「先輩、ちょっといいですか?」
鼓膜に残る低くて良い声だった。だが、御影晴香からするとドスの効いた脅しの声音にしか聞こえない。
昼休み。いつものように友人たちと昼食を取るため席を立とうとした――その時だった。
恐ろしい、という方面で有名な本郷鳴海に呼び出されたのは。
「え、え、あー……えーと、ぼ、僕?」
「はい」
挙動不審になる晴香に反し、鳴海は落ち着いた様子で一つ頷いた。
晴香はおそるおそる鳴海の方を見る。
ダークレッドのメッシュが入ったセンター分けのゆるハネの黒髪。色素の薄い鋭い瞳。180は越えているのがわかる細身の筋肉質な長身。強面ではあるが、近くの女子が彼を意識しているのがわかるほど華のある整った顔立ち。
噂ではこの辺りでは負け知らずなほど喧嘩に強く、入学早々に女生徒につきまとっていた先輩たちをボコしたとかで、男からは一目置かれ、女からはモテまくっているらしい人物。
一方、僕は……と晴香は更に気持ちが小さくなった。
とくに特徴の無い、前髪が少し長い黒髪、気弱そうなタレ目。覚えてもらえるのは細フレームのメガネをかけているところだろうか。背も168しかないし、筋肉もたいして付いていない華奢な体躯。
喧嘩なんてしたことないし、クラスでも目立たない存在で通っているぐらいだ。
上から下まで正反対だと晴香は思った。
そして、その正反対な相手……しかも後輩から突然の呼び出し。
これは――これはどう考えてもボコられるやつなのでは!?
一体何が鳴海の気に障ったのかわからないが、呼び出しということはそういうことだろう。
それを察した友人たちも、冗談混じりではあるが骨は拾ってやるとかなんとか囁いている。
「ちょっと来てもらえますか?」
「えぁっ!? こ、ここじゃ駄目なの?」
「……できれば校舎裏がいいです」
人目のあるところならなんとかなるかもしれないと思ったが、鳴海からの提案に晴香はますます嫌な妄想しかできなかった。
だが――晴香はそこで、別の嫌な予感が沸き起こった。
校舎裏といえば【あいつら】がいるかもしれない。
晴香は勇気を振り絞り、もう一度訊ねてみた。
「こ、校舎裏じゃなきゃ駄目?」
「……俺はここでもいいですけど、先輩は校舎裏の方がいいと思いますよ」
殴られてボコボコになった姿を衆人に晒さずに済むということだろうか。
もうどうやっても最悪の想像しかできなくなった晴香は、仕方なく鳴海と共に校舎裏へと向かうことに決めた。
了解の意思を晴香が見せると、鳴海は少しだけ目を細め、そして校舎裏へと向かい始めた。
重たい足取り。なのに、鳴海の長い足による一歩が早いため、必死についていった晴香は校舎裏へすぐに着いてしまった。
人の気配は無い。
だが――晴香にだけは【視線】を感じていた。
少しずつ【足音】も近付いて来ている気がする。
晴香は今、二つの意味で焦っていた。
これから鳴海にボコボコにされることと、【奴ら】が近寄ってくることだ。
「あの……で、できれば手短にお願いします……」
「……わかりました」
一歩、鳴海が晴香に近付く。
反射的に後ずさろうとしたが、それを阻止するように鳴海から腕を掴まれ、晴香は次に飛んでくるであろう拳に備えギュッと目を閉じた。
そして―――
「俺と付き合ってくれませんか?」
拳は飛んでこなかった。
しかしそれ以上にとんでもないものを投げられた気がした。
「は……へ?」
おそるおそる目を開けたそこにあるのは、やはり強面でイケメンの鳴海の顔。だが、よく見ると頬と耳が少し赤くなっている。
鋭い目付きもどこか柔和になっており、甘えるような色香を抱いていた。
「え、ごめん、え……え?」
「だから……俺と付き合ってほしいんですけど」
「なん……ぼ、僕と!?」
「はい」
「君が、僕と!?」
「はい」
「え……僕と!?」
「はい。何回言わせるんですか」
そうは言われても、晴香はまるで冷静さを保てなかった。
目の前の彼に――この強面イケメン後輩に告白されたのだという事実が、どうにもすんなり頭に入ってこないのだ。
でも、冗談だろうと笑い飛ばすこともできなかった。
それほどまでに鳴海の表情は真剣だったし、その思いを一蹴してしまうほど晴香も無神経ではない。
「でも僕、君と接点無いよね?」
「あります」
「え!?」
「中学生の時、俺が他校生に絡まれてたら助けに入ってくれました」
言われて、うっすらではあるがその時の記憶が蘇る。
確かに中学生の時、不良たちに絡まれている子を助けるために間に入って、一緒に殴られた覚えがある。あまり良い思い出ではないので詳細まで覚えていないが。
記憶違いでなければ、その時助けてあげた……というか一緒に殴られた子が鳴海だったということだろう。
そしてそれが彼にとって、とても大切な思い出になっているらしい。
「あの時、先輩がくれたハンカチに名前入ってて。それで同じ学校なのわかってたんですけど、卒業しちゃったから。だから俺、頑張って勉強して同じ高校選んだんです」
「そ、そこまでしてくれたの?」
「はい」
「な、なんで……」
「好きだからに決まってるじゃないですか」
ギュッと心臓を掴まれた気がした。
鳴海に掴まれた腕を中心に、火を灯したように全身が熱を帯びる。
こんなにも真っ直ぐと好意を向けられたのは生まれて初めてで、晴香はどうしたらいいのかわからなくなった。
だが、少なくとも嫌だとは思っていない自分がいる。
それを鳴海も見抜いているのか、グッと顔を近付けてきた。
「嫌ですか?」
「そん、なことはない、けど……」
「じゃあ、付き合ってほしいです」
「それは……で、でも僕……」
「好きな奴がいるんですか?」
鳴海の声音が低くなる。
嫉妬によるものだと思うと、なんだか可愛いなぁと晴香は思ってしまった。
