花人間のカルテ――解釈について




 指先に痛みを感じて手を引いた。
 信じられない。これで人生終わりか?

 呆然とした頭で、血が滲みだす指先と、目の前で咲き誇る鮮やかな花を交互に見る。どうしてこれに触れようなんて思ったのだろう。あいつの話がつまらなくて、土に還った感染者の死体がそこにあるか怖いもの見たさで花びらに触れた。見慣れ過ぎたせいで、それがとんでもなく危険なものだと忘れていた。

「おい!」

 腕をとられ、俺は息をのむ。血のにじんだ指先を見るなり、あいつは野太い叫び声を上げて俺を突き飛ばした。倒れたすぐ横に真っ赤な花が見える。これは俺だ。俺もこの後こうなる。あいつの無駄話のせいで死ぬなんてまだ信じられない。

「こいつ感染しやがった! 感染しやがった!!」

 取り乱したその声ではなく、聞きなれた安全装置に触れるかすかな音にぞっとして上半身を起こす。あいつがいつも見せびらかしてくるハンドガンだ。その黒光りする銃口がこちらを見つめる。そんな馬鹿な話があるだろうか? 俺はまだ発芽も開花もしてない人間だというのに、こいつは撃ち殺す気でいる。
 なぜ街のやつらは、クマのような図体のくせに腰抜けなこいつを食料確保のリーダーに選んだのだろう。悪ふざけで銃をちらつかせ、他人をいいようにこき使う。そして緊急事態で俺よりパニックに陥っている。

「死ね、死ね! 死ね!」

 唾をまき散らしながら叫ぶと同時に銃声が轟く。俺は恐ろしくて声も出せずただ顔をかばうことしかできない。本当に撃つなんて! 周囲から叫び声がする。誰か止めてくれよ!
 至近距離だというのに弾はすべてどこか別の方向へ飛んで行った。殺す気なのか悪ふざけなのかを考えている暇はない。俺はできるだけ体を縮め、早くこの恐怖が去ることを祈り続けた。
 その時、あいつの短い叫び声と地面に何かがこすれる音が響く。顔を上げると同時に強い力で腕を引かれた。

「走れ!」

 視界がぶれて何が起きているのか分からない。ただ、その声の主はすぐ分かった。クレイだ。
 足がもつれ、転倒しそうになる。手を地面について何とか堪え、全速力で駆けだした。一瞬だけ振り返ると、そこには雄叫びを上げながらのた打ち回っているあいつが見える。他の仲間たちは追ってこなかった。

「クレイ!」

 目の前を走る彼の名前を呼ぶ。その背中から離されないよう必死で森の中を駆け抜けた。もう仲間たちの声もしなければ、どこを走っているかすら分からなくなる。それでも俺たちは走り続けた。
 恐怖から逃れたせいなのか、森の空気が今までで一番澄んでいるように感じる。ふと、幼い頃を思い出していた。俺たちはこんなところまで走れたのか。
 地面のぬかるみに足を取られそうになって現実に引き戻される。記憶の中よりも大きくなった背中が目の前にあった。

「なに……なにして……っ」

 息も絶え絶えだったが、言わずにはいられない。何してるんだよ?
 彼はきっと、俺が何を言おうとしてるか分かったことだろう。その上で、心底楽しそうに笑った。

「あいつの顔面、蹴とばしてみたかったんだ!」

 木漏れ日に彼の笑い声が溶けていく。終わることなんかどうでもよくなって、俺も笑った。



 その後のことはよく覚えていない。
 身を寄せられる場所を探していたけれど、ついに二人とも歩けなくなった。雨上がりの、木と地面の匂いがきつい。ここで何時間も過ごしていたのは、もしかすると夢なのかもしれない。
 ただ、あの拳銃の感触だけはやけに鮮明だった。クレイが拾ってきたあいつの銃には、弾丸が一発だけ残っていた。
 体の内側から逃れられない激痛が走っても、撃ち殺してとは言わなかった。言ったところで彼はやらないし、俺と逃げる際に花で生傷を作ってしまった彼もいずれこの苦しみを味わう。どうせならそれに使ってほしい。

 俺は死ななかった。
 激痛で意識を失っていたのか、目が覚める頃には随分と体が軽く、それが余計に恐ろしかった。そして髪の……ざらついて弾力のある冷たい感触と、漂ってくる甘い香り。おそらくもっと思うものがあっただろうけど、目の前に仰向けになって倒れていたクレイを見たせいで、全て忘れた。

「クレイ?」

 恐る恐る彼の名を呼びながら、這うようにして近寄る。鈍い色に沈んだ森の中でその髪だけが異様に鮮やかだった。体の感覚が鈍くなるほど動揺したのは、気味悪さのせいじゃない。
 彼の目は薄く開かれたまま、どこも見ていなかった。死体を見るのは初めてではないのに信じられないくらい体が震えている。いや、死体なわけがない。彼は俺と同じ、花人間とかいう訳のわからない生命体になっているのだから。
 木々の隙間から日差しが漏れて、網膜から脳を直接殴りつけた。俺は息を吸い、クレイの体を揺さぶる。

「だ、誰か……」

 口から出た言葉に呆然とする。ここには誰もいない。俺はとうとう一人取り残されたのだ。彼は先に行ってしまった。俺はどうしたらいいのか分からなくなる。
 濡れた地面に両手をつけたまま、うなだれてどれくらい時間がたっただろう。風の音に重なるようにして呼吸音がしていることに気がつく。はっと顔を上げると、相変わらずクレイは倒れたままだった。そしてその胸がゆっくり上下していることを、今度は見逃さなかった。
 体の奥が痺れるような感覚があって、そのまま地面に寝転ぶ。何もしていないのに心臓が大きく脈打っていて、震えがまた全身に広がった。

 食いしばった歯から呻き声を漏らしながら俺は思う。
 こんなことは二度とごめんだ。