「晴香さん、ちょっといいですか?」
昨日と同じセリフを、しかし呼び方を変えて彼――鳴海は晴香のクラスへやって来た。
晴香はお弁当箱を持ったまま固まっているし、晴香の友人たちはその呼び方の変化によって何か色々と察していた。
「ど、どうしたの?」
「お昼、一緒しませんか?」
言われて、晴香は背後の友人たちへ視線を向ける。昼食はいつも彼らと取っている。だが、友人たちはとても良い笑顔で鳴海の方へ行くよう促していた。
なので鳴海の方へ向き直った晴香は、少し顔を赤くさせながら一つ頷く。
「ありがとうございます。イイ場所あるんで、そこ行きましょう」
そう言われ、晴香は鳴海の背中を追いかけた。
鳴海は、背後から見ていても華がある。それに廊下ですれ違うだいたいの人……とくに女子が、鳴海の方にチラチラと視線を送っている姿がよく見える。
やっぱりモテるんだなぁ、と晴香がしみじみ感じている内に、鳴海は足を止めた。
そこは、屋上へ繋がる階段の踊り場だった。
屋上は封鎖されているので、実質ここがこの校舎の最上部分となる。
確かにここは人が来ないし、静かで落ち着く場所だ。
「うわぁ……確かにイイ場所だね」
「気に入ってもらえたなら何よりです」
鳴海が嬉しそうに微笑する。それを間近で受け、晴香はつい照れてしまう。
自分の何気ない一言でそこまで喜んでくれるなんて……と、何とも言えない気持ちが沸き起こる。
そうしてお互いに手近なところへ座り、お弁当を広げた。
晴香は母親の手作り弁当だ。料理好きなのもあり、お弁当も毎日率先して作ってくれる。栄養バランスや色合いまで考えてくれているものだから、本当に頭が上がらない。
一方の鳴海は、コンビニで買ったであろうサンドイッチが二つと、唐揚げのBOXが一つ、菓子パンが一つ、そして炭酸飲料水が用意されていた。
「鳴海くん、けっこう食べるんだね」
「俺からすると、晴香さんが少ない気がします」
「そ、そっかな」
「そういうところも可愛くて好きです」
「ぜ、全肯定かい」
照れるあまり思わずそんなツッコミを入れれば、鳴海は楽しそうに笑ってくれた。
「晴香さんっていつから【幽霊】が見えるようになったんですか?」
炭酸飲料のペットボトルを開けながら、鳴海がそう訊ねる。
晴香はお弁当を摘まみながら、記憶を辿るように目線を上にやった。
「うーんとね、6歳ぐらいの時だったかな。おじいちゃんちの裏の山に壊れた祠があってね? なんとなしにお参りするようになったから【幽霊に好かれやすい体質】になった、って前に霊媒師さんに言われたことがある」
「そんな小さい時から……大変でしたね」
「まあ、それなりに。視界の端に足とか髪の毛とか見えると生理的に気持ち悪くて恐いし、人混みで僕の腕や足を掴んだりしてくるのは物理的に困ったりもしたなぁ」
「……晴香さんに、よくも」
明らかに不機嫌になる鳴海を前に、晴香は慌てて話題を逸らした。
「いやでも、悪い【幽霊】ばっかりでもないんだ」
「というと?」
「学校の遠足で行った河原で溺れかけた時、僕を引っ張って助けてくれた【女の幽霊】がいたりとか……あと、下校途中で見かけた【男の幽霊】のことを普通の人間だと思って、相談に乗ったりとかしたことあるし。ありがとうってお礼言われてハッとしたらもう姿が無くて、幽霊だったの、って驚いた後に笑っちゃったよね」
「そんなことが……」
「といっても、ほとんどの【幽霊】はいたずらみたいなちょっかいばっかりかけてくるから、できるだけ関わり合いになりたくないんだけどねー」
「安心してください」
「え?」
「今は晴香さんの傍に俺がいますから」
「う……うん」
まるで初恋を知った少年のように――実際そうなのかもしれないが――その目はこの世界の全てを恐れていない。
晴香をこの世のありとあらゆる巨悪から守り通すという強い意志が、その瞳から伝わってくる。それが嬉しく、それでいて恥ずかしいものだから、晴香はお弁当を食べる行為へと逃げた。
そんな晴香を愛おしそうに眺めながら、鳴海は思い立ったように訊ねる。
「晴香さん、唐揚げ好きですか?」
「好きだよ?」
「じゃあ一つどうぞ」
言って、鳴海は楊枝に刺した唐揚げを差し出してくる。
だからそれを受け取ろうとして……鳴海は唐揚げを上に持ち上げ、晴香から引き離した。
「あれ?」
「そうじゃなくて、口開けてください」
「……え!?」
遅れて声を上げた晴香は、目を見開いて固まった。
焦る晴香と違い、鳴海は余裕の表情を浮かべたまま、唐揚げを差し出したり引き離したりを繰り返している。
しばし逡巡した晴香は、意を決してパカリと口を開く。
「ん……」
ゆっくりと口内に入れられた唐揚げに噛みつくと、肉汁が溢れた。
モグモグと唐揚げを味わう晴香の姿を、鳴海は愛おしそうに眺めている。
「……美味しかった、ありがとう」
「どういたしまして」
まだ口内に残っている唐揚げの余韻を感じながら、晴香は自分のお弁当に手を付けた。
やり返してやりたいという気持ちと、しかし恥ずかしくてそんなことできないという気持ちが混ざり合い、悩んでいる内に晴香はお弁当を食べ終わってしまった。
そこでふと、思い出す。デザート用に持ってきたクッキーがあることに。
「鳴海くん、クッキー好き?」
「ええ、まあ」
「じゃああげる」
簡素なラッピングのされたクッキーを受け取った鳴海は、しばしまじまじとそれを見つめていた。
そして何かに気付いたように口を開く。
「これ……もしかして手作りですか?」
「うん。僕、お菓子作り趣味なんだよね。あ、でも手作りとか苦手だったりするかな? だったらやっぱり既製品を……」
「いえ。これはもう俺のです」
返してもらおうとした手を伸ばすと、鳴海はクッキーを晴香から遠ざけてきっぱりとそう告げた。
「晴香さんの手作り……嬉しすぎる……」
鳴海はクッキーを袋越しに眺め続けていた。まるで宝石でも見ているようにうっとりとした表情なので、ついつい恥ずかしくなってくる。
お菓子作りが趣味の晴香からすれば、かなり適当に作ったものだ。なのにまさかここまで喜ばれるとは。
「いくら積めば晴香さんの手作りのお菓子をもっと食べれますか?」
次第には真顔でこんなことを訊いてくるものだから、晴香は思わず噴き出した。
「いやいやいや。さっきも言ったけど趣味で作ってるだけだから、お金はいらないよ」
「でも……」
「次からお菓子作る時は鳴海くんの分も用意するね」
「ホントですか!」
ぱああっと、本当に周囲が明るくなったように錯覚してしまうほど、鳴海は歓喜の表情を見せた。
なんだかその姿がとても可愛らしくて―――晴香は思わず、鳴海の頭を撫でていた。
「は……晴香さん!?」
「へへへ。さっきのお返し」
そこでようやく、鳴海が余裕の表情を崩したので、晴香はニヤニヤと笑みを浮かべた。
ずっとリードされてるのもなんだか悔しい。それに、本当に今の鳴海を可愛いと思ったのだ。
ダークレッドのメッシュが入ったその髪を撫でるこの行為は、なつかない猫が自分にだけなついてくれたような感覚に近かった。
しばらく、晴香は勝ち誇った笑顔を浮かべ、赤面して固まる鳴海を撫でていた。
そして気が済んだ晴香がその手を離そうとした――のだが。
がっしりとその手を鳴海に掴まれる。
「……さい」
「え?」
「もっとしてください」
「ひえっ」
鬼気迫る鳴海に、晴香は思わず恐怖した。
言う通りにするまで、絶対にこの手を離さない……と、鳴海のその顔に書かれている。
仕方ないので晴香が再び頭を撫で始めると、一瞬にして鳴海の表情は柔らかいものになり、ほわほわとお花を飛ばしていた。
「俺、幸せです。ずっと思い続けた晴香さんと付き合えて……頭まで撫でてもらえて」
噛み締めるようにそう言うものだから、晴香は自分の心に温かいものが灯るのがわかった。
鳴海というこの男が、本気で自分を好いてくれている。それがどれだけ自分の心を満たしてくれていることか。
晴香はいっそう優しく鳴海の頭を撫でた。
しかし――ふと、気付く。
鳴海の背後に立つ、血まみれの男――【幽霊】の姿に。
「ひっ……!」
撫でていた手を引っ込め、晴香は思わず後ずさる。
頭から大量の血を流し、そこに立つ男は、グラグラと頭を揺らしながら晴香の方をジッと見ていた。
恐い。でも目を離したら次に何をするかわからなくて、もっと恐い。
その時だ。