彼はどこまでも素直で正直だ。それがこの数分のやり取りだけで伝わってくる。
だから、つい晴香は正直に告げてしまう。
「そうじゃなくてあの……僕、ちょっと変なところがあって……」
「変なところ?」
言う気は無かった。
だけど真っ直ぐに想いを向けてくれる鳴海に、不誠実ではいられないと晴香は感じた。
だから意を決して告げよう――そう思った矢先だった。
鳴海の背後に【人】が立っている。
いや、【人】ではない。
全身が真っ青の死体――【幽霊】が、何人もそこに立っている。
「……っ」
「どうしたんですか?」
顔色を変えた晴香に真っ先に気付いた鳴海は、気遣うように伺う。
晴香は今にも泣きそうな顔でハッキリと告げた。
「あの、僕ね、【幽霊】が見えるんだ」
「は……?」
「というか【幽霊】に好かれやすい性質で……こうやってひと気の無いところにいると寄って来ちゃって……ひっ!」
ガシッと背後から肩を掴まれる。
服越しでもわかる冷たい感触。それは生きた人間なら絶対に無い冷たさだ。
視界の端には、自分の肩を掴む爪の禿げた血まみれの指が見える。
恐い。恐くてたまらない。
半泣きになった晴香は、早く【幽霊たち】が立ち去ることを祈ることしかできない。
しかし――その瞬間。
「俺の先輩に触んな」
正真正銘ドスの効いた声。
頬に風が当たったと思ったその時には、すでに鳴海の拳が背後の【幽霊】を殴った後だった。
「な、殴った!?」
思わず目を見開き声を上げてしまう。
驚愕する晴香を前に、自身の拳を見つめていた鳴海は小さく頷いた。
「なんか、殴れました」
「いやいやいや!? っていうか君も【幽霊】見えるの!?」
「……今は見えます」
言って、鳴海は振り返る。
頭をガクリとうなだれながら立つ背後の【幽霊たち】に睨みを利かせる。
「あいつらも殴り飛ばせばいいですか?」
「い、いやでも……」
「先輩目当てで集まったんですよね? すげーむかつく」
不機嫌を前面に出し、鳴海は晴香の手を離し、全力で【幽霊たち】に向かって行こうとする。
その背中はあまりにも頼もしい。
そうして鳴海は【幽霊たち】の一掃にかかる……はずだった。しかし掲げた拳はピタリと止まり、ポツリと呟く。
「見えない?」
「え?」
「【幽霊】……見えないです」
頭の上に疑問符を浮かべながら首を傾げる鳴海。そんな鳴海の前には確かに【幽霊】の姿がある。晴香にはそれがハッキリと見えていた。
少しずつ【幽霊たち】は鳴海へと迫っている。
なんとかしなければと思いつつも、正直、今まで鳴海のように物理的に【幽霊】に触れたことは無かった。塩やらお札やらも効かなかったし、霊媒師を名乗る人のお祓いも意味が無かった。
いつも【幽霊】は、ひと気の無いところに訪れると晴香の周囲に集まってくる。そうしてベタベタと体を触ってくるのだ。それが晴香は生理的に嫌だった。でも、しばらくそうさせておけば、満足したように去っていく。その繰り返しだ。
だから晴香は今回も耐えようと思った。
「あの、大丈夫だから」
「……?」
「【あいつら】って、僕の体をしばらく触ればなんか満足して消えるんだ。だから今回も僕が耐えるから……」
そこで、鳴海から再び腕を掴まれた。
そして見上げると、そこには鳴海の恐い顔が視界いっぱいに広がる。
晴香は思わず子犬のように震えてしまう。
「それ、マジの話ですか?」
「う……うん」
「許せないんですけど」
「え、えっとでも、それしか解決策が無いというか……」
そこで鳴海はもう一度振り返る。
そして目を見開いた。
「……見える」
「え?」
「【幽霊】、見えます」
鳴海は晴香の方へ向き直り、掴んでいる晴香の腕を見た。
「なんか、先輩に触れてると【幽霊】が見えるっぽいです。先輩、ちょっと失礼しますね」
「え!?」
言って、鳴海は晴香の腕を掴んだまま【幽霊たち】へと近付く。
驚きの連続で展開についていけない晴香は、唖然とした表情のまま鳴海に腕を引かれていった。
鳴海は【幽霊たち】を殴れる間合いに入り、目を鋭くさせる。
「俺の先輩に近付いてんじゃねぇよ!」
鳴海の咆哮と、バキッという鈍い音が校舎裏に響く。
晴香は見た。鳴海が【幽霊たち】をその拳で一掃していく様子を。
今まで【幽霊】は耐えるものだと思っていた。しかし今は、【それら】を恐れず、殴り飛ばしてくれる人がいる。
胸が高鳴るのは何故だろう、と晴香は顔が熱くなるのを感じた。
「……片付きました」
鳴海の言葉通り、【幽霊】は一人残らず一掃されてしまった。
茫然としていた晴香は、その言葉に我に返る。
「あ……ありがとう。こんな、【あいつら】を殴って消すなんてことしてもらったの、初めてだ」
「先輩の初めての男になれたなら嬉しいです」
あまりにも真正面からそんなことを言われ、晴香は戸惑った。
気持ちは逃げたい。恥ずかしくて。
しかし鳴海に、物理的に腕を掴まれているので逃げることはできない。
「先輩、一段落ついたところでさっきの……告白の返事がほしいです」
「ぅえっ!?」
「好きな奴、いないんですよね?」
「そ、それはまあ……」
「あと、こうして【幽霊】から守ってやれる奴、いないんですよね?」
「う、うん、そうだけど……」
「じゃあ、俺が傍にいてもいいですよね?」
「それは、それはえっと……」
思考がグルグルと回る。
眼前の鳴海は、ジト目でグイグイと迫ってくる。
その圧に負けて、晴香は観念したように声を上げた。
「わ、わかったよ。傍にいてもいい」
「……ホントですか?」
強面のままではあるが、鳴海の周囲にパアッと花が舞っているように見えた。
そんな鳴海をちょっと可愛いと思いつつ、晴香は控えめに言葉を続ける。
「でもあの……僕は君のことまだよく知らないから、好きとか、そういう感情は無いんだ。だから……」
