花人間のカルテ――解釈について

 見せかけだけの猟銃を手に、僕たちはまたあの廃屋へと向かう。気温は相変わらず低いけれど、雪が降ることはなかった。その代わり昼過ぎから空は曇りだし、今日の夜空には星一つ見当たらない。
 イライザは、今日も焚火の前で暖を取っていた。寝袋も渡していたとはいえこんな場所で安眠できるわけもなく、彼女の顔には疲労が滲んでいる。

「怪我の具合は?」

 食料を渡し、離れたところに腰を下ろしながら訪ねる。彼女は肩をすくめた。昨日の今日で良くなるわけないだろと言いたげだ。
 ヒースは僕の少し後ろで立ったまま壁に寄りかかっている。利き手である右手が上着のポケットに入っているのがやけに気になるのは、そこに拳銃があると知っているからだろう。

「それで、今日はなんの話を聞きたい?」

 イライザの声にはっとして顔を正面に向ける。にこりともしないその表情からは感情が読み取れない。

「適合者のクリーチャー化を止める方法が知りたい」
「ないわよ」
「まだないってだけだろ」

 息を長く吸って、ゆっくり吐き出した。
 彼女を信頼するには情報が足りなすぎる。ただ、もしこの話をして危険が及ぶとすれば僕だけだ。そう思うと気が軽くなった。

「……この髪についてだけど」

 言葉にした途端、イライザの眉がかすかに動く。やはり彼女の関心は僕という存在にあるらしい。緊張がヒースに伝染しないよう、ゆっくり続けた。

「正直、ほかの適合者と髪以外で変わった特徴はないと思ってる。ただ……僕はクリーチャーに襲われない」
「それは……どの程度のことを言ってる? 襲われたことがない、という意味?」
「そのままだよ。目の前にいても、クリーチャーは僕以外を襲う。見えてないみたいに」
「そんなこと……」

 動揺を隠そうともしない。彼女は目をみはり、顎を撫でながらゆっくり息を吐きだしている。ふと視線がこちらに戻り、目が合った。

「血液は?」
「なに?」
「血液よ。見せてくれる?」
 
 突然の申し出にぞっとして後ずさる。今度は彼女が慌てる番だった。

「ごめんなさい、つい熱が入っちゃって……。その、クリーチャーの血液が固形化することは知ってる?」

 僕とヒースは顔を見合わせ、小さく頷いた。クリーチャーを撃つと、肉片だけじゃないゼリー状の塊が飛び散る。そのことは知識として既にあるものだった。

「これはいわゆる……植物と同化をする過程で起こる現象な訳だけど……。感染者であるあなたたちにも似た症状は出る。そうでしょう? つまり、茎の髪のあなたもそうなのか知りたいということ」
「いや……人間の時と変わった感じはないけど……」

 言葉を失ったまま前のめりになる彼女に驚き、慌ててヒースを振り返る。彼の表情は引きつっていたが、さすがに銃を取り出すような真似はしなかったようだ。
 僕は彼に目配せし、隣に座るよう促した。少し迷ったようだが何も言わずこちらに来て腰を下ろす。
 イライザも取り乱したことを自覚しているのか、両手で顔を覆いながら長く息を吐きだしていた。

「……驚くなという方が無理よ」
「人間の血液と変わらないことが?」
「そう。わたしが言うのもなんだけど……あなたの血液については軽々と誰かに話さないほうがいい」
「……あんたが言うのかよ」
 
 そんな重大な情報を引き出されてしまったことに苛立ちを覚えたけれど、彼女の反応がちぐはぐで調子が狂いそうになる。イライザも気を取り直すように咳払いした。

「言い方を選ばなければ、あなたはウイルス解明のための貴重な個体ということね」

 彼女の表情は真剣そのものだった。乾いた唇を結んだまま、僕から目を離さない。その瞳の輝きに、馬鹿げた希望を持ちたくなった。

「……僕の血で適合者のクリーチャー化を止められると思う?」

 途端、彼女が目を逸らす。

「それは……また話が違う」
「どうして? 試してもないのに」
「……そうね。ウイルスの全てが解明され、ワクチンができれば、状況は変わるかもしれない」

 途方もない話のように聞こえる。すべては推測であり、僕の血がなんの役に立つのかも分からない。
 それにしても、イライザの表情が気になる。彼女はまるで罪悪感でも抱いているようにこちらを見ようとしない。ようやく顔を上げたと思うと、その瞳は先ほどよりも真剣なものになっていた。
 