「俺の方、見てください」
落ち着いた声音が耳に届く。
気付けば、晴香の手を握った鳴海が、真っ直ぐとその顔を向けていた。
視界を覆い尽くす鳴海の姿。晴香の意識は、【幽霊】から鳴海へと戻る。
「鳴海、くん……」
「【幽霊】、いるんですよね?」
「鳴海くんの、後ろに……」
「わかりました」
言って、晴香と手を繋いだまま鳴海だけ立ち上がる。
そして――
「晴香さんとの貴重な時間を邪魔してんじゃねぇ!」
振り向きざまにそう怒鳴り、拳を振り上げ強烈な一発を【血まみれの男】に食らわせた。
瞬く間に【男】は消え去り、階段に反響した鳴海くんの怒声も薄れていく。
目を丸くした晴香の前に、鳴海は再び座り直す。
「退治しました」
さっきまでの怒りの形相はどこへやら。
今、晴香の前にいる鳴海の姿は、まるで取って来た獲物を御主人様の元へ届けて見せびらかす猫のようだった。
「あ、ありがとう、ホントに。僕も、鳴海くんみたいに立ち向かえればいいのに……全然勇気が出なくて……」
「晴香さんが気に病むことじゃないですよ。それに俺、こうやって晴香さんを守れるの凄く嬉しいですし」
「ははは、ありがとう」
「……晴香さん」
「ん?」
「俺、【幽霊】退治したんで……」
「うん?」
「昼休み終わるまで、撫でてください」
鳴海の顔は、ご褒美を待っている者のそれだ。
強面で喧嘩慣れしている彼が、おそらく自分だけに見せるその一面に……晴香は思わずキュンとしてしまった。
晴香は、照れ笑いを浮かべながら口を開く。
「おいで」
晴香は鳴海にそう言うと、クッキーを味わう彼の頭を、再び優しく撫で始めるのだった。
***
昼休みを終えて晴香が自分のクラスへと戻ると、友人たちがニヤニヤとした表情を浮かべながら、なんだかんだ温かく迎え入れてくれた。
詳細まで話さなくとも、鳴海とそういう関係になったことが伝わっているのだろう。
ちょっと気恥ずかしいが、友人たちの厚意は素直に受け取った。
次の時間は理科で、実験室での授業だ。
教科書、ノート、筆記用具を用意した晴香は教室を出る。
「御影くん」
その時、名前を呼ばれ振り返る。
そこにはクラス委員長の、槙原朱音が立っていた。
肩に付くぐらいの黒髪のミディアムボブ。賢さが顔に出ている利発そうな顔付き。身長160センチほどの健康的な体系。
クラス委員長をやるだけあって、彼女は非常に明るく、リーダーシップにも富んでいる社交的なクラスメイトだ。
一瞬、呼び止められたのは別の人ではないかと思った。それぐらい晴香は、彼女との交流が薄かったからだ。
だが、その意志の強そうな朱音の瞳は、真っ直ぐ晴香の方を向いている。
「いきなりごめん。でも、ちょっと相談に乗ってほしいんだけど」
「そ、相談!?」
テスト結果でも上位に入るほどの人から、しかもたいして喋ったこともない人から相談したいと来た。
晴香は思わず身構えたが、一方の朱音はとても落ち着いた様子で話し始めた。
「御影くん、【幽霊】が見えるらしいね」
「えっ!? どうしてそれを……」
「昨日の昼休み、私も校舎裏にいたのよ。あそこでお昼を食べながら本を読むのを習慣化してるの。そこにあなたたちが来て、その……」
朱音は、なんとも言えない、ちょっとにやけた表情を浮かべた。
その反応はどちらかというと、【幽霊】のことより、鳴海の熱い告白のことを言っているようで、晴香は思わず赤面する。
「あの場にいたの!?」
「いたの。ごめんね。全部聞いてた」
「う、うぅ……」
「それで本題なんだけど」
二人は並んで廊下を歩きながら、実験室へ向かい始める。
朱音は少し声のトーンを落としながら晴香に告げた。
「実は最近、自宅で怪奇現象に悩まされているの」
「怪奇現象?」
さっきの【幽霊】という単語もそうだったが、朱音とは少しも結びつかなそうな『怪奇現象』という言葉に驚き、晴香は思わず繰り返した。
朱音は小さく頷く。
「そう。私、一人暮らしをしてるんだけどね、二週間ぐらい前からだったかな……テレビが勝手に点いたり、電気が消えたりすることが頻繁に起こるようになったの。買い換えても駄目で……挙句の果てには部屋の中から足音がしたり、夜中にチャイムが鳴ることも」
そのげっそりとした表情からも、朱音がどれだけその現象に困らされているのか伝わってきた。
もし同じ現象に遭ったとしたら……と、想像するだけで晴香も気疲れしてしまう。
「これ、【幽霊】の仕業かしら?」
「うーん。確かにそういうの、霊障としてよくあるって聞くから、そうかも?」
「ならやっぱり御影くんにお願いがあるの」
「な、なに?」
「本郷くんと一緒に、うちの【幽霊】をぶっ飛ばしてくれないかな?」
ハッキリ、キッパリ、実に過激なことを真っ直ぐ言ってくる。
朱音のその気迫に、晴香は圧されてしまう。
「ぶっ飛ばすって、そんな……」
「あの校舎裏での一連の出来事を見てたの。もちろん私には【幽霊】が見えなかったけど、でも、本郷くんが【何か】をぶっ飛ばしている姿は見てた。だから私、御影くんが言っていたことも本郷くんがやったことも信じてる」
「……!」
朱音の表情に嘘は見えない。【幽霊】だなんていう骨董無形な話を、彼女は本気で信じてくれているのだと、その真摯な表情が大いに語っていた。
照れ臭さと喜びが込み上げ、晴香は少し悩んだ末、改めて頷いた。
「わかった。鳴海くんにもやってくれるか訊いてみる」
晴香の言葉に、朱音はそこで初めて、いつもみんなに見せている明るい笑顔を浮かべていた。
「ありがとう! 本当にありがとう! もうずっと困っててさ……誰に相談したらいいかもわからなくて。親に言ったら絶対帰って来いって言われるだろうし……」
「一人暮らしって凄いよね。何かきっかけがあったの?」
「私、地元はここから新幹線で三時間ぐらいのところにあるの」
「えっ……じゃあ上京ってこと?」
「そうそう。細かいことは省くんだけど、この高校に通ってる一個上の先輩に憧れて、親に無理言って上京と一人暮らしを許可してもらったんだ。まあ、一人暮らしって言っても親から仕送りしてもらってる身分だけどね。でも近い内にバイトを始めるつもり!」
ハキハキとこれまでのこと、そしてこれからのことを話す朱音の姿はとても輝いて見えた。
その輝きを前に、思わず晴香は卑屈な気持ちを持ってしまう。
「なんか……凄いな、槙原さん。色々考えて、行動もしてて」
「そう? ありがと!」
「僕なんか何も考えてきてないし、これからもどうするか全然……」
「でも一緒に未来を考えていく相手ができたじゃない」
「……!」
それが鳴海を指しているのだということは、言われずともわかった。
晴香は俯きがちだった顔を上げる。
「一人で進んで行く人もいれば、誰かと一緒に進む人もいると思うの。御影くんはこれから、本郷くんと一緒に進んで行くところなんじゃない?」
「いや、でも……実は僕、まだ自分の気持ちがよくわかってなくて……」
「それはまあ、告白してきた相手をいきなり全開で好きになるなんて無理よね。でもさ、生理的に無理とか、絶対にごめんだ、ってことはないんでしょ?」
「……ない」
それどころか自分は、自ら彼の頭を撫でたり、彼を可愛いと思ったりしている。
思い出すだけで晴香は顔が焼けそうなほど熱くなった。
それを横目に見ていた朱音は、ケラケラと笑い出した。
「御影くん、わかりやすいなぁ」
「そ、そう?」
「少なくとも見てる限り、本郷くんのこと嫌いじゃないって感じじゃん」
「それは……うん」
「勢いだらけの熱烈な恋愛もいいと思うけど、スロースターターな恋愛もいいじゃん? 御影くんたちは自分たちのペースで恋愛していけばいいよ」
朗らかに笑い、そう言い切ってくれる朱音の姿は実に頼もしい。
彼女を前に晴香は、鳴海とは違う支えをもらった気がして、自然と背筋が伸びた。
「槙原さん」
「ん?」
「【幽霊】退治、がんばろうね」
「おう!」
歯を見せて笑う朱音が拳を突き付けてきたので、晴香もそっと拳を突き付けた。
***
『今日、一緒に帰れたりする?』
『もちろんです』
交換しておいたアドレスにメッセージを送れば、ものの数秒で返事が来るものだから、晴香は思わず笑ってしまった。
こんな些細なことでも、鳴海が常に真摯で真っ直ぐだからか、彼からのとびきりの愛を感じてしまう。そしてそれが嫌じゃない自分もいる。