「大丈夫です。わかっていますし、好きになってもらうよう努力しますから」
そこで初めて鳴海が微笑を浮かべた。
その顔にはありありと自信が浮かんでいて、思わず晴香は見惚れてしまう。
しかも鳴海が掴んでいる晴香の腕を持ち上げ、手の甲に口付けながら告げた。
「晴香さんと呼んでもいいですか?」
「いっ……良い、けど……」
「じゃあ俺のことも『鳴海』って呼んでください」
「……鳴海、くん」
「はい」
嬉しそうに笑う鳴海を前に、晴香は思わず顔を赤らめる。
まさかあの呼び出しからこんなことになるとは。
ドキドキと高鳴る鼓動を必死に押さえつけながら、晴香はしばらく鳴海の笑顔を眺めるのだった。
***
本郷鳴海という男は、小学生の時から良くも悪くも目立つ存在であった。
まだ発達途中の子供の頃でもわかる端正で目を引く顔立ちに、同学年から頭一つ飛び出る背丈。加えて、寡黙ながらも手助けや気遣いを率先して行う性格。
異性が心を掴まれるのは当然だったし、同性から嫉妬を通り越して憧れを抱かれるのも常だった。
とはいえ、そんな鳴海を良く思わず、いわゆる喧嘩を吹っかけてくる連中もいた。
基本的に鳴海から喧嘩を売ることはなかったが、性分なのか、売られた喧嘩は全て買ってきた。それがより鳴海を強くし、次第に不良たちの間でも別格の扱いを受けるようになった。
それがますます鳴海の存在を押し上げ、周囲を魅了していくことになる。
だが――当の鳴海は心が満たされないことに内心焦りを覚えていた。
何かが足りない。何かが欠けている。
ずっとそんな気分がまとわりついていた。
それは友人なのだろうかと思い友達を作ったし、恋人なのだろうかと思い何人かと付き合ったこともあった。
それでも空いている穴は埋まる気配を見せない。
鳴海自身、何が足りないのかわからなかった。
もう一生、この穴が埋まることは無いのではないかと思い始めた。
その矢先のことだ。御影晴香と出会ったのは。
それはいつものように他校生から喧嘩を売られた時のことだ。
普段の鳴海だったならば苦戦など強いられなかっただろうが、その時はタイミングが悪く、体育の授業で足を捻挫してしまっている最中だった。
その所為でいつもの実力の半分以上も出すことができず、結果、多人数から一人、ボコボコに殴る蹴るを受けることになった。
絶対に怪我が治ったらやり返す……と思いながらジッと耐えていた鳴海は、しかしその時、相手の動きが止まるのを見た。
それは第三者の介入――晴香が間に入ったからだった。
見るからに喧嘩慣れなどしていないであろう風体の男が一人、ガラの悪い多人数の中に入って来たことに、鳴海は初めて唖然としてしまった。
晴香は警察を呼ぶなどと言い、笑われ、鳴海と同じように殴られた。それでも晴香が何度も警察を呼んだと繰り返すと、他校生たちはしらけたように去っていった。
しばらくの沈黙。
鳴海は何と声をかけるか迷っていたら、晴香の方から動いた。
『大丈夫だった?』
殴られた痕からしても、大丈夫じゃなさそうなのは晴香の方だ。
それに、明らかに喧嘩なんてしたこと無いであろう人間が、あんな暴力を奮う多人数の男たちの前に出るなんて……それがいかに勇気のいることかわからない鳴海ではなかった。
晴香は――鳴海にとって名前も知らない彼は、腫れた顔で半泣きになりながら、それでも笑ってハンカチを差し出してくれた。
逆光で、一瞬顔が見えなくなった。
それは鳴海の中の空白を埋める光だった。
『ありがとう、ございます。あの……』
『気にしないで。なんか体が勝手に動いちゃった感じだし、全然役に立たなかった。ごめんね』
『そんなこと……!』
『じゃあ、僕行くね。買い物行かなきゃだから』
『あ……』
恐らく、助けには入ったものの、あまり深入りはしたくなかったのだろう。晴香はそれだけ言うと颯爽と駆けていった。
残された鳴海は、しばしもらったハンカチを握りしめたまま動けなかった。
胸が……心の奥底があたたかい。
それは先ほど彼から感じた光による温度だ。
勇気のある行動。掛け値の無い優しさ。光り輝く笑顔。
彼のために生きたい。
生まれて初めて感じた切望。そして未来への希望。
『……御影、晴香』
ハンカチに縫われた名前を、そっと口にしてみる。
それだけで、常に冷静な鼓動がドキドキと音を鳴らしているのがわかった。
鳴海の顔に浮かぶのは、初恋を知った少年の綻んだ微笑だ。
そうして鳴海はその光を追いかけることにした。
もう一度会いたい。
可愛らしいその気持ちを胸に、鳴海は光を探し始める。
その光が同じ中学の一個上の先輩だということはわかったが、時期が悪くすぐに卒業してしまった。
ならば、と鳴海は同じ高校を目指して勉強を始めた。幸い勉強もできる方だったので、そこまで無理せず同じ高校に辿り着くことができた。
そしてついに再会したその時――鳴海の中の気持ちは更なる変化を遂げる。
この光を、俺だけのものにしたい。
それは純粋でありながらも仄暗い独占欲。
無自覚であった恋心に気付いた鳴海は、そうして晴香への告白し、見事その光を手にしたのだった。
***
「マジか……」
自室のベッドで仰向けになり、晴香は誰に言うでもなくそう呟く。
少し隙を見せると、頭の中では今日起こったことが次から次へと浮かんできた。
鳴海からの告白。そして【幽霊たち】を物理的に消し飛ばすその姿。
「なんなんだ、一体」
天井にある丸形の蛍光ランプをぼんやりと見つめる。
今まで、親を除いて近しい人に【幽霊】の話をしたことはなかった。あってもお祓いをお願いした霊媒師ぐらいだ。
霊媒師いわく、祖父母の家の裏にあった壊れた祠にお参りし続けていたことで【幽霊に好かれやすい体質】になったのではないかということだった。