「もし自分に何ができるか知りたいのなら……わたしと一緒にきて」

 その瞬間、僕が考えるのはヒースのことだった。
 きみが今何を考えたのか知りたい。
 きっと僕に行ってほしいはずだ。そして、オレンジの花が変わらず保てる方法を持ち帰ってきてほしいはずだ。

「すぐに答えは出さなくていい。あなたの身の安全を保障したいけど、約束はできないから」

 イライザは諭すように言った。彼女は誤解している。危険なのかどうかはどうでもいい。
 僕はどこにいても自分に価値を感じない。だからこそ、できることに向き合うのが一番簡単で、幸福なことだと思っている。
 僕が困惑して、今にも崖から落ちそうな気分になっているのは、隣にいる白い花のせいだ。静かに呼吸をする彼が今何を考えていて、どんな返事を望んでいるか、それだけが気がかりで仕方がない。
 焚き火の熱で木が割れる音がやけに大きく響いた。僕は息を大きく吸う。

「……いつまでここにいる?」
「さぁ……少なくとも、走れるようになるまでは出発できない」
「分かった」

 これ以上の話は必要ないように思える。
 僕にとって重要なのは、あのふたりが変わらず過ごせる方法だ。何を選べばそれに近づけるのか、答えはほとんど決まっている。
 ようやく隣の彼を見た。相変わらず眉間に皺を寄せ、怯えた表情をしている。
 
「きみが訊きたいことはない?」

 僕は訊ねた。彼の瞳がこちらを向く。直視するのが恐ろしかったけれど、目が逸らせない。ヒースは動揺したように顔を伏せ、返事の代わりに首を横に振った。
 僕は立ち上がり、地面に置いた猟銃を拾い上げる。弾丸が入っていないと分かっているからかもしれないが、もうこの銃口を彼女に向けることはないだろう。

「じゃあ、また明日」

 彼女は何も言わなかった。ゆるくなった留め具が軋んだ音を立て、入り口の扉が閉まる。相変わらず厚い雲に覆われた暗闇の中を、僕らは歩いた。

「……行くのか?」

 後ろから聞こえたその弱々しい声に、思わず立ち止まりそうになる。
 
「どうした方がいいと思う?」

 ふと、ヒースの足音が遠くなったことに気づき、僕は振り返った。
 暗闇の中、その白い髪がぼんやりと浮いている。彼は立ち止まって、僕を見ているようだった。

「きみがどうしたいかだろ。俺が決めることじゃない」
「……行ってほしいんじゃないの?」

 思わず言葉が飛び出していた。暗がりの中、ヒースの表情は見えない。彼はきっと、心を見透かされたことに焦っていることだろう。
 むき出しの平野に強い風が吹いた。その冷たさに息が止まり――張り詰めていたものが切れた感覚が走る。
 崩れるのはあっという間だった。
 
 お願いだから行かないでと言って。

 頭よりも心が先に動くとはこういうことなのか。押し戻そうとしても心で跳ね返り、それは頭の中で繰り返し響いた。

 行かないでと言われたい。
 どうかそう言ってほしい。

 暗闇に一人取り残されたような気分だった。そんな僕に彼の言葉が落ちてくる。

「きみが行ったら……クレイが悲しむ」
「きみは?」

 まるで自分の体じゃないみたいだ。考える前に言葉が出ていく。頬が引きつる感覚が気持ち悪くて片手で顔を覆った。

「もちろん悲しい」
「嘘だね」

 足音が次第に近づいてくる。指の隙間から、ヒースの足元が見えた。自分の手が震えていることにそこで気づく。

「エディ?」

 僕の様子を心配してくれてるみたいだった。つい最近、寒さでクレイが動けなくなったのを目の当たりにしたばかりだから、不安なのかもしれない。それとも、クリーチャー化するかもしれないと恐怖を抱いているのだろうか。
 雲の切れ間から月が出たのか地面が青白く照らされる。その光を見ているのがあまりにも苦しくなって顔を上げた。
 ヒースと目が合う。彼はほっとしたように息を吐き、困ったように眉を寄せた。
 僕は驚く。
 その瞳も、表情も、クレイに向けるものと同じに見えた。
 
「僕と一緒に来てほしい」
 
 気づけばそう口に出していた。