自然と口端を持ち上げながらスマホを眺めている内に授業とホームルームは終わり、下校の時間となった。
指定していた待ち合わせ場所である校門前へ行けば、すでに鳴海の姿があった。
遠くから見ても彼は目立つ。それだけ華がある。
校門をくぐって帰ろうとする生徒たちの何人もが、鳴海の存在を確かめては色んな顔色を見せていた。
喧嘩の強さをしっているからこそ恐れている顔色もあれば、その容姿の良さに見惚れるような顔色。
果たして自分は、どんな顔色を彼に見せているのだろう。
そう考えていた矢先、鳴海がこちらに気付いたのか、それまでの無機質な表情を捨て、明らかに嬉しそうな顔を晴香へと向けてきた。
「晴香さん……!」
「うわぁ!?」
駆け寄ってきた鳴海が、その勢いのまま晴香に抱き着く。
突然のこと……しかも自分の体がすっぽりと鳴海の腕の中に収まってしまっているものだから、晴香は思わず驚きの声を上げた。
すると鳴海は、渋々ではあったが少し距離を取った。
「……すみません。晴香さんと帰れるのが嬉しくて舞い上がりました」
「いや、あの、それは嬉しいけど……いきなり抱き着くのはちょっと……」
「嫌でしたか?」
眉と口角を下げ、少し悲しそうに目を細める鳴海を前に、晴香は強く出れなかった。
実際、嫌なわけではない。ただとにかくビックリしたし、往来で恋人のような行為をすることにまだ全然慣れていないというそれだけのことなのだ。
実際、下校途中の生徒たちからの視線も痛い。
「嫌じゃない、けど……」
「けど?」
「僕、今まで人と付き合ったこと無いから、その……外でイチャイチャとか慣れてなくて」
「……じゃあ、二人きりならいいってことですか?」
少し間を置いた後、鳴海がグッと顔を近付け、そう言ってきた。
その圧のある物言いに、晴香は気おされてしまう。
「う……うん」
「言いましたね? 言質取りましたからね」
目を細め、ジト目でそう告げる鳴海はどこか嬉しそうで。
上機嫌になった鳴海を見ながら、なんだかとんでもないことを肯定してしまったと、今更ながら晴香は後悔した。
二人っきりになったら一体何をしてくるつもりなんだろうか。
心の中で頭を抱えていたら、鳴海が手を差し伸べてきた。
「……?」
よくわからず、鳴海の顔とその手の平を晴香は交互に見る。
鳴海は何も言わず、ただジッと晴香を見ている。
何も理解できないまま、とりあえず鳴海の手に晴香が手を乗せた瞬間、グッとその手を掴まれた。しかも恋人繋ぎで。
「えっ、これ、ええ!?」
「まずはこういうところから始めていきましょう」
「いやでもっ、いやあのっ、いや全然手が離れないんだけど!?」
痛くはない、しかしビクともしない力加減で、鳴海はギュッと晴香の手を握っている。
そのまま鳴海が歩き出すものだから、仕方なく晴香も手を繋いだまま歩き出す。
自分の鼓動の激しさが、手を伝って鳴海に聞こえるのではないかと思った。
正直手汗だって凄い。鳴海は不快ではないのだろうか。
「晴香さんの手、小さくて可愛いですね」
「うっ……鳴海くんの手が大きいんだよ」
「光栄です」
鳴海はニコニコと笑っている。何気ない晴香からの返しでも、鳴海にとってはとても嬉しいものらしい。
だが、その目を晴香から外し、辺りを何度か見回す動きを見せた。
晴香が首を傾げると、鳴海はすぐに応じる。
「晴香さんはいつも、こんな景色を見ていたんですね」
言われて、鳴海が何を言いたいのかわかった。
晴香の見ている景色……つまり至るところに【幽霊】が見えるという景色だ。
手を繋いでいるからこそ、鳴海にも【同じもの】が見えているのだろう。
晴香はもうその光景に慣れ過ぎてなんとも思わなくなっていたが、鳴海からすれば異様な光景でしかない。
明らかに鳴海は顔をしかめた。
「俺の晴香さんをジロジロ見やがって……」
威嚇する猫のように殺気立つ鳴海を見て、晴香は慌てて声を上げた。
「だ、大丈夫だよ。っていうか、いつもはもっと近くに来る【あいつら】が、今は全然寄って来てない。鳴海くんがいるからかも」
「俺……役に立ってますか?」
「うん、ありがとう」
晴香のぽわぽわとした緩い笑顔を眺めながら、鳴海は空いている手で小さくガッツポーズをした。
「そういえばあの、鳴海くんにちょっとお願いがあるんだけど」
「なんでしょう。できることならなんでもします」
「な、なんでも……?」
「はい。晴香さんのためならなんでも」
即答どころか食い気味でくる鳴海に、ちょっとだけ晴香は顔を引き攣らせながら話を続けた。
「うちのクラスに、槙原朱音さんっていう委員長がいるんだけど。その子が、たぶん【幽霊】の仕業と思われる色々に悩んでて……」
「元凶となる【幽霊】を俺に殴り飛ばしてほしいと?」
「話が早くて助かるよ。そういうことなんだけど……」
「わかりました。がんばります」
「え……」
あまりにもあっさりと鳴海が了承するものだから、晴香は逆に不安になってしまった。
「い、いいの?」
「もちろんです」
「だって、なんか、あの……ホントはちょっと、鳴海くんの力を利用するだけみたいな、なんかそんな感じで申し訳なくてさ。嫌なら断ってもいいんだよ?」
すると、鳴海はその整った顔に、優しげな微笑を浮かべた。
夕日に照らされるその顔を前に、晴香は目が離せなくなった。
「好きな人に頼りにされて、嬉しくないわけないじゃないですか」
「………」
目を細めて笑う鳴海のその顔に、嘘は無くて。
告白を受けてから、鳴海は常にその愛を包み隠すことなく明け渡してくる。
こんなに容姿も中身も備わっている男なのだから、引く手数多なのは間違いないというのに。
なのに彼は、晴香を選んだ。その重みと思いがわからない晴香ではなかった。
親以外から初めて受ける、数々の無償の愛情。
晴香はじんわりと浮かんだ涙を誤魔化すように、鳴海から顔を背けて礼を告げた。
「あ、ありがとう。助かるよ」
気付かれないように涙を拭い、笑顔を浮かべて晴香は鳴海の方へ向き直る。
「何か……お礼できることあるかな?」
「お礼、ですか……?」
「うん。といっても、僕にできることってかなり限られてるだろうけど……」
「そんなことないです」
「え、そう?」
「俺、晴香さんがしてくれることなら何でも喜べる自信あります」
「あはは……」
鳴海の目が真剣にそう語っているので、晴香はとりあえず笑って誤魔化した。
「お礼……か」
ぽつり、と鳴海が味わうように呟く。
不意に繋いだ手がより強く握られた気がして、晴香は鳴海の様子を伺う。
鳴海は、実に真面目な表情で晴香を見ていた。
「ハッキリ言うと、あんなことやそんなことを晴香さんとしたいです」
「あ、あんなことやそんなこと……というのは?」
「ご想像にお任せします」
晴香の頭の中には、思春期の少年らしい、ちょっといかがわしいあんなことやそんなことが浮かんだ。
まさかそんなことまで……と思いつつ、鳴海のこの愛情表現っぷりだと、あながち晴香が思い描くあんなことやそんなことがはずれていない気がした。
「ただ……」
様々な妄想が次から次へと浮かんでいた晴香だったが、鳴海の落ち着いたその声で引き戻される。
「やっぱりそういうことって、お礼だからしてもらうとか、そういうのじゃないと思うんですよね」
「そう……なの?」
「はい。ちゃんと晴香さんが俺のことを好きになってくれて、心の準備ができてからしたいんです」
紳士的な鳴海に、晴香は思わず感心してしまう。
本当にこの鳴海という男は、自分のことを大切に、大事に扱ってくれるのだな……と、晴香は胸の奥が熱くなった。
「だからそうですね……お弁当、とか」
「お弁当?」
「はい。もしお手数でなければ……晴香さんの手作りのお弁当を食べてみたいです」
あんなことやそんなこと、という願いからはかけ離れた、実に純朴でささやかなお願いごと。
そのギャップに思わず晴香は笑ってしまう。
「そんなのお安い御用だよ。お菓子も付けてあげるね」
「ホントですか?」
「うん。好物とか教えてくれればそれ入れるし」
「……嬉しいです」
幸せを噛み締めながらはにかむ鳴海は、全身で歓喜しているのが伝わった。
なんだかそれがとても可愛くて、健気で、愛おしくて。
晴香は無意識に言葉を続けていた。
「あの……さ」
「はい」
「さっき言ってたあんなことやそんなことだけど……」
「はい」