確かに晴香は小さい頃、よく祖父母の家へ遊びに行っていたし、行く度に裏の壊れた祠に足繫く通っていた思い出がある。
最初の内は、視界の端に人影が見える程度だったが、段々と手や足を掴まれるといった干渉が起こるようになってきた。とはいえ【彼ら】は危害を加える気は無いようで、しばらく見つめたり触れたりを続けると、満足したように去っていく。
幼い時なんかは、落ち込んでいる人かと普通に勘違いして声をかけたら【幽霊】で、しばし一緒の時間を過ごしたこともある。あれはどうにも不気味で奇妙なひと時であったと思う。
結局のところ気持ち悪いし恐い……というのが正直なところではあるが、かといって霊媒師は【幽霊】に好かれすぎていて祓いきることはできないと言っていたし、ちょっとの間我慢すればやり過ごせるのだからそれでいいとさえ晴香は思い始めていた。
そこで現れたのが鳴海という存在だった。
彼は、自分に触れていることで【幽霊】が見えると言っていた。
恐がる自分を見て、何の迷いも無く【幽霊】をぶっ飛ばしてくれた。
そして何より、鳴海は自分のことが好きなのだという。
「……っ!」
鳴海から告白を受けた時のことを思い出し、晴香は自然と顔が火照るのを感じた。
あんなにも真っ直ぐに好意を向けられたのは初めてだった。
正直に言えば嫌ではない。むしろちょっと嬉しいぐらいまである。
だがその一方で、あんなにも華のあるイケメンの隣を歩くなんて、分不相応過ぎて申し訳無い気持ちもあった。
「鳴海くん……【幽霊】ぶっ飛ばしてる姿、かっこよかったな……」
仰向けから横になる体勢になり、晴香は体を胎児のように丸める。
不意に、コツコツと、窓の外から何かが叩く音。
それが【幽霊】の仕業だと、晴香はそちらを見なくともわかった。だからギュッとさらに体を縮こませる。
コツコツ、コツコツ、と【幽霊】は窓を叩き続ける。
ただそれだけと言われればそうだが、されている側としては不気味で恐くてたまったものではない。
「……鳴海くん」
つい、その名を口にしてしまう。
心細い今、彼が傍にいたらどれだけ心の支えになるだろうと思ったのだ。
晴香にとって、今や鳴海は【幽霊】に対する希望の光であった。
「鳴海、く、ん……」
次第に晴香は、迫り来る眠気に身を委ねていく。
意識は完全に闇の中へ落ち、窓を叩く音も聞こえなくなっていた。
静寂。暗闇の中は不思議とひんやりしている。
――と、遠くから足音が聞こえてくる。
暗闇の中で横たわる晴香は、しかし動くことができず、そのひたひたという足音をただ聞いていることしかできなかった。
『………』
その【誰か】の足音が、自身の近くで止まったのを晴香は感じた。
誰だろう。そんな姿をしているんだろう。見たいような、見たくないような。
そんなことを考えていると、その【気配】がゆっくりと近付いてくるのがわかった。
吐息は無いが、顔を覗かれているような、そんな気がする。
緊張で晴香は体を強張らせたが、金縛りにあっているように指先一つ動かすことができない。
そして―――
『晴香くん』
「……わぁッ!」
叫び声と共に晴香は起き上がる。
肩で息をしながらしばらく茫然としていた。
額に浮かぶ汗を拭い、少しずつ動悸を落ち着かせていく。
「今、のは……?」
夢にしてはどこかリアルで、それでいて現実的ではない出来事だった。
なんとなく、夢の中に出てきた【誰か】は【幽霊】のような気がした。そしてその【誰か】から名を呼ばれるなど、初めてのことだ。
まだ耳に、【誰か】による呼称が残っている。
澄んだ、清らかで品のある青年の声だった。そして【彼】は確かに晴香の名前を口にしていた。
「何が何やら……」
そこで晴香は気付く。
急いでスマホの画面を起動させ時計を見る。
そこにはいつも起床すべき時間より30分遅い時間が表示されていた。
「やばい!」
ようやくハッキリと覚醒した晴香は、慌てて朝の支度へと入る。
今日も【幽霊】に驚かされたり襲われたりするだろうか。
いつもの不安を胸に頂くと同時に、鳴海の存在が頭をよぎり、安心する自分がいた。
晴香は無意識に微笑を浮かべながら、急いで家を出る。
外は快晴で、太陽の光がさんさんと降り注いでいるのだった。
鼓膜に残る低くて良い声だった。だが、御影晴香からするとドスの効いた脅しの声音にしか聞こえない。
昼休み。いつものように友人たちと昼食を取るため席を立とうとした――その時だった。
恐ろしい、という方面で有名な本郷鳴海に呼び出されたのは。
「え、え、あー……えーと、ぼ、僕?」
「はい」
挙動不審になる晴香に反し、鳴海は落ち着いた様子で一つ頷いた。
晴香はおそるおそる鳴海の方を見る。
ダークレッドのメッシュが入ったセンター分けのゆるハネの黒髪。色素の薄い鋭い瞳。180は越えているのがわかる細身の筋肉質な長身。強面ではあるが、近くの女子が彼を意識しているのがわかるほど華のある整った顔立ち。
噂ではこの辺りでは負け知らずなほど喧嘩に強く、入学早々に女生徒につきまとっていた先輩たちをボコしたとかで、男からは一目置かれ、女からはモテまくっているらしい人物。
一方、僕は……と晴香は更に気持ちが小さくなった。
とくに特徴の無い、前髪が少し長い黒髪、気弱そうなタレ目。覚えてもらえるのは細フレームのメガネをかけているところだろうか。背も168しかないし、筋肉もたいして付いていない華奢な体躯。
喧嘩なんてしたことないし、クラスでも目立たない存在で通っているぐらいだ。
上から下まで正反対だと晴香は思った。
そして、その正反対な相手……しかも後輩から突然の呼び出し。
これは――これはどう考えてもボコられるやつなのでは!?
一体何が鳴海の気に障ったのかわからないが、呼び出しということはそういうことだろう。
それを察した友人たちも、冗談混じりではあるが骨は拾ってやるとかなんとか囁いている。
「ちょっと来てもらえますか?」
「えぁっ!? こ、ここじゃ駄目なの?」
「……できれば校舎裏がいいです」
人目のあるところならなんとかなるかもしれないと思ったが、鳴海からの提案に晴香はますます嫌な妄想しかできなかった。
だが――晴香はそこで、別の嫌な予感が沸き起こった。
校舎裏といえば【あいつら】がいるかもしれない。
晴香は勇気を振り絞り、もう一度訊ねてみた。
「こ、校舎裏じゃなきゃ駄目?」
「……俺はここでもいいですけど、先輩は校舎裏の方がいいと思いますよ」
殴られてボコボコになった姿を衆人に晒さずに済むということだろうか。
もうどうやっても最悪の想像しかできなくなった晴香は、仕方なく鳴海と共に校舎裏へと向かうことに決めた。
了解の意思を晴香が見せると、鳴海は少しだけ目を細め、そして校舎裏へと向かい始めた。
重たい足取り。なのに、鳴海の長い足による一歩が早いため、必死についていった晴香は校舎裏へすぐに着いてしまった。
人の気配は無い。
だが――晴香にだけは【視線】を感じていた。
少しずつ【足音】も近付いて来ている気がする。
晴香は今、二つの意味で焦っていた。
これから鳴海にボコボコにされることと、【奴ら】が近寄ってくることだ。
「あの……で、できれば手短にお願いします……」
「……わかりました」
一歩、鳴海が晴香に近付く。
反射的に後ずさろうとしたが、それを阻止するように鳴海から腕を掴まれ、晴香は次に飛んでくるであろう拳に備えギュッと目を閉じた。
そして―――
「俺と付き合ってくれませんか?」
拳は飛んでこなかった。
しかしそれ以上にとんでもないものを投げられた気がした。
「は……へ?」
おそるおそる目を開けたそこにあるのは、やはり強面でイケメンの鳴海の顔。だが、よく見ると頬と耳が少し赤くなっている。
鋭い目付きもどこか柔和になっており、甘えるような色香を抱いていた。
「え、ごめん、え……え?」
「だから……俺と付き合ってほしいんですけど」
「なん……ぼ、僕と!?」
「はい」
「君が、僕と!?」
「はい」
「え……僕と!?」
「はい。何回言わせるんですか」
そうは言われても、晴香はまるで冷静さを保てなかった。
目の前の彼に――この強面イケメン後輩に告白されたのだという事実が、どうにもすんなり頭に入ってこないのだ。
でも、冗談だろうと笑い飛ばすこともできなかった。
それほどまでに鳴海の表情は真剣だったし、その思いを一蹴してしまうほど晴香も無神経ではない。
「でも僕、君と接点無いよね?」
「あります」
「え!?」
「中学生の時、俺が他校生に絡まれてたら助けに入ってくれました」
言われて、うっすらではあるがその時の記憶が蘇る。
確かに中学生の時、不良たちに絡まれている子を助けるために間に入って、一緒に殴られた覚えがある。あまり良い思い出ではないので詳細まで覚えていないが。
記憶違いでなければ、その時助けてあげた……というか一緒に殴られた子が鳴海だったということだろう。
そしてそれが彼にとって、とても大切な思い出になっているらしい。
「あの時、先輩がくれたハンカチに名前入ってて。それで同じ学校なのわかってたんですけど、卒業しちゃったから。だから俺、頑張って勉強して同じ高校選んだんです」
「そ、そこまでしてくれたの?」
「はい」
「な、なんで……」
「好きだからに決まってるじゃないですか」
ギュッと心臓を掴まれた気がした。
鳴海に掴まれた腕を中心に、火を灯したように全身が熱を帯びる。
こんなにも真っ直ぐと好意を向けられたのは生まれて初めてで、晴香はどうしたらいいのかわからなくなった。
だが、少なくとも嫌だとは思っていない自分がいる。
それを鳴海も見抜いているのか、グッと顔を近付けてきた。
「嫌ですか?」
「そん、なことはない、けど……」
「じゃあ、付き合ってほしいです」
「それは……で、でも僕……」
「好きな奴がいるんですか?」
鳴海の声音が低くなる。
嫉妬によるものだと思うと、なんだか可愛いなぁと晴香は思ってしまった。
彼はどこまでも素直で正直だ。それがこの数分のやり取りだけで伝わってくる。
だから、つい晴香は正直に告げてしまう。
「そうじゃなくてあの……僕、ちょっと変なところがあって……」
「変なところ?」
言う気は無かった。
だけど真っ直ぐに想いを向けてくれる鳴海に、不誠実ではいられないと晴香は感じた。
だから意を決して告げよう――そう思った矢先だった。
鳴海の背後に【人】が立っている。
いや、【人】ではない。
全身が真っ青の死体――【幽霊】が、何人もそこに立っている。
「……っ」
「どうしたんですか?」
顔色を変えた晴香に真っ先に気付いた鳴海は、気遣うように伺う。
晴香は今にも泣きそうな顔でハッキリと告げた。
「あの、僕ね、【幽霊】が見えるんだ」
「は……?」
「というか【幽霊】に好かれやすい性質で……こうやってひと気の無いところにいると寄って来ちゃって……ひっ!」
ガシッと背後から肩を掴まれる。
服越しでもわかる冷たい感触。それは生きた人間なら絶対に無い冷たさだ。
視界の端には、自分の肩を掴む爪の禿げた血まみれの指が見える。
恐い。恐くてたまらない。
半泣きになった晴香は、早く【幽霊たち】が立ち去ることを祈ることしかできない。
しかし――その瞬間。
「俺の先輩に触んな」
正真正銘ドスの効いた声。
頬に風が当たったと思ったその時には、すでに鳴海の拳が背後の【幽霊】を殴った後だった。
「な、殴った!?」
思わず目を見開き声を上げてしまう。
驚愕する晴香を前に、自身の拳を見つめていた鳴海は小さく頷いた。
「なんか、殴れました」
「いやいやいや!? っていうか君も【幽霊】見えるの!?」
「……今は見えます」
言って、鳴海は振り返る。
頭をガクリとうなだれながら立つ背後の【幽霊たち】に睨みを利かせる。
「あいつらも殴り飛ばせばいいですか?」
「い、いやでも……」
「先輩目当てで集まったんですよね? すげーむかつく」
不機嫌を前面に出し、鳴海は晴香の手を離し、全力で【幽霊たち】に向かって行こうとする。
その背中はあまりにも頼もしい。
そうして鳴海は【幽霊たち】の一掃にかかる……はずだった。しかし掲げた拳はピタリと止まり、ポツリと呟く。
「見えない?」
「え?」
「【幽霊】……見えないです」
頭の上に疑問符を浮かべながら首を傾げる鳴海。そんな鳴海の前には確かに【幽霊】の姿がある。晴香にはそれがハッキリと見えていた。
少しずつ【幽霊たち】は鳴海へと迫っている。
なんとかしなければと思いつつも、正直、今まで鳴海のように物理的に【幽霊】に触れたことは無かった。塩やらお札やらも効かなかったし、霊媒師を名乗る人のお祓いも意味が無かった。
いつも【幽霊】は、ひと気の無いところに訪れると晴香の周囲に集まってくる。そうしてベタベタと体を触ってくるのだ。それが晴香は生理的に嫌だった。でも、しばらくそうさせておけば、満足したように去っていく。その繰り返しだ。
だから晴香は今回も耐えようと思った。
「あの、大丈夫だから」
「……?」
「【あいつら】って、僕の体をしばらく触ればなんか満足して消えるんだ。だから今回も僕が耐えるから……」
そこで、鳴海から再び腕を掴まれた。
そして見上げると、そこには鳴海の恐い顔が視界いっぱいに広がる。
晴香は思わず子犬のように震えてしまう。
「それ、マジの話ですか?」
「う……うん」
「許せないんですけど」
「え、えっとでも、それしか解決策が無いというか……」
そこで鳴海はもう一度振り返る。
そして目を見開いた。
「……見える」
「え?」
「【幽霊】、見えます」
鳴海は晴香の方へ向き直り、掴んでいる晴香の腕を見た。
「なんか、先輩に触れてると【幽霊】が見えるっぽいです。先輩、ちょっと失礼しますね」
「え!?」
言って、鳴海は晴香の腕を掴んだまま【幽霊たち】へと近付く。
驚きの連続で展開についていけない晴香は、唖然とした表情のまま鳴海に腕を引かれていった。
鳴海は【幽霊たち】を殴れる間合いに入り、目を鋭くさせる。
「俺の先輩に近付いてんじゃねぇよ!」
鳴海の咆哮と、バキッという鈍い音が校舎裏に響く。
晴香は見た。鳴海が【幽霊たち】をその拳で一掃していく様子を。
今まで【幽霊】は耐えるものだと思っていた。しかし今は、【それら】を恐れず、殴り飛ばしてくれる人がいる。
胸が高鳴るのは何故だろう、と晴香は顔が熱くなるのを感じた。
「……片付きました」
鳴海の言葉通り、【幽霊】は一人残らず一掃されてしまった。
茫然としていた晴香は、その言葉に我に返る。
「あ……ありがとう。こんな、【あいつら】を殴って消すなんてことしてもらったの、初めてだ」
「先輩の初めての男になれたなら嬉しいです」
あまりにも真正面からそんなことを言われ、晴香は戸惑った。
気持ちは逃げたい。恥ずかしくて。
しかし鳴海に、物理的に腕を掴まれているので逃げることはできない。
「先輩、一段落ついたところでさっきの……告白の返事がほしいです」
「ぅえっ!?」
「好きな奴、いないんですよね?」
「そ、それはまあ……」
「あと、こうして【幽霊】から守ってやれる奴、いないんですよね?」
「う、うん、そうだけど……」
「じゃあ、俺が傍にいてもいいですよね?」
「それは、それはえっと……」
思考がグルグルと回る。
眼前の鳴海は、ジト目でグイグイと迫ってくる。
その圧に負けて、晴香は観念したように声を上げた。
「わ、わかったよ。傍にいてもいい」
「……ホントですか?」
強面のままではあるが、鳴海の周囲にパアッと花が舞っているように見えた。
そんな鳴海をちょっと可愛いと思いつつ、晴香は控えめに言葉を続ける。
「でもあの……僕は君のことまだよく知らないから、好きとか、そういう感情は無いんだ。だから……」
