一面を知りたいと思うようになっていた。
 今日彼に伝えた通り、晴香は己が鳴海に明確に惹かれていることを自覚できた。
 それもこれも、ある意味では【幽霊】のお陰でもあるのだから思わず苦笑してしまう。

「そういえば……」

 晴香は思い出す。
 朱音の家のお風呂場、その鏡に映った京紫色の着物から覗く白い手を。
 あの手は、確かに二階を指していた。まるで晴香に【幽霊】の居所を教えるように。

「あれは……なんだったんだろう……」

 疑うまでもなく、あの手も【幽霊】だ。
 さすがにあれだけのことで【良い霊】とまでは言い切れないが、少なくとも困っていた晴香を導いてくれた優しさは感じられた。
 この間昼食を取りながら鳴海にも話したが、河で溺れかけた時に助けてくれた【幽霊】もいれば、相談に乗ってあげてお礼を言ってくれた【幽霊】もいる。つまり、【悪い霊】ばかりでもないのだ。

「全員【良い霊】ならいいのに……って、それは無理か」

 その言い分だと、世の中の人間が全員良い人ならいいのに、と言っていることにほかならない。
 自分で自分にツッコミを入れながら、晴香は目を閉じる。
 充実した良い一日ではあったが、その分ドッと疲れがやって来た。
 晴香が眠りに就くまでそう時間はかからなかった。

「………」

 ゆりかごの中のような居心地の良い闇の中。
 そこで晴香は気付く。自分の頭が、誰かの膝の上に乗っていることに。そして、頭を【誰か】に撫でられていることに。

『……晴香くん』

 その声はとても澄んでいて、そしてどこか上品さを感じられた。
 優しく頭を撫でてくるその手も、優しく、慈しみに溢れている。
 目を閉じていても何故か【男】の姿が見えた。
 京紫色の品位ある着物を着こなし、鎖骨にかかるほどの黒髪を一つに結んだその【男】の顔は、しかしモヤがかかって見えない。

『可愛いね、晴香くん。あの時と変わらず、君は可愛いね』

 歌うように【男】は言う。
 あの時とは、一体いつのことだろうか。
 晴香が疑問に思っていると、不意に頭を撫でていた手の動きが止まる。
 ゆっくりと【男】が顔を近付けてきたのがわかった。

『本当はただ見守っていようと思ったんだよ。でも君は、あんな男と……』

 低く掠れた声。
 それは恨みのこもった声音だった。

『……許さないから』

 気付けば、【男】の両手が晴香の首元にかかっていた。
 殺されるかもしれない。
 嫌だ。離して。
 晴香が必死にそう願うのと同時に、ハッと目が覚めた。

「っ……!」

 ドクドクと激しく打ち付ける鼓動に、荒々しい呼吸。
 しばらく、晴香は汗だくのまま天井を見つめていた。

「夢……?」

 呟き、今が現実で、さっきまでのが夢であることを確認する。
 変な……そして恐い夢を見た、と思った。しかしそう思う端で、次々に夢の内容が消えていってしまう。
 結局、晴香はぼんやりと天井を眺めている内に、夢の内容を全て忘れ去ってしまっていた。

「なんだったんだ……」

 体を起こし、頭を抱えながら晴香は思わずそう呟く。
 夢の中身は何も覚えていないのに、何故か脳裏には京紫色が浮かぶのだった。