「鳴海くんはホントに、僕でいいの?」
潤んだ瞳で晴香は鳴海を見上げる。
晴香のその表情には、不安と共に、それでも自分を選んでほしいという気持ちが宿っていた。
一方の鳴海もまた、そんな晴香に煽られ自身の愛欲をその瞳に浮かべた。
「晴香さんが、いいんです」
鳴海の空いている方の手が、そっと晴香の頬に添えられる。
思わず晴香はビクリと体を震わせたが、しかし、逃げるような真似はしなかった。
頬に触れるその手は、ガラス細工を扱うように繊細だ。
「晴香さん……」
「あの……」
「好きです」
「鳴海、く……」
告げられた時にはもう、視界が鳴海でいっぱいになり……そして唇が重なっていた。
触れるだけの、キス。
しかし夕焼けの熱に焙られたように、唇を起点に一瞬にして全身が発熱した。
ふにふにと、柔らかい感触が唇に何度か当たる。唇で唇を甘噛みされる感触もあった。
「……ありがとうございます」
ペロリ、と舌なめずりをしながら鳴海が顔を離す。高い餌をご褒美にもらった猫と同じ顔。
彼のそのお礼の言葉で、夕日に負けないぐらい真っ赤な顔をして固まっていた晴香は再起動する。
「な……な、何を……」
「すみません、抑えきれませんでした。でも二人きりだったんで。……嫌でしたか?」
「いっ、嫌……とか……そういうんじゃ……」
「じゃあ……もっとしても良かったですか?」
「んなぁ!? そんっ、そんなわけ……っていうかもっとって何!?」
軽くパニック状態に陥っているからか、まともに受け答えができない。
晴香は思わず口元を手で覆いながら、キョロキョロと辺りを見回す。
幸い、ひと気の少ない道だったお陰で誰にも見られていない。その辺りをウロウロしている【幽霊】たちを除けば。
「………」
不意に、視界の端から強い視線を感じた。
晴香がそちらを見ると、そこには一人の――和装の男が立っていた。
京紫色の着物をまとった、色白の……しかし顔はモヤがかかっているように伺うことができない。
男の顔は見えない。けれど穴が開きそうなほどこちらを見ているのがわかる。
彼が【幽霊】であることは言わずもがなだ。だが、他の【幽霊】とはどこか違うように感じた。
それほどまでに強い思いを【彼】から受ける。
「晴香さん?」
鳴海に呼ばれ、ハッと我に返る。
その瞬間、【男】の姿はもうどこにも無かった。
「今、着物の男がいましたけど、そいつが何か……?」
「あー、いや、消えちゃったし大丈夫」
「……くそっ」
鳴海が明らかな悪態をつくものだから、晴香は目を丸くする。
それに気付いた鳴海は、口をへの字にして不機嫌さをアピールしていた。
「せっかくキスの余韻を味わってたのに、と思いまして」
「うっ……」
「キスし終えた後の可愛い晴香さんを、もっともっと甘やかしてトロトロにしたいなと思っていたのに……邪魔されました」
「そんなことまで考えてたの!?」
なんだかだんだん欲を隠さなくなってきた鳴海に、晴香はツッコミを入れずにいられなかった。
でも、それだけ鳴海が心を開いてくれているのだとも思い、ひそかに喜びを感じる。
いつもと同じ帰り道なはずなのに、隣に鳴海がいるだけで全然違う景色に思えた。
視界の端に【幽霊】がいても、少しも恐くない。嫌な気持ちにならない。
全ては鳴海が隣にいるからだ。
「着きましたよ」
言って、マンションの前で鳴海が立ち止まる。
ありきたりなグレーの外装のそのマンションは、確かに晴香が住んでいる場所だ。
そこで晴香は気付く。
「え……そういえばなんで僕の家知ってるの……?」
「晴香さんが行く高校を調べる時に、一緒に調べました」
「ちょっ……」
「もちろん悪用してません」
「当たり前だよ!」
彼の実直すぎる行動力に、晴香も声を上げずにはいられなかった。
途端に鳴海が、しゅんとした表情を浮かべる。生えていないはずの猫耳と尻尾が垂れ下がっているのが見えた。
「……すみません」
「い、いや……悪用してないなら、べつに……」
「……ごめんなさい」
「そ、そういうことしたいなら、今度からちゃんと僕に確認取ってくれれば、その……」
「……気を付けます」
「わ、わかったわかった、わかったから! そんな落ち込まないでよ」
何故か晴香の方が根負けし、背伸びして、鳴海の頭をわしゃわしゃと撫でてあげる。
途端に鳴海は気持ち良さそうな表情を浮かべ、すぐさま上機嫌になった。
「それじゃあ晴香さん、また明日」
繋いでいた晴香の手の甲に唇を触れさせ、鳴海はそっとその手を離す。
解放された手なのに、何故かとても名残惜しいと晴香は思った。
それはどうやら鳴海も同じ気持ちだったようで、彼は目を合わせ、ニコリと笑う。
「また、手を繋いで帰りましょうね」
「う……うん」
「あとキスも……」
「キスは駄目!」
反射的に答えた晴香の顔は真っ赤で。
それを眺めながら鳴海は、幸せそうに笑うのだった。
***
『それじゃあ明日、よろしくお願いします!』
朱音からのメッセージに、晴香は了解の意味を添えたスタンプを送る。
夕飯を終え、風呂に入り、歯を磨いていつでも寝れる状態になった晴香は、スマホを手にしながらベッドに横たわった。
しばらくスマホを眺めていたが、それでも頭のどこかに朱音のこと、そして鳴海とのことが浮かんでは消えを繰り返している。
無意識に、晴香は自身の唇をそっとなぞった。
「キス……した」
今日あった行為を確かめるように呟く。それだけで、着火したように顔が火照った。
正直言って、そんなことになるとは思ってもいなかった。ただ夕日に包まれたあの瞬間、迫る鳴海くんを嫌だと思わなかったのは事実だ。
唇が覚えたあの感触が、まだ生々しく残っている。
だけど、それよりも印象強く覚えているものがあった。
「鳴海くん、嬉しそうだったな……」
キスをした時だけではない。一緒に帰るとわかった時も、手を繋いだ時も、同じ景色が見えると言った時も、彼は常に嬉しそうで、幸せそうだった。
その幸福を彼に与えているのが自分なのだと思うと、晴香は布団の中にくるまり悶えた。
何もかもが初めてのことばかりで……そして晴香もまた、どこか幸せを感じていた。
こんなに与えてもらっては悪い気がするとさえ思うほど、鳴海は溢れんばかりの愛情を注いでくれる。
「僕……僕もちゃんと、向き合わなきゃ……」
鳴海と同じぐらい、ちゃんと相手のことを思い、考えなければ。
彼が誠実な分、自分も同じだけ真摯に返したい。
「ん……」
そんなことを考えている内に、晴香はまどろみの中へと誘われていった。
体がベッドに吸い込まれるように動かなくなり、徐々に呼吸も整えられていく。
深い、深い闇の中に晴香は横たわった。
なんだかここは静かで、そしてとても落ち着いた。心地良いとすら感じる。
『………』
ふと、誰かの気配。
仰向けになっている晴香は、うっすらと目を開けながらそちらを見た。
闇の中、ぼんやりと浮かぶ京紫色。
それが、鳴海と共に帰宅していた時に見たあの【男】がまとっていた着物と同じ色だと気付いた。
そしてその時にはもう、音も無く【男】が傍までやって来ていた。
『………』
体が動かない。晴香は少しだけ目を開けた状態のまま、金縛りにあったように硬直していた。
その【男】は、上品な所作で膝を付き、晴香の顔を覗き込む。
顔にはやはりモヤがかかっている。それでも何故か、【男】が恍惚の笑みを浮かべてこちらを見ているのがわかった。
『………』
ゆっくりと、【男】の透き通るように白い手が晴香の方へ伸びる。
一体何をするのか。
思った時にはもう、その指先が晴香の唇に触れていた。
そして―――
『晴香くん』
「っ!」
文字通り飛び起きた晴香は、ベッドから落ちそうになり慌てて体勢を立て直した。
胸に手を当て、早鐘のような鼓動を必死に落ち着かせる。
「前にもこんな……」
晴香が言う通り、以前にもこんな目覚めを経験した。
というより、似たような夢を見たような気がする。
今すぐ夢の内容を脳内でリプレイしたかったが、手の平からこぼれ落ちていく砂のように、次から次へと記憶が薄くなっていく。
「なんか名前を呼ばれたような……うーん」
腕を組んで必死に考えてみたが、やはり夢の内容はもう思い出せなくなってしまっている。
仕方ないと気持ちを切り替えた晴香は、スマホで時間を確認しながら私服を用意する。
今日はこれから鳴海と共に、朱音の家の幽霊退治に行くのだから。
昨日と同じセリフを、しかし呼び方を変えて彼――鳴海は晴香のクラスへやって来た。
晴香はお弁当箱を持ったまま固まっているし、晴香の友人たちはその呼び方の変化によって何か色々と察していた。
「ど、どうしたの?」
「お昼、一緒しませんか?」
言われて、晴香は背後の友人たちへ視線を向ける。昼食はいつも彼らと取っている。だが、友人たちはとても良い笑顔で鳴海の方へ行くよう促していた。
なので鳴海の方へ向き直った晴香は、少し顔を赤くさせながら一つ頷く。
「ありがとうございます。イイ場所あるんで、そこ行きましょう」
そう言われ、晴香は鳴海の背中を追いかけた。
鳴海は、背後から見ていても華がある。それに廊下ですれ違うだいたいの人……とくに女子が、鳴海の方にチラチラと視線を送っている姿がよく見える。
やっぱりモテるんだなぁ、と晴香がしみじみ感じている内に、鳴海は足を止めた。
そこは、屋上へ繋がる階段の踊り場だった。
屋上は封鎖されているので、実質ここがこの校舎の最上部分となる。
確かにここは人が来ないし、静かで落ち着く場所だ。
「うわぁ……確かにイイ場所だね」
「気に入ってもらえたなら何よりです」
鳴海が嬉しそうに微笑する。それを間近で受け、晴香はつい照れてしまう。
自分の何気ない一言でそこまで喜んでくれるなんて……と、何とも言えない気持ちが沸き起こる。
そうしてお互いに手近なところへ座り、お弁当を広げた。
晴香は母親の手作り弁当だ。料理好きなのもあり、お弁当も毎日率先して作ってくれる。栄養バランスや色合いまで考えてくれているものだから、本当に頭が上がらない。
一方の鳴海は、コンビニで買ったであろうサンドイッチが二つと、唐揚げのBOXが一つ、菓子パンが一つ、そして炭酸飲料水が用意されていた。
「鳴海くん、けっこう食べるんだね」
「俺からすると、晴香さんが少ない気がします」
「そ、そっかな」
「そういうところも可愛くて好きです」
「ぜ、全肯定かい」
照れるあまり思わずそんなツッコミを入れれば、鳴海は楽しそうに笑ってくれた。
「晴香さんっていつから【幽霊】が見えるようになったんですか?」
炭酸飲料のペットボトルを開けながら、鳴海がそう訊ねる。
晴香はお弁当を摘まみながら、記憶を辿るように目線を上にやった。
「うーんとね、6歳ぐらいの時だったかな。おじいちゃんちの裏の山に壊れた祠があってね? なんとなしにお参りするようになったから【幽霊に好かれやすい体質】になった、って前に霊媒師さんに言われたことがある」
「そんな小さい時から……大変でしたね」
「まあ、それなりに。視界の端に足とか髪の毛とか見えると生理的に気持ち悪くて恐いし、人混みで僕の腕や足を掴んだりしてくるのは物理的に困ったりもしたなぁ」
「……晴香さんに、よくも」
明らかに不機嫌になる鳴海を前に、晴香は慌てて話題を逸らした。
「いやでも、悪い【幽霊】ばっかりでもないんだ」
「というと?」
「学校の遠足で行った河原で溺れかけた時、僕を引っ張って助けてくれた【女の幽霊】がいたりとか……あと、下校途中で見かけた【男の幽霊】のことを普通の人間だと思って、相談に乗ったりとかしたことあるし。ありがとうってお礼言われてハッとしたらもう姿が無くて、幽霊だったの、って驚いた後に笑っちゃったよね」
「そんなことが……」
「といっても、ほとんどの【幽霊】はいたずらみたいなちょっかいばっかりかけてくるから、できるだけ関わり合いになりたくないんだけどねー」
「安心してください」
「え?」
「今は晴香さんの傍に俺がいますから」
「う……うん」
まるで初恋を知った少年のように――実際そうなのかもしれないが――その目はこの世界の全てを恐れていない。
晴香をこの世のありとあらゆる巨悪から守り通すという強い意志が、その瞳から伝わってくる。それが嬉しく、それでいて恥ずかしいものだから、晴香はお弁当を食べる行為へと逃げた。
そんな晴香を愛おしそうに眺めながら、鳴海は思い立ったように訊ねる。
「晴香さん、唐揚げ好きですか?」
「好きだよ?」
「じゃあ一つどうぞ」
言って、鳴海は楊枝に刺した唐揚げを差し出してくる。
だからそれを受け取ろうとして……鳴海は唐揚げを上に持ち上げ、晴香から引き離した。
「あれ?」
「そうじゃなくて、口開けてください」
「……え!?」
遅れて声を上げた晴香は、目を見開いて固まった。
焦る晴香と違い、鳴海は余裕の表情を浮かべたまま、唐揚げを差し出したり引き離したりを繰り返している。
しばし逡巡した晴香は、意を決してパカリと口を開く。
「ん……」
ゆっくりと口内に入れられた唐揚げに噛みつくと、肉汁が溢れた。
モグモグと唐揚げを味わう晴香の姿を、鳴海は愛おしそうに眺めている。
「……美味しかった、ありがとう」
「どういたしまして」
まだ口内に残っている唐揚げの余韻を感じながら、晴香は自分のお弁当に手を付けた。
やり返してやりたいという気持ちと、しかし恥ずかしくてそんなことできないという気持ちが混ざり合い、悩んでいる内に晴香はお弁当を食べ終わってしまった。
そこでふと、思い出す。デザート用に持ってきたクッキーがあることに。
「鳴海くん、クッキー好き?」
「ええ、まあ」
「じゃああげる」
簡素なラッピングのされたクッキーを受け取った鳴海は、しばしまじまじとそれを見つめていた。
そして何かに気付いたように口を開く。
「これ……もしかして手作りですか?」
「うん。僕、お菓子作り趣味なんだよね。あ、でも手作りとか苦手だったりするかな? だったらやっぱり既製品を……」
「いえ。これはもう俺のです」
返してもらおうとした手を伸ばすと、鳴海はクッキーを晴香から遠ざけてきっぱりとそう告げた。
「晴香さんの手作り……嬉しすぎる……」
鳴海はクッキーを袋越しに眺め続けていた。まるで宝石でも見ているようにうっとりとした表情なので、ついつい恥ずかしくなってくる。
お菓子作りが趣味の晴香からすれば、かなり適当に作ったものだ。なのにまさかここまで喜ばれるとは。
「いくら積めば晴香さんの手作りのお菓子をもっと食べれますか?」
次第には真顔でこんなことを訊いてくるものだから、晴香は思わず噴き出した。
「いやいやいや。さっきも言ったけど趣味で作ってるだけだから、お金はいらないよ」
「でも……」
「次からお菓子作る時は鳴海くんの分も用意するね」
「ホントですか!」
ぱああっと、本当に周囲が明るくなったように錯覚してしまうほど、鳴海は歓喜の表情を見せた。
なんだかその姿がとても可愛らしくて―――晴香は思わず、鳴海の頭を撫でていた。
「は……晴香さん!?」
「へへへ。さっきのお返し」
そこでようやく、鳴海が余裕の表情を崩したので、晴香はニヤニヤと笑みを浮かべた。
ずっとリードされてるのもなんだか悔しい。それに、本当に今の鳴海を可愛いと思ったのだ。
ダークレッドのメッシュが入ったその髪を撫でるこの行為は、なつかない猫が自分にだけなついてくれたような感覚に近かった。
しばらく、晴香は勝ち誇った笑顔を浮かべ、赤面して固まる鳴海を撫でていた。
そして気が済んだ晴香がその手を離そうとした――のだが。
がっしりとその手を鳴海に掴まれる。
「……さい」
「え?」
「もっとしてください」
「ひえっ」
鬼気迫る鳴海に、晴香は思わず恐怖した。
言う通りにするまで、絶対にこの手を離さない……と、鳴海のその顔に書かれている。
仕方ないので晴香が再び頭を撫で始めると、一瞬にして鳴海の表情は柔らかいものになり、ほわほわとお花を飛ばしていた。
「俺、幸せです。ずっと思い続けた晴香さんと付き合えて……頭まで撫でてもらえて」
噛み締めるようにそう言うものだから、晴香は自分の心に温かいものが灯るのがわかった。
鳴海というこの男が、本気で自分を好いてくれている。それがどれだけ自分の心を満たしてくれていることか。
晴香はいっそう優しく鳴海の頭を撫でた。
しかし――ふと、気付く。
鳴海の背後に立つ、血まみれの男――【幽霊】の姿に。
「ひっ……!」
撫でていた手を引っ込め、晴香は思わず後ずさる。
頭から大量の血を流し、そこに立つ男は、グラグラと頭を揺らしながら晴香の方をジッと見ていた。
恐い。でも目を離したら次に何をするかわからなくて、もっと恐い。
その時だ。
「俺の方、見てください」
落ち着いた声音が耳に届く。
気付けば、晴香の手を握った鳴海が、真っ直ぐとその顔を向けていた。
視界を覆い尽くす鳴海の姿。晴香の意識は、【幽霊】から鳴海へと戻る。
「鳴海、くん……」
「【幽霊】、いるんですよね?」
「鳴海くんの、後ろに……」
「わかりました」
言って、晴香と手を繋いだまま鳴海だけ立ち上がる。
そして――
「晴香さんとの貴重な時間を邪魔してんじゃねぇ!」
振り向きざまにそう怒鳴り、拳を振り上げ強烈な一発を【血まみれの男】に食らわせた。
瞬く間に【男】は消え去り、階段に反響した鳴海くんの怒声も薄れていく。
目を丸くした晴香の前に、鳴海は再び座り直す。
「退治しました」
さっきまでの怒りの形相はどこへやら。
今、晴香の前にいる鳴海の姿は、まるで取って来た獲物を御主人様の元へ届けて見せびらかす猫のようだった。
「あ、ありがとう、ホントに。僕も、鳴海くんみたいに立ち向かえればいいのに……全然勇気が出なくて……」
「晴香さんが気に病むことじゃないですよ。それに俺、こうやって晴香さんを守れるの凄く嬉しいですし」
「ははは、ありがとう」
「……晴香さん」
「ん?」
「俺、【幽霊】退治したんで……」
「うん?」
「昼休み終わるまで、撫でてください」
鳴海の顔は、ご褒美を待っている者のそれだ。
強面で喧嘩慣れしている彼が、おそらく自分だけに見せるその一面に……晴香は思わずキュンとしてしまった。
晴香は、照れ笑いを浮かべながら口を開く。
「おいで」
晴香は鳴海にそう言うと、クッキーを味わう彼の頭を、再び優しく撫で始めるのだった。
***
昼休みを終えて晴香が自分のクラスへと戻ると、友人たちがニヤニヤとした表情を浮かべながら、なんだかんだ温かく迎え入れてくれた。
詳細まで話さなくとも、鳴海とそういう関係になったことが伝わっているのだろう。
ちょっと気恥ずかしいが、友人たちの厚意は素直に受け取った。
次の時間は理科で、実験室での授業だ。
教科書、ノート、筆記用具を用意した晴香は教室を出る。
「御影くん」
その時、名前を呼ばれ振り返る。
そこにはクラス委員長の、槙原朱音が立っていた。
肩に付くぐらいの黒髪のミディアムボブ。賢さが顔に出ている利発そうな顔付き。身長160センチほどの健康的な体系。
クラス委員長をやるだけあって、彼女は非常に明るく、リーダーシップにも富んでいる社交的なクラスメイトだ。
一瞬、呼び止められたのは別の人ではないかと思った。それぐらい晴香は、彼女との交流が薄かったからだ。
だが、その意志の強そうな朱音の瞳は、真っ直ぐ晴香の方を向いている。
「いきなりごめん。でも、ちょっと相談に乗ってほしいんだけど」
「そ、相談!?」
テスト結果でも上位に入るほどの人から、しかもたいして喋ったこともない人から相談したいと来た。
晴香は思わず身構えたが、一方の朱音はとても落ち着いた様子で話し始めた。
「御影くん、【幽霊】が見えるらしいね」
「えっ!? どうしてそれを……」
「昨日の昼休み、私も校舎裏にいたのよ。あそこでお昼を食べながら本を読むのを習慣化してるの。そこにあなたたちが来て、その……」
朱音は、なんとも言えない、ちょっとにやけた表情を浮かべた。
その反応はどちらかというと、【幽霊】のことより、鳴海の熱い告白のことを言っているようで、晴香は思わず赤面する。
「あの場にいたの!?」
「いたの。ごめんね。全部聞いてた」
「う、うぅ……」
「それで本題なんだけど」
二人は並んで廊下を歩きながら、実験室へ向かい始める。
朱音は少し声のトーンを落としながら晴香に告げた。
「実は最近、自宅で怪奇現象に悩まされているの」
「怪奇現象?」
さっきの【幽霊】という単語もそうだったが、朱音とは少しも結びつかなそうな『怪奇現象』という言葉に驚き、晴香は思わず繰り返した。
朱音は小さく頷く。
「そう。私、一人暮らしをしてるんだけどね、二週間ぐらい前からだったかな……テレビが勝手に点いたり、電気が消えたりすることが頻繁に起こるようになったの。買い換えても駄目で……挙句の果てには部屋の中から足音がしたり、夜中にチャイムが鳴ることも」
そのげっそりとした表情からも、朱音がどれだけその現象に困らされているのか伝わってきた。
もし同じ現象に遭ったとしたら……と、想像するだけで晴香も気疲れしてしまう。
「これ、【幽霊】の仕業かしら?」
「うーん。確かにそういうの、霊障としてよくあるって聞くから、そうかも?」
「ならやっぱり御影くんにお願いがあるの」
「な、なに?」
「本郷くんと一緒に、うちの【幽霊】をぶっ飛ばしてくれないかな?」
ハッキリ、キッパリ、実に過激なことを真っ直ぐ言ってくる。
朱音のその気迫に、晴香は圧されてしまう。
「ぶっ飛ばすって、そんな……」
「あの校舎裏での一連の出来事を見てたの。もちろん私には【幽霊】が見えなかったけど、でも、本郷くんが【何か】をぶっ飛ばしている姿は見てた。だから私、御影くんが言っていたことも本郷くんがやったことも信じてる」
「……!」
朱音の表情に嘘は見えない。【幽霊】だなんていう骨董無形な話を、彼女は本気で信じてくれているのだと、その真摯な表情が大いに語っていた。
照れ臭さと喜びが込み上げ、晴香は少し悩んだ末、改めて頷いた。
「わかった。鳴海くんにもやってくれるか訊いてみる」
晴香の言葉に、朱音はそこで初めて、いつもみんなに見せている明るい笑顔を浮かべていた。
「ありがとう! 本当にありがとう! もうずっと困っててさ……誰に相談したらいいかもわからなくて。親に言ったら絶対帰って来いって言われるだろうし……」
「一人暮らしって凄いよね。何かきっかけがあったの?」
「私、地元はここから新幹線で三時間ぐらいのところにあるの」
「えっ……じゃあ上京ってこと?」
「そうそう。細かいことは省くんだけど、この高校に通ってる一個上の先輩に憧れて、親に無理言って上京と一人暮らしを許可してもらったんだ。まあ、一人暮らしって言っても親から仕送りしてもらってる身分だけどね。でも近い内にバイトを始めるつもり!」
ハキハキとこれまでのこと、そしてこれからのことを話す朱音の姿はとても輝いて見えた。
その輝きを前に、思わず晴香は卑屈な気持ちを持ってしまう。
「なんか……凄いな、槙原さん。色々考えて、行動もしてて」
「そう? ありがと!」
「僕なんか何も考えてきてないし、これからもどうするか全然……」
「でも一緒に未来を考えていく相手ができたじゃない」
「……!」
それが鳴海を指しているのだということは、言われずともわかった。
晴香は俯きがちだった顔を上げる。
「一人で進んで行く人もいれば、誰かと一緒に進む人もいると思うの。御影くんはこれから、本郷くんと一緒に進んで行くところなんじゃない?」
「いや、でも……実は僕、まだ自分の気持ちがよくわかってなくて……」
「それはまあ、告白してきた相手をいきなり全開で好きになるなんて無理よね。でもさ、生理的に無理とか、絶対にごめんだ、ってことはないんでしょ?」
「……ない」
それどころか自分は、自ら彼の頭を撫でたり、彼を可愛いと思ったりしている。
思い出すだけで晴香は顔が焼けそうなほど熱くなった。
それを横目に見ていた朱音は、ケラケラと笑い出した。
「御影くん、わかりやすいなぁ」
「そ、そう?」
「少なくとも見てる限り、本郷くんのこと嫌いじゃないって感じじゃん」
「それは……うん」
「勢いだらけの熱烈な恋愛もいいと思うけど、スロースターターな恋愛もいいじゃん? 御影くんたちは自分たちのペースで恋愛していけばいいよ」
朗らかに笑い、そう言い切ってくれる朱音の姿は実に頼もしい。
彼女を前に晴香は、鳴海とは違う支えをもらった気がして、自然と背筋が伸びた。
「槙原さん」
「ん?」
「【幽霊】退治、がんばろうね」
「おう!」
歯を見せて笑う朱音が拳を突き付けてきたので、晴香もそっと拳を突き付けた。
***
『今日、一緒に帰れたりする?』
『もちろんです』
交換しておいたアドレスにメッセージを送れば、ものの数秒で返事が来るものだから、晴香は思わず笑ってしまった。
こんな些細なことでも、鳴海が常に真摯で真っ直ぐだからか、彼からのとびきりの愛を感じてしまう。そしてそれが嫌じゃない自分もいる。
自然と口端を持ち上げながらスマホを眺めている内に授業とホームルームは終わり、下校の時間となった。
指定していた待ち合わせ場所である校門前へ行けば、すでに鳴海の姿があった。
遠くから見ても彼は目立つ。それだけ華がある。
校門をくぐって帰ろうとする生徒たちの何人もが、鳴海の存在を確かめては色んな顔色を見せていた。
喧嘩の強さをしっているからこそ恐れている顔色もあれば、その容姿の良さに見惚れるような顔色。
果たして自分は、どんな顔色を彼に見せているのだろう。
そう考えていた矢先、鳴海がこちらに気付いたのか、それまでの無機質な表情を捨て、明らかに嬉しそうな顔を晴香へと向けてきた。
「晴香さん……!」
「うわぁ!?」
駆け寄ってきた鳴海が、その勢いのまま晴香に抱き着く。
突然のこと……しかも自分の体がすっぽりと鳴海の腕の中に収まってしまっているものだから、晴香は思わず驚きの声を上げた。
すると鳴海は、渋々ではあったが少し距離を取った。
「……すみません。晴香さんと帰れるのが嬉しくて舞い上がりました」
「いや、あの、それは嬉しいけど……いきなり抱き着くのはちょっと……」
「嫌でしたか?」
眉と口角を下げ、少し悲しそうに目を細める鳴海を前に、晴香は強く出れなかった。
実際、嫌なわけではない。ただとにかくビックリしたし、往来で恋人のような行為をすることにまだ全然慣れていないというそれだけのことなのだ。
実際、下校途中の生徒たちからの視線も痛い。
「嫌じゃない、けど……」
「けど?」
「僕、今まで人と付き合ったこと無いから、その……外でイチャイチャとか慣れてなくて」
「……じゃあ、二人きりならいいってことですか?」
少し間を置いた後、鳴海がグッと顔を近付け、そう言ってきた。
その圧のある物言いに、晴香は気おされてしまう。
「う……うん」
「言いましたね? 言質取りましたからね」
目を細め、ジト目でそう告げる鳴海はどこか嬉しそうで。
上機嫌になった鳴海を見ながら、なんだかとんでもないことを肯定してしまったと、今更ながら晴香は後悔した。
二人っきりになったら一体何をしてくるつもりなんだろうか。
心の中で頭を抱えていたら、鳴海が手を差し伸べてきた。
「……?」
よくわからず、鳴海の顔とその手の平を晴香は交互に見る。
鳴海は何も言わず、ただジッと晴香を見ている。
何も理解できないまま、とりあえず鳴海の手に晴香が手を乗せた瞬間、グッとその手を掴まれた。しかも恋人繋ぎで。
「えっ、これ、ええ!?」
「まずはこういうところから始めていきましょう」
「いやでもっ、いやあのっ、いや全然手が離れないんだけど!?」
痛くはない、しかしビクともしない力加減で、鳴海はギュッと晴香の手を握っている。
そのまま鳴海が歩き出すものだから、仕方なく晴香も手を繋いだまま歩き出す。
自分の鼓動の激しさが、手を伝って鳴海に聞こえるのではないかと思った。
正直手汗だって凄い。鳴海は不快ではないのだろうか。
「晴香さんの手、小さくて可愛いですね」
「うっ……鳴海くんの手が大きいんだよ」
「光栄です」
鳴海はニコニコと笑っている。何気ない晴香からの返しでも、鳴海にとってはとても嬉しいものらしい。
だが、その目を晴香から外し、辺りを何度か見回す動きを見せた。
晴香が首を傾げると、鳴海はすぐに応じる。
「晴香さんはいつも、こんな景色を見ていたんですね」
言われて、鳴海が何を言いたいのかわかった。
晴香の見ている景色……つまり至るところに【幽霊】が見えるという景色だ。
手を繋いでいるからこそ、鳴海にも【同じもの】が見えているのだろう。
晴香はもうその光景に慣れ過ぎてなんとも思わなくなっていたが、鳴海からすれば異様な光景でしかない。
明らかに鳴海は顔をしかめた。
「俺の晴香さんをジロジロ見やがって……」
威嚇する猫のように殺気立つ鳴海を見て、晴香は慌てて声を上げた。
「だ、大丈夫だよ。っていうか、いつもはもっと近くに来る【あいつら】が、今は全然寄って来てない。鳴海くんがいるからかも」
「俺……役に立ってますか?」
「うん、ありがとう」
晴香のぽわぽわとした緩い笑顔を眺めながら、鳴海は空いている手で小さくガッツポーズをした。
「そういえばあの、鳴海くんにちょっとお願いがあるんだけど」
「なんでしょう。できることならなんでもします」
「な、なんでも……?」
「はい。晴香さんのためならなんでも」
即答どころか食い気味でくる鳴海に、ちょっとだけ晴香は顔を引き攣らせながら話を続けた。
「うちのクラスに、槙原朱音さんっていう委員長がいるんだけど。その子が、たぶん【幽霊】の仕業と思われる色々に悩んでて……」
「元凶となる【幽霊】を俺に殴り飛ばしてほしいと?」
「話が早くて助かるよ。そういうことなんだけど……」
「わかりました。がんばります」
「え……」
あまりにもあっさりと鳴海が了承するものだから、晴香は逆に不安になってしまった。
「い、いいの?」
「もちろんです」
「だって、なんか、あの……ホントはちょっと、鳴海くんの力を利用するだけみたいな、なんかそんな感じで申し訳なくてさ。嫌なら断ってもいいんだよ?」
すると、鳴海はその整った顔に、優しげな微笑を浮かべた。
夕日に照らされるその顔を前に、晴香は目が離せなくなった。
「好きな人に頼りにされて、嬉しくないわけないじゃないですか」
「………」
目を細めて笑う鳴海のその顔に、嘘は無くて。
告白を受けてから、鳴海は常にその愛を包み隠すことなく明け渡してくる。
こんなに容姿も中身も備わっている男なのだから、引く手数多なのは間違いないというのに。
なのに彼は、晴香を選んだ。その重みと思いがわからない晴香ではなかった。
親以外から初めて受ける、数々の無償の愛情。
晴香はじんわりと浮かんだ涙を誤魔化すように、鳴海から顔を背けて礼を告げた。
「あ、ありがとう。助かるよ」
気付かれないように涙を拭い、笑顔を浮かべて晴香は鳴海の方へ向き直る。
「何か……お礼できることあるかな?」
「お礼、ですか……?」
「うん。といっても、僕にできることってかなり限られてるだろうけど……」
「そんなことないです」
「え、そう?」
「俺、晴香さんがしてくれることなら何でも喜べる自信あります」
「あはは……」
鳴海の目が真剣にそう語っているので、晴香はとりあえず笑って誤魔化した。
「お礼……か」
ぽつり、と鳴海が味わうように呟く。
不意に繋いだ手がより強く握られた気がして、晴香は鳴海の様子を伺う。
鳴海は、実に真面目な表情で晴香を見ていた。
「ハッキリ言うと、あんなことやそんなことを晴香さんとしたいです」
「あ、あんなことやそんなこと……というのは?」
「ご想像にお任せします」
晴香の頭の中には、思春期の少年らしい、ちょっといかがわしいあんなことやそんなことが浮かんだ。
まさかそんなことまで……と思いつつ、鳴海のこの愛情表現っぷりだと、あながち晴香が思い描くあんなことやそんなことがはずれていない気がした。
「ただ……」
様々な妄想が次から次へと浮かんでいた晴香だったが、鳴海の落ち着いたその声で引き戻される。
「やっぱりそういうことって、お礼だからしてもらうとか、そういうのじゃないと思うんですよね」
「そう……なの?」
「はい。ちゃんと晴香さんが俺のことを好きになってくれて、心の準備ができてからしたいんです」
紳士的な鳴海に、晴香は思わず感心してしまう。
本当にこの鳴海という男は、自分のことを大切に、大事に扱ってくれるのだな……と、晴香は胸の奥が熱くなった。
「だからそうですね……お弁当、とか」
「お弁当?」
「はい。もしお手数でなければ……晴香さんの手作りのお弁当を食べてみたいです」
あんなことやそんなこと、という願いからはかけ離れた、実に純朴でささやかなお願いごと。
そのギャップに思わず晴香は笑ってしまう。
「そんなのお安い御用だよ。お菓子も付けてあげるね」
「ホントですか?」
「うん。好物とか教えてくれればそれ入れるし」
「……嬉しいです」
幸せを噛み締めながらはにかむ鳴海は、全身で歓喜しているのが伝わった。
なんだかそれがとても可愛くて、健気で、愛おしくて。
晴香は無意識に言葉を続けていた。
「あの……さ」
「はい」
「さっき言ってたあんなことやそんなことだけど……」
「はい」
「鳴海くんはホントに、僕でいいの?」
潤んだ瞳で晴香は鳴海を見上げる。
晴香のその表情には、不安と共に、それでも自分を選んでほしいという気持ちが宿っていた。
一方の鳴海もまた、そんな晴香に煽られ自身の愛欲をその瞳に浮かべた。
「晴香さんが、いいんです」
鳴海の空いている方の手が、そっと晴香の頬に添えられる。
思わず晴香はビクリと体を震わせたが、しかし、逃げるような真似はしなかった。
頬に触れるその手は、ガラス細工を扱うように繊細だ。
「晴香さん……」
「あの……」
「好きです」
「鳴海、く……」
告げられた時にはもう、視界が鳴海でいっぱいになり……そして唇が重なっていた。
触れるだけの、キス。
しかし夕焼けの熱に焙られたように、唇を起点に一瞬にして全身が発熱した。
ふにふにと、柔らかい感触が唇に何度か当たる。唇で唇を甘噛みされる感触もあった。
「……ありがとうございます」
ペロリ、と舌なめずりをしながら鳴海が顔を離す。高い餌をご褒美にもらった猫と同じ顔。
彼のそのお礼の言葉で、夕日に負けないぐらい真っ赤な顔をして固まっていた晴香は再起動する。
「な……な、何を……」
「すみません、抑えきれませんでした。でも二人きりだったんで。……嫌でしたか?」
「いっ、嫌……とか……そういうんじゃ……」
「じゃあ……もっとしても良かったですか?」
「んなぁ!? そんっ、そんなわけ……っていうかもっとって何!?」
軽くパニック状態に陥っているからか、まともに受け答えができない。
晴香は思わず口元を手で覆いながら、キョロキョロと辺りを見回す。
幸い、ひと気の少ない道だったお陰で誰にも見られていない。その辺りをウロウロしている【幽霊】たちを除けば。
「………」
不意に、視界の端から強い視線を感じた。
晴香がそちらを見ると、そこには一人の――和装の男が立っていた。
京紫色の着物をまとった、色白の……しかし顔はモヤがかかっているように伺うことができない。
男の顔は見えない。けれど穴が開きそうなほどこちらを見ているのがわかる。
彼が【幽霊】であることは言わずもがなだ。だが、他の【幽霊】とはどこか違うように感じた。
それほどまでに強い思いを【彼】から受ける。
「晴香さん?」
鳴海に呼ばれ、ハッと我に返る。
その瞬間、【男】の姿はもうどこにも無かった。
「今、着物の男がいましたけど、そいつが何か……?」
「あー、いや、消えちゃったし大丈夫」
「……くそっ」
鳴海が明らかな悪態をつくものだから、晴香は目を丸くする。
それに気付いた鳴海は、口をへの字にして不機嫌さをアピールしていた。
「せっかくキスの余韻を味わってたのに、と思いまして」
「うっ……」
「キスし終えた後の可愛い晴香さんを、もっともっと甘やかしてトロトロにしたいなと思っていたのに……邪魔されました」
「そんなことまで考えてたの!?」
なんだかだんだん欲を隠さなくなってきた鳴海に、晴香はツッコミを入れずにいられなかった。
でも、それだけ鳴海が心を開いてくれているのだとも思い、ひそかに喜びを感じる。
いつもと同じ帰り道なはずなのに、隣に鳴海がいるだけで全然違う景色に思えた。
視界の端に【幽霊】がいても、少しも恐くない。嫌な気持ちにならない。
全ては鳴海が隣にいるからだ。
「着きましたよ」
言って、マンションの前で鳴海が立ち止まる。
ありきたりなグレーの外装のそのマンションは、確かに晴香が住んでいる場所だ。
そこで晴香は気付く。
「え……そういえばなんで僕の家知ってるの……?」
「晴香さんが行く高校を調べる時に、一緒に調べました」
「ちょっ……」
「もちろん悪用してません」
「当たり前だよ!」
彼の実直すぎる行動力に、晴香も声を上げずにはいられなかった。
途端に鳴海が、しゅんとした表情を浮かべる。生えていないはずの猫耳と尻尾が垂れ下がっているのが見えた。
「……すみません」
「い、いや……悪用してないなら、べつに……」
「……ごめんなさい」
「そ、そういうことしたいなら、今度からちゃんと僕に確認取ってくれれば、その……」
「……気を付けます」
「わ、わかったわかった、わかったから! そんな落ち込まないでよ」
何故か晴香の方が根負けし、背伸びして、鳴海の頭をわしゃわしゃと撫でてあげる。
途端に鳴海は気持ち良さそうな表情を浮かべ、すぐさま上機嫌になった。
「それじゃあ晴香さん、また明日」
繋いでいた晴香の手の甲に唇を触れさせ、鳴海はそっとその手を離す。
解放された手なのに、何故かとても名残惜しいと晴香は思った。
それはどうやら鳴海も同じ気持ちだったようで、彼は目を合わせ、ニコリと笑う。
「また、手を繋いで帰りましょうね」
「う……うん」
「あとキスも……」
「キスは駄目!」
反射的に答えた晴香の顔は真っ赤で。
それを眺めながら鳴海は、幸せそうに笑うのだった。
***
『それじゃあ明日、よろしくお願いします!』
朱音からのメッセージに、晴香は了解の意味を添えたスタンプを送る。
夕飯を終え、風呂に入り、歯を磨いていつでも寝れる状態になった晴香は、スマホを手にしながらベッドに横たわった。
しばらくスマホを眺めていたが、それでも頭のどこかに朱音のこと、そして鳴海とのことが浮かんでは消えを繰り返している。
無意識に、晴香は自身の唇をそっとなぞった。
「キス……した」
今日あった行為を確かめるように呟く。それだけで、着火したように顔が火照った。
正直言って、そんなことになるとは思ってもいなかった。ただ夕日に包まれたあの瞬間、迫る鳴海くんを嫌だと思わなかったのは事実だ。
唇が覚えたあの感触が、まだ生々しく残っている。
だけど、それよりも印象強く覚えているものがあった。
「鳴海くん、嬉しそうだったな……」
キスをした時だけではない。一緒に帰るとわかった時も、手を繋いだ時も、同じ景色が見えると言った時も、彼は常に嬉しそうで、幸せそうだった。
その幸福を彼に与えているのが自分なのだと思うと、晴香は布団の中にくるまり悶えた。
何もかもが初めてのことばかりで……そして晴香もまた、どこか幸せを感じていた。
こんなに与えてもらっては悪い気がするとさえ思うほど、鳴海は溢れんばかりの愛情を注いでくれる。
「僕……僕もちゃんと、向き合わなきゃ……」
鳴海と同じぐらい、ちゃんと相手のことを思い、考えなければ。
彼が誠実な分、自分も同じだけ真摯に返したい。
「ん……」
そんなことを考えている内に、晴香はまどろみの中へと誘われていった。
体がベッドに吸い込まれるように動かなくなり、徐々に呼吸も整えられていく。
深い、深い闇の中に晴香は横たわった。
なんだかここは静かで、そしてとても落ち着いた。心地良いとすら感じる。
『………』
ふと、誰かの気配。
仰向けになっている晴香は、うっすらと目を開けながらそちらを見た。
闇の中、ぼんやりと浮かぶ京紫色。
それが、鳴海と共に帰宅していた時に見たあの【男】がまとっていた着物と同じ色だと気付いた。
そしてその時にはもう、音も無く【男】が傍までやって来ていた。
『………』
体が動かない。晴香は少しだけ目を開けた状態のまま、金縛りにあったように硬直していた。
その【男】は、上品な所作で膝を付き、晴香の顔を覗き込む。
顔にはやはりモヤがかかっている。それでも何故か、【男】が恍惚の笑みを浮かべてこちらを見ているのがわかった。
『………』
ゆっくりと、【男】の透き通るように白い手が晴香の方へ伸びる。
一体何をするのか。
思った時にはもう、その指先が晴香の唇に触れていた。
そして―――
『晴香くん』
「っ!」
文字通り飛び起きた晴香は、ベッドから落ちそうになり慌てて体勢を立て直した。
胸に手を当て、早鐘のような鼓動を必死に落ち着かせる。
「前にもこんな……」
晴香が言う通り、以前にもこんな目覚めを経験した。
というより、似たような夢を見たような気がする。
今すぐ夢の内容を脳内でリプレイしたかったが、手の平からこぼれ落ちていく砂のように、次から次へと記憶が薄くなっていく。
「なんか名前を呼ばれたような……うーん」
腕を組んで必死に考えてみたが、やはり夢の内容はもう思い出せなくなってしまっている。
仕方ないと気持ちを切り替えた晴香は、スマホで時間を確認しながら私服を用意する。
今日はこれから鳴海と共に、朱音の家の幽霊退治に行くのだから。