「大丈夫です。わかっていますし、好きになってもらうよう努力しますから」
そこで初めて鳴海が微笑を浮かべた。
その顔にはありありと自信が浮かんでいて、思わず晴香は見惚れてしまう。
しかも鳴海が掴んでいる晴香の腕を持ち上げ、手の甲に口付けながら告げた。
「晴香さんと呼んでもいいですか?」
「いっ……良い、けど……」
「じゃあ俺のことも『鳴海』って呼んでください」
「……鳴海、くん」
「はい」
嬉しそうに笑う鳴海を前に、晴香は思わず顔を赤らめる。
まさかあの呼び出しからこんなことになるとは。
ドキドキと高鳴る鼓動を必死に押さえつけながら、晴香はしばらく鳴海の笑顔を眺めるのだった。
***
本郷鳴海という男は、小学生の時から良くも悪くも目立つ存在であった。
まだ発達途中の子供の頃でもわかる端正で目を引く顔立ちに、同学年から頭一つ飛び出る背丈。加えて、寡黙ながらも手助けや気遣いを率先して行う性格。
異性が心を掴まれるのは当然だったし、同性から嫉妬を通り越して憧れを抱かれるのも常だった。
とはいえ、そんな鳴海を良く思わず、いわゆる喧嘩を吹っかけてくる連中もいた。
基本的に鳴海から喧嘩を売ることはなかったが、性分なのか、売られた喧嘩は全て買ってきた。それがより鳴海を強くし、次第に不良たちの間でも別格の扱いを受けるようになった。
それがますます鳴海の存在を押し上げ、周囲を魅了していくことになる。
だが――当の鳴海は心が満たされないことに内心焦りを覚えていた。
何かが足りない。何かが欠けている。
ずっとそんな気分がまとわりついていた。
それは友人なのだろうかと思い友達を作ったし、恋人なのだろうかと思い何人かと付き合ったこともあった。
それでも空いている穴は埋まる気配を見せない。
鳴海自身、何が足りないのかわからなかった。
もう一生、この穴が埋まることは無いのではないかと思い始めた。
その矢先のことだ。御影晴香と出会ったのは。
それはいつものように他校生から喧嘩を売られた時のことだ。
普段の鳴海だったならば苦戦など強いられなかっただろうが、その時はタイミングが悪く、体育の授業で足を捻挫してしまっている最中だった。
その所為でいつもの実力の半分以上も出すことができず、結果、多人数から一人、ボコボコに殴る蹴るを受けることになった。
絶対に怪我が治ったらやり返す……と思いながらジッと耐えていた鳴海は、しかしその時、相手の動きが止まるのを見た。
それは第三者の介入――晴香が間に入ったからだった。
見るからに喧嘩慣れなどしていないであろう風体の男が一人、ガラの悪い多人数の中に入って来たことに、鳴海は初めて唖然としてしまった。
晴香は警察を呼ぶなどと言い、笑われ、鳴海と同じように殴られた。それでも晴香が何度も警察を呼んだと繰り返すと、他校生たちはしらけたように去っていった。
しばらくの沈黙。
鳴海は何と声をかけるか迷っていたら、晴香の方から動いた。
『大丈夫だった?』
殴られた痕からしても、大丈夫じゃなさそうなのは晴香の方だ。
それに、明らかに喧嘩なんてしたこと無いであろう人間が、あんな暴力を奮う多人数の男たちの前に出るなんて……それがいかに勇気のいることかわからない鳴海ではなかった。
晴香は――鳴海にとって名前も知らない彼は、腫れた顔で半泣きになりながら、それでも笑ってハンカチを差し出してくれた。
逆光で、一瞬顔が見えなくなった。
それは鳴海の中の空白を埋める光だった。
『ありがとう、ございます。あの……』
『気にしないで。なんか体が勝手に動いちゃった感じだし、全然役に立たなかった。ごめんね』
『そんなこと……!』
『じゃあ、僕行くね。買い物行かなきゃだから』
『あ……』
恐らく、助けには入ったものの、あまり深入りはしたくなかったのだろう。晴香はそれだけ言うと颯爽と駆けていった。
残された鳴海は、しばしもらったハンカチを握りしめたまま動けなかった。
胸が……心の奥底があたたかい。
それは先ほど彼から感じた光による温度だ。
勇気のある行動。掛け値の無い優しさ。光り輝く笑顔。
彼のために生きたい。
生まれて初めて感じた切望。そして未来への希望。
『……御影、晴香』
ハンカチに縫われた名前を、そっと口にしてみる。
それだけで、常に冷静な鼓動がドキドキと音を鳴らしているのがわかった。
鳴海の顔に浮かぶのは、初恋を知った少年の綻んだ微笑だ。
そうして鳴海はその光を追いかけることにした。
もう一度会いたい。
可愛らしいその気持ちを胸に、鳴海は光を探し始める。
その光が同じ中学の一個上の先輩だということはわかったが、時期が悪くすぐに卒業してしまった。
ならば、と鳴海は同じ高校を目指して勉強を始めた。幸い勉強もできる方だったので、そこまで無理せず同じ高校に辿り着くことができた。
そしてついに再会したその時――鳴海の中の気持ちは更なる変化を遂げる。
この光を、俺だけのものにしたい。
それは純粋でありながらも仄暗い独占欲。
無自覚であった恋心に気付いた鳴海は、そうして晴香への告白し、見事その光を手にしたのだった。
***
「マジか……」
自室のベッドで仰向けになり、晴香は誰に言うでもなくそう呟く。
少し隙を見せると、頭の中では今日起こったことが次から次へと浮かんできた。
鳴海からの告白。そして【幽霊たち】を物理的に消し飛ばすその姿。
「なんなんだ、一体」
天井にある丸形の蛍光ランプをぼんやりと見つめる。
今まで、親を除いて近しい人に【幽霊】の話をしたことはなかった。あってもお祓いをお願いした霊媒師ぐらいだ。
霊媒師いわく、祖父母の家の裏にあった壊れた祠にお参りし続けていたことで【幽霊に好かれやすい体質】になったのではないかということだった。
確かに晴香は小さい頃、よく祖父母の家へ遊びに行っていたし、行く度に裏の壊れた祠に足繫く通っていた思い出がある。
最初の内は、視界の端に人影が見える程度だったが、段々と手や足を掴まれるといった干渉が起こるようになってきた。とはいえ【彼ら】は危害を加える気は無いようで、しばらく見つめたり触れたりを続けると、満足したように去っていく。
幼い時なんかは、落ち込んでいる人かと普通に勘違いして声をかけたら【幽霊】で、しばし一緒の時間を過ごしたこともある。あれはどうにも不気味で奇妙なひと時であったと思う。
結局のところ気持ち悪いし恐い……というのが正直なところではあるが、かといって霊媒師は【幽霊】に好かれすぎていて祓いきることはできないと言っていたし、ちょっとの間我慢すればやり過ごせるのだからそれでいいとさえ晴香は思い始めていた。
そこで現れたのが鳴海という存在だった。
彼は、自分に触れていることで【幽霊】が見えると言っていた。
恐がる自分を見て、何の迷いも無く【幽霊】をぶっ飛ばしてくれた。
そして何より、鳴海は自分のことが好きなのだという。
「……っ!」
鳴海から告白を受けた時のことを思い出し、晴香は自然と顔が火照るのを感じた。
あんなにも真っ直ぐに好意を向けられたのは初めてだった。
正直に言えば嫌ではない。むしろちょっと嬉しいぐらいまである。
だがその一方で、あんなにも華のあるイケメンの隣を歩くなんて、分不相応過ぎて申し訳無い気持ちもあった。
「鳴海くん……【幽霊】ぶっ飛ばしてる姿、かっこよかったな……」
仰向けから横になる体勢になり、晴香は体を胎児のように丸める。
不意に、コツコツと、窓の外から何かが叩く音。
それが【幽霊】の仕業だと、晴香はそちらを見なくともわかった。だからギュッとさらに体を縮こませる。
コツコツ、コツコツ、と【幽霊】は窓を叩き続ける。
ただそれだけと言われればそうだが、されている側としては不気味で恐くてたまったものではない。
「……鳴海くん」
つい、その名を口にしてしまう。
心細い今、彼が傍にいたらどれだけ心の支えになるだろうと思ったのだ。
晴香にとって、今や鳴海は【幽霊】に対する希望の光であった。
「鳴海、く、ん……」
次第に晴香は、迫り来る眠気に身を委ねていく。
意識は完全に闇の中へ落ち、窓を叩く音も聞こえなくなっていた。
静寂。暗闇の中は不思議とひんやりしている。
――と、遠くから足音が聞こえてくる。
暗闇の中で横たわる晴香は、しかし動くことができず、そのひたひたという足音をただ聞いていることしかできなかった。
『………』
その【誰か】の足音が、自身の近くで止まったのを晴香は感じた。
誰だろう。そんな姿をしているんだろう。見たいような、見たくないような。
そんなことを考えていると、その【気配】がゆっくりと近付いてくるのがわかった。
吐息は無いが、顔を覗かれているような、そんな気がする。
緊張で晴香は体を強張らせたが、金縛りにあっているように指先一つ動かすことができない。
そして―――
『晴香くん』
「……わぁッ!」
叫び声と共に晴香は起き上がる。
肩で息をしながらしばらく茫然としていた。
額に浮かぶ汗を拭い、少しずつ動悸を落ち着かせていく。
「今、のは……?」
夢にしてはどこかリアルで、それでいて現実的ではない出来事だった。
なんとなく、夢の中に出てきた【誰か】は【幽霊】のような気がした。そしてその【誰か】から名を呼ばれるなど、初めてのことだ。
まだ耳に、【誰か】による呼称が残っている。
澄んだ、清らかで品のある青年の声だった。そして【彼】は確かに晴香の名前を口にしていた。
「何が何やら……」
そこで晴香は気付く。
急いでスマホの画面を起動させ時計を見る。
そこにはいつも起床すべき時間より30分遅い時間が表示されていた。
「やばい!」
ようやくハッキリと覚醒した晴香は、慌てて朝の支度へと入る。
今日も【幽霊】に驚かされたり襲われたりするだろうか。
いつもの不安を胸に頂くと同時に、鳴海の存在が頭をよぎり、安心する自分がいた。
晴香は無意識に微笑を浮かべながら、急いで家を出る。
外は快晴で、太陽の光がさんさんと降り注いでいるのだった